満月の交信
「今日はここまで。先々週のレポート未提出の方は、できるだけ早くに提出してくださいね。質問がある方は研究室まで。」
多くの濁声でざわつく教室を出て、研究室へと向かう。研究室には、プリントアウトして読みかけの論文が雑に放置されたままだ。今日中に全部読んで内容をまとめておきたい。来週旅立つ予定のハンガリーで必要な資料だ。
私は今、約300年前に捕虜として監禁され、その後牢屋で鎖に繋がれたまま亡くなったとされるある一家の少女について調べている。歴史学において約300年前の時代の調査は決して珍しいものではなく、まるでその時代を生きたかのように詳細に語ることができる学者先生も珍しくはない。ただ、それが歴史に名を残すでもない、名もなき一般家庭のたった1人の少女の行方調査となると、あまりにも多くの困難が伴う。
何しろ資料がない。子孫の存在も行方もわからない。現地にわずかな痕跡も残っていない。私は大学の講師という肩書きを存分に生かし、現地で当時のことを知る可能性のある方をつないでもらい、情報収集に努めた。探し始めた当初はまるで雲を掴もうとしているかのような感覚だったが、調査を進めていくうちに、それは少しずつ具体的な形を見せ始め、そしてようやく少女の行方がはっきりとした形がわかるようになった。そこに至るまで約20年の歳月を要した。
私がその少女の行方を追っている理由。私をそこへと駆り立てた理由は、彼女との美しい思い出であり、甘酸っぱい青春の思い出であった。そして何より、私はその少女に謝りたかった。約300年前、若くして天に召された彼女の声、どんな些細な痕跡でもいい。彼女が残した声を拾い上げる。それが彼女への謝罪だと私は信じている。約20年にも及ぶ私の歴史学者としての人生は、彼女への謝罪のためにあると言ってもいい。そして今、私はようやくその目的を遂げようとしている。
私と少女との触れ合いは決して概念的なものではない。もちろん私の空想でも創作でもない。実際に私はその少女と300年の時を超えて心を通わせ、言葉を交わしたのだ。それは紛れも無い事実であるが、あの時私の身に何が起こったのか、うまく説明することができない。あえて説明するならば、それは神の奇跡が起こったとしか言いようがない。そして神の奇跡はある1つの条件をもって実現した。それは満月であった。
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「マイク、おいマイク、入るぞ」
父親のデイブが入ってきたとき、私はパソコンでゲームをしていた。いつもの日課だ。高校の休み時間にはスマホでゲームをするが、家に帰れば私の部屋には大きな画面のパソコンがあった。
「またゲームか」
私はデイブが自分の部屋に入ってきたことに気づいていたが、振り向きもしない。デイブが私の部屋に入ってくる理由など1つしかない。ゲームばかりしている私への小言だ。私は毎度同じ小言を聞かせるデイブにうんざりしていた。言いたいこと言って、さっさと出て行ってくれ!私は内心そのように思っていた。ところが今日のデイブはいつもと様子が違った。
「なあマイク、おまえいつから真剣に神様にお祈りをするようになったんだ?」
デイブの予想外の質問に驚き、私はゲームを中断しデイブの方を振り返った。
「確か一昨日だったか。満月が綺麗な夜だったな、仕事帰りに外から部屋を見ると、お前が夜空に向かって真剣にお祈りをして、何か話している姿が見えたんだ。お前も神様を敬う心を持つようになったな。俺は嬉しかったよ。」
私はデイブの言葉に驚いた。まさかあれを見られているとは思いもしなかった。確かにあの時、あの満月の夜、私は窓から夜空に向かって手を組んでいた。デイブのいうとおり祈りを捧げていたように見えただろう。でも違う。私は祈りを捧げていたわけではない。
「パパ、見てたんだ。まあ俺も高校生だからね。もう少しちゃんとしようと思ってさ。」
「どうだ、今度の日曜日、お前も教会に行くか。」
「あ、いや、日曜日はちょっと用事があって」
「そうか、わかった。それはそうとゲームはほどほどにしろよ。」
「わかってる・・・ねえ、パパ。」
この時私は迷った。あの日の夜、自分が何をしていたか、デイブに打ち明けるべきか、それとも黙っておくべきか。デイブはきっと私の話を真剣に聞いてくれるだろう。でも、信じてくれるだろうか。
「なんだ、マイク」
「あ、いや」
「なんだよ、なんでも話してみろよ」
「いや、なんでもないんだ。引き止めてごめん。」
「そうか、じゃあ」
私はデイブが扉を閉める瞬間まで迷ったが、結局話さないことにした。こんな話信じるはずないし、そもそも私の身に何が起きているのか自分でもさっぱりわからないのだ。
私は確かに一昨日の満月の夜、窓の枠に両肘をおき夜空に向かって両手を組んで目を瞑っていた。その姿は紛れもなく神様へ捧げる祈りの儀式そのものだ。しかしマイクにとってそれは祈りではない。私はあることをきっかけにして突然特殊能力に目覚め、その日以来雲1つない満月の夜を心待ちにしていた。
「またナンシーとお話できるかな。」
中央ヨーロッパに位置する国、ハンガリー。周辺をオーストリア、スロベニア、ウクライナなどと隣接する内陸国であり、国土の大部分はなだらかな丘陵。肥沃な農地が広がる農業国である。今から約300年前1700年代、ハンガリーはオスマン帝国の支配下にあり、ハンガリーの独立を勝ち取ろうとする国軍との争いでどの地も戦火に見舞われる危険があった。
首都ブタペストから東に150kmほどの場所にある小さな農村。畑が広がるその地は民家もまばらで、特にウィンザー一家が住む地ははるか地平線まで広がる草原、のんびりと流れる小さな小川、悠然と立つ大きなカシの木が特徴の美しい地であった。そしてその一家はレンガ造りの小さな家に住んでいた。
今のように街灯などない当時は、夕飯時になると外は暗闇に包まれ、燭台の明かりだけが限られたわずかな活動を可能にしていた。ただ、夜空に月が輝く日になると周囲はおぼろげな月光に包まれた。特に満月の日になると月光は強く、それは人智を超えた何か特別な力のようにも感じられた。そんな満月の夜をナンシー・ウィンザーは心待ちにしていた。
「マイク、マイク、聞こえる?」
「ナンシー、聞こえるよ、マイクだ」
「よかった!お昼ちょっと雲が出ていたからちょっと心配してたんだ。」
「そっか、こちらは朝からずっと雲1つない青空だったよ。」
「マイク、もしかして今日何かいいことあった?」
「わかる?」
「うん、だって今私の胸すごくワクワクしてるもの。」
「そうなんだ!以前友達のみんなと一緒に船に乗ったことがあってね、今日学校でその時の話をしたんだ、すごく楽しかった!」
「船?船って海を走る船?すごい!マイクって海の近くに住んでるの?」
「ううん、海までは遠いよ。でもね、車でとばせばすぐに着くよ。」
「車って・・・この前マイクが言ってた鉄の箱?本当に馬の何倍も速く走るの?」
「うん、馬よりもずっと早いよ!僕は馬に乗ったことないけどね。」
「私もない。でも一番上のお兄さんは兵隊だから多分馬に乗っていると思う。」
「あ!ごめん、ちょっと悲しい話になっちゃったね。今ナンシーの気持ちが僕に伝わった。」
「ううん、でも早く帰ってきてほしい・・・」
「そうだね・・・」
雲1つない満月の夜、私とナンシーは300年の時を超えて互いに言葉を交わすことができた。いや、言葉だけではない。互いの気持ち、感じていることがそのままダイレクトに伝わり、感情を共有することができた。だから、私とナンシーの間に嘘偽りはなく、どんなことでも素直に話した。その時の感情がダイレクトに伝わるのだから、そもそも嘘をつくことができない、とも言える。
私とナンシーとの関係はいかなるものだったか。私たちの関係を現実のものとするためには満月の夜という状況が必要であり、それは儚く脆い絆のように思われるかもしれない。しかし私は、ナンシーと親や兄弟以上のつながりを感じていた。もはや一心同体といってもいい。それほど互いの感情まで共有できる関係は、強固だということだ。
私とナンシーの交信は時に夜を徹して続くこともあった。もちろん満月自体は数十分もすれば姿を消すが、どうやら満月から放出される光の力は一晩中継続するようだ。そんな満月の力の恩恵を受けて、私たちは時に一晩中話し続けた。あまりにも楽しくて話が全く尽きないのだ。もちろんその気持ちはナンシーも同様であり、私は自分のワクワク感と同時にナンシーのワクワク感も感じることができた。一晩中話をすれば、途中で眠くなるものだが、私たちは眠気すら忘れることができた。それに眠くなったとしてもそのタイミングも同じなのだ。
「あ!そろそろ朝日が昇ってくる。」
「そっか、そろそろナンシーの声が途切れちゃうね。」
「そうだね、また次の満月の時にお話しましょう。」
「うん、楽しみにしてる。なんだか急に眠くなってきちゃった。」
「私も。これからお水汲みに行かなくちゃいけないのに・・・ふふふ」
「ははは、僕も学校に行かなくちゃ、それじゃあナンシーまたね。」
「マイク、またね。」
日の出とともに私とナンシーの満月の交信は途絶えて、互いの日常へと戻っていくのだ。
いつの満月の時だったか、私たちは互いの夢の話をしたことがある。300年前の女性がどんな夢を見るものなのか、ということも興味の1つだが、私は単純にナンシーの夢を聞きたかった。
「ねえナンシー、君の将来の夢ってなに?」
「夢?うーん、そうねえ、ママみたいになることかな。」
「君のママ?君のママはどんな人?」
「すごく尊敬している。頼れるし、優しいしどんなことでも話せる人・・・かな。」
「そうなんだ!僕のママも優しいよ、ちょっと厳しいけどね。」
「あとね、子供を産みたい!」
「そっか、でもナンシーなら簡単に実現できそうな夢だけどね。」
この時、私にナンシーの悲しい感情が伝わってきた。どうやら不用意な発言だったらしい。
「ねえマイク、あなたの住む300年後の世界で戦争は起こってる?」
「他の国で戦争はあるみたいだけど、僕の国では戦争はない。」
「あのね、私の住む世界では、ハンガリーもそうだけど、周りの国のほとんどが激しく戦争しているの。だから私のお兄さんも戦争に行ってる。今私が住んでいる村は穏やかだけど、いつ隣の国が攻め込んでくるかわからないの。パパもママも近所の人もみんなそう言ってる。だからね、ここでは子供産むことは大変なことなのよ。私はすごく大きな夢だと思ってる。」
ナンシーの悲しい感情が私に流れ込んでくる。
「ナンシー、ごめんね。今僕は君を悲しませた。ナンシーの感情がすごく伝わってきたよ。」
「ううん、いいの。300年も時代が違うのだから、仕方ないよね。ねえ、マイクの夢ってなに?」
「僕の夢?僕は飛行機が好きなんだ。だから飛行機のパイロットになることかな。」
「飛行機?それってこの前話してくれたよね。空飛ぶ鉄の箱のこと?」
「そう!人を乗せて鳥みたいに大空を飛ぶことが出るんだ!」
「素敵!私も乗りたい!」
「うん、僕もナンシーを乗せたい!ナンシーと一緒に世界中を旅したい!」
「300年も経つとそんなことができるようになるのね!羨ましいわ。」
「でも、僕とナンシーはこうして心が繋がっている。きっとナンシーも僕の喜びとか興奮を感じることができるよ!」
「そうね、楽しみにしてる!」
ナンシーはどんなことでも私に話してくれた。私もナンシーには素直になんでも話すことができた。けど、たった1つ、ナンシーに話さなかった私の夢があった。当時の私はそれを自分の最大の夢として認識していた。なぜナンシーに話さなかったか。決してかなわないということも理由の1つだが、当時思春期を迎えていた私は恥ずかしくてとても口にできなかったのだ。その夢とは「ナンシーと結婚すること」だったからだ。
ナンシーとの交信はもう1年以上にも及んだ。満月の夜という条件があるため交信は月に1日。満月が雲で覆われてしまうと交信ができないが、不思議と毎月満月を見ることができた。時々うっすらと雲がかかることもあるが、声が途切れるだけで交信はできた。電波状況の悪い場所でのスマホ通話のようなものだ。
ナンシーとの会話を楽しんだ翌日から、翌月の満月の日を心待ちにする。ナンシーとの会話を楽しみにすることで私の日常生活にも良い影響を及ぼした。ゲームばかりの毎日だった私の日常は大きく変化し、積極的に外に出て友人たちとスポーツやショッピングなどの活動を行うようになった。私にとってナンシーは掛け替えのない人となっていたのだ。
待ちに待った月に1回の交信。夜空を見上げると満月が美しく輝く。自分の部屋の窓を開けて、早速ナンシーに呼びかける。ところがナンシーからの返事がない。何か急用でもできたのかとしばらく待って、もう一度交信を試みるがやはりナンシーからの返事はない。一体どうしたのか。ナンシーが私との交信に飽きてしまったのか。いや、それはあり得ない。なぜなら先月の交信の時にナンシーの感情は私に伝わっていた。今や、ナンシーの気持ちは誰よりも私が分かっているのだ。
その日、一晩中ナンシーに話かけ続けた。夜が明ける寸前まで話しかけた。ほんの少し声を聞くだけでもいい。私はそれこそ神に祈るような気持ちで、ナンシーに話しかけ続けたが、結局ナンシーからの返事はないままだった。
翌日私はナンシーの返事がない理由を考えた。2つの理由が考えられた。それはナンシーの方が悪天候に見舞われたこと。満月が完全に雲で隠れてしまうと満月の力の恩恵を受けることが出来ず、交信はできない。もう1つは、ナンシーの身に何かが起きたこと。考えたくもないが、ナンシーが生きる時代背景を考えると、あり得ないことではない。
それから1ヶ月が経過、満月の夜を迎えた。今度こそは、と私はナンシーに話しかけた。しかし返事はない。この日もまた夜が明けるまでナンシーに話しかけ続けたが、結局ナンシーからの返事はなかった。
それから3ヶ月、満月の夜を迎える毎に私はナンシーに話しかけ続けたが、ナンシーからの返事が届くことはなかった。
ナンシーとの交信が途絶えてから、私の日常生活は荒れた。というよりも、なにもする気が起きなくなってしまったのだ。友人たちと外出することもなく、スポーツすることもなく、ただひたすら家に閉じこもった。ゲームすらしなかった。そんな私を見たデイブは心配し何かと声をかけてきたが、私の耳にはなにも届かなかった。というよりもなにも理解できなかった。
ナンシーとの交信が途絶えてもう半年以上、私はもう半ば諦めかけていたが、それでも蜘蛛の糸のような細い望みをつないで、この日の夜もナンシーとの交信を試みた。やはりダメだった。なんども交信を試み、時間を見ると朝の3時。諦めて窓を閉めようとしたその瞬間、ついに来た。ナンシーからの返事だった。
「マイク!聞こえる?マイク!」
「ナンシー!!よかった・・・やっと声が聞けた・・・」
「ごめんねマイク、今マイクの気持ちがすごく伝わってる。こんなにも喜んでくれてありがとう。」
マイクは言葉を返そうとした。しかし、できなかった。ナンシーの辛く悲しい感情がマイクに一気に流れてきたのだ。
「マイク、わかる?」
「うん、ナンシー一体どうしたの?」
「私、今家にいないの。」
「どこにいるの?」
「牢屋にいる。ここがどこかもわからない。手と足は鎖に繋がれてる。」
「え?どうして・・・」
「マイク、ごめんね。半年以上お話できなかったよね。最後の満月の日から2週間経った時に、急に兵隊が家に押しかけてきて、そのまま連れて行かれたの。その兵士がどこの国の兵士かもわからないし、どこに連れて行かれるのかもわからない。パパもママも私もずっと歩かされて、今は牢屋。もう何ヶ月もここにいるの。」
「え・・・・」
私はあまりの悲しみに打ちひしがれた。ナンシーがとんでもない苦境に立たされていることがわかる。ナンシーの悲しみが伝わってくるからだ。
「でもね、今は見張りがいなくて、鉄格子の隙間から満月が見えて、それでマイクに話しかけてみたの。マイクの声が聞けて本当によかった、嬉しい!」
私はもう話ができなかった。ナンシーが苦境にたたされていることを知りながら、自分にできることなどなにもない。可能ならば、ナンシーが捕まっている牢屋に助けに行きたい。ナンシーを救い出したい。でもそんなことは絶対に不可能だ。それは300年前の出来事なのだ。今の最新テクノロジーをもってしても時空を超えることなどできはしない。
「ナンシー、僕は・・・」
「あ!マイク、見張りが戻ってきた。またね。」
それ以降、その日のナンシーとの交信は途絶えたままだった。私の方から話しかけてもナンシーに届くはずがない。ナンシーは牢屋に入れられていて手足が鎖に繋がれていると言った。紛れもない真実だ。とにかく私はナンシーのためになにができるか、夜を徹して必死に考え続けた。300年前のハンガリーで苦境にあえいでいる大好きな女の子に対して、私にできることはなんだろうか。
しかし、その答えが導き出されることもなく、朝日が昇り始めた。次のナンシーとの交信は1ヶ月後、もうその頃になるとナンシーは・・・私の胸は張り裂けんばかりに傷み、ナンシーになにも出来ない自分を責めた。どうにもならないのだ。
「300年前のハンガリーの女の子が牢屋に繋がれている、なんとかしたいがどうしたらいい?」などと誰かに話したところで、解決策などあろうはずがない。
もし誰かがタイムマシンを開発し、私を300年前のハンガリーに連れて行ってくれるならば、私は一切の迷いなく銃砲店から拳銃と弾丸を盗み出し、ナンシーの救出に向かうだろう。拳銃で牢屋の鍵を破壊し、ナンシーを拘束する手足の鎖を破壊し、ナンシーの手をとってどこまでも走っただろう。でも、そんなことは決して出来ないのだ。
それから1月が過ぎ、私は窓を開け満月を眺めた。そしてナンシーとの交信を試みた。この時私は、ナンシーのためにできることの1つの答えにたどり着いていたのだ。それはナンシーの声を聞くこと、そして私の声を届けることだった。今ナンシーがどういう状況にいるかわからない。ただ、今もナンシーが苦境の中にいるのであれば、彼女と交信することこそ私にできるたった1つのことなのだ。たとえナンシーの声が聞こえなくとも、私は自分の声を届け続ける。そう誓った。
「ナンシー、ナンシー、僕だ、マイクで聞こえる?」
私はもう迷わない。私にできることをやり続けるだけだった。一晩中声をかけ続ける、と覚悟を決めたその時、私にこれまでにないほどの強烈な負の感情が一気に流れ込んできた。
「う・・・・ぐ・・・・ナンシー、聞こえる?ナンシー」
「マイク、良かった、聞こえるよ、マイク」
「ナンシー、大丈夫?」
「うん、もう痛みも苦しみもないの、ただすごく悲しくて・・・」
「今も牢屋に?」
「うん、ごめんね、私の悲しみがマイクに伝わっちゃったかな?」
「俺は大丈夫、ごめんね、僕にはなにも出来ない・・・」
「ううん、マイクは私に話しかけてくれたし、私の悲しみを引き受けてくれた。だから今はとても安らかな気分なの。」
「そっか、それなら良かった。」
「ねえマイク」
「なに?」
「ありがとう・・・」
それ以降ナンシーの感情が私に伝わることはなかった。私にはわかった。ナンシーは天に召されたのだ。その日、私は朝日が昇るまで泣き続けた。ナンシーから流れた強い悲しみが私の中に残り続け、そしてそれは私自身の感情でもあったのだ・・・
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あの時から20年、私は今ハンガリーの首都ブタペストから東に約150kmに位置する片田舎にいる。地平線まで続く農地の中にポツンとたつ民家、そこにナンシーの子孫の方が暮らしている。私は、わずかながらのつながりを頼りに調査を続けた結果、ナンシーの血筋の方から話を聞くチャンスにめぐり合うことが出来たのだ。
ナンシーの子孫にあたるそのおばあさんは、ナンシー自身の子孫ではない。ナンシーは生涯子供を産まなかったからだ。ただ、ナンシーの一番上の兄は戦争に行き、大きな戦果を挙げて地元では英雄として崇められていたということだった。そしてその兄には5人の子供がいて、一番上の女の子は幼い頃ナンシーに可愛がってもらっていた。ナンシーから見ると姪っ子にあたる。
そしてそのおばあさんは、ナンシーに可愛がってもらっていたその姪っ子を祖母にもつ方だ。
「私のおばあさんの小さい頃の話だからねぇ、もう何年前の話になるのか・・・確かに私のおばあさんが可愛がってもらっていた人の名前がナンシーだったと聞いたよ。」
「そうでしたか。そのナンシーさんについて他に何かわかりませんか。どんな些細なことでも構いません。」
「そうだねえ、そのナンシーって人はすごく優しくて子供好きでね、それで働き者だったって聞いたよ。でね、ちょっと不思議な人だった。」
「不思議な人、ですか。」
「なんでもね、満月が大好きだったって。満月の日の夜になるとね、朝日が昇るまでずっと起きて夜空を眺めているんだって。満月なんかすぐに消えるのにそれでもずっと夜空を見上げて、なんか誰かと話しているようにも見えたそうだよ。」
「そうですか・・・」
「それから隣国に攻め込まれた時に一緒に連れて行かれて、牢屋で亡くなったって話だね。まあ、当時はそんな話いくらでもあったけどね。ただね・・・」
「ただ?」
「英雄だった兄が軍を引き連れて、ナンシーの救出に向かったらしいけど・・・助けた時にはナンシーはもう死んでたらしいんだけど、なんだか不思議なんだ。」
「不思議?」
「ああ、牢屋に他にも何人もいて、そのほとんどが飢え死にしちゃってたらしいけどね、ナンシーの死に顔は笑ってたって。」
「え・・・」
「だってさ、不思議じゃないかい?飢え死になんて苦しい死に方だよ!それなのに死ぬ前に笑うなんてさ。なんで笑えたんだろうって、噂になったって話だよ。今となっちゃもう誰もわからないけどね。」
この時、私の中に溢れてくる感情で涙が止まらなかった。20年以上わからなかったナンシーの死の謎がわかったこと、そしてナンシーは死ぬ前に笑うことが出来たということに私はホッとし、そして嬉しかったのだ。
「あんた・・・一体どうしたんだよ。」
「おばあさん、そのナンシーさんのお墓はどちらにありますか?」
「ああ、それならここから西に10kmほどのところの墓地にあるよ。行くのかい?」
「はい、祈りを捧げようと思うのですが・・・」
「無関係な人が祈ったって仕方ないと思うけどね・・・まあ、好きにしな。」
「ありがとうございました。」
それから私は車を走らせた。農地しかない片田舎を車で飛ばせば、10分ほどで墓地に到着する。そうして私はナンシーが眠る墓地にたどり着くことが出来たのだ。もう私の声がナンシーの耳に届くことはないし、ナンシーの感情が私に流れ込んでくることもないが、それでも私の心は満たされていた。
「ナンシー、ここにたどり着くまで20年かかったよ。僕はどうしても君に謝りたかった。あの時君を助けることが出来なかった自分がどうしても許せなかった。自分を責め続けた。でも、君は天に召される前に笑うことが出来たんだね。それを聞いて、僕はようやく自分を許すことが出来たんだ。」
私とナンシーの関係にもう満月の力は必要なかった。