何も始まらない物語 ver.3
タイトル通り。
何も始まらない物語。
導入部のみの習作その3。
「──航太。私達、少しの間距離を置きましょう」
莉嘉がそう切り出したのは五月最初の週末、GW最終日のことだった。
俺にとってはまさに青天の霹靂ってやつだ。
莉嘉とは大学二回生のときに同じゼミで知り合った。それからしばらくの間友達の期間を経て、恋人として付き合うようになってもうすぐ二年になる。
俺達はこの春大学を卒業し共に無事就職を果たしていたが、お互い慣れない仕事に忙殺される日々が続き、四月にまともなデートをしたのはたったの一回きり、五月に入ってからも上手く予定が合わず、ようやく会えたのが連休最終日の今日だった。
今日は午前中に落ち合い、久しぶりのデートを楽しんだ──少なくとも俺は。
莉嘉も楽しんでいるように見えた──少なくとも俺には。
現に、夕方になれば俺達はいつも通りの距離感で肩を並べ、俺が大学時代から住んでいるアパートまで一緒に帰ってきた。
この後の予定は特に決めていなかったが、たぶんいつも通りなら莉嘉の作ってくれる飯を食うか、莉嘉が面倒だと言えば出前のビザでも取って、あとはまあテレビでも見ながらダラダラしているうちに何となく“そういう”雰囲気になって、セックスまで雪崩れ込むんだろうと思っていた。
だから、アパートの部屋に着いた時点で俺が気にしていたことなんて「ゴムまだ有ったっけ」とか、せいぜいそんな程度だ。
「は? ……え、どうして」
──だから、こういう間の抜けた反応になる。
「私ね、今仕事が楽しいの。そりゃ、すっごく忙しいし、めちゃくちゃキツいんだけど、楽しくて楽しくて仕方ないの──」
「……うん」
それは……知っている。特にやりたいこともなく、ほとんど就労条件のみで就職先を決めた俺とは違い、莉嘉はかねてから目指していたアパレル系上場企業に入社し、夢への第一歩を踏み出したところだ。その充実ぶりは端から見ても窺える。
「──だから……ね?」
莉嘉がじっと俺を見つめている。
俺もじっと莉嘉の瞳を見つめた。
(「だから、ね」か……)
頭が、心が、急速に冷えていく。
ぴんときてしまった。これはもう、つまり、“そういうこと”なんだろう。
「……わかった」
「えっ、いいの……?」
「いや、いいのって。お前が言い出したんじゃん」
「……そうだけど」
おいおい……自分で言い出しといて、何でちょっと驚いてんだよ。あれか、俺がもっと女々しくごねるとでも思ったか。だとしたらさすが莉嘉、俺のことを良く知っている。
ああ、そうだよ……そうですよ。ごねたいさ……ごねたいに決まってるじゃないか。俺はお前が好きなんだ。でも、ここでごねたら格好悪いし惨めだろうが。
「まあ、あれだ。莉嘉ほどじゃないけど俺も今は仕事で覚えることが山積みで忙しいし、しんどいし。だから……まあ、お互い余裕が出来るまで一旦距離を置くってのはアリなんじゃないか。無理して会おうとしてギスるのも嫌だしな」
「…………ありがと」
とりあえず格好つけてみたんだが……莉嘉の顔を見るにどうやら強がりなのはバレバレのようだ。苦笑いすんなし。
「今日はどうすんの」
「せっかく来たけど……帰るね」
「……そっか」
「たしか、もう無かったでしょ?」
「何が」
「ゴム」
莉嘉はまたも苦笑いした。……俺って、そんなに分かりやすいだろうか?
「それじゃあ……ね」
「ん……じゃあな」
立ち上がった莉嘉を俺は二人掛けのソファーに座ったまま見送った。
廊下の先でコッコッと硬い音が鳴る。莉嘉がパンプスの爪先を玄関の“たたき”に打ち付ける音だ。傷むから靴べらを使えと何度も言っているのに、結局彼女がその習慣を改めることはなかった。
ガチャリと耳慣れた施錠音の後に、一拍置いてカシャッ──コトンッとあまり耳馴染みのない音がした。
「はぁ……」
耳馴染みはなくとも音の正体には察しがつく。俺はソファーの背もたれに後頭部を乗せ天井を仰いだ。
「なんだかなあ……」
投函物の回収は気が向いたときで良いだろう。
七月も半ばを過ぎた。いくらか職場にも慣れ、社会人としてのペースも掴みつつある今日この頃……。あれ以来、莉嘉からは何の音沙汰もないし、俺からも一切連絡は取っていない。
そもそも、個人的には事実上俺達はあの日を以て“別れた”ものだと認識している。何せ合鍵は返されてしまったし、男女関係に於ける「距離を置く」は破局と限りなくイコールだろう。俺自身の経験はさして豊富というわけでもないが、様々な媒体で喧伝されているデータがそう示している。
第一、もう二ヶ月以上経つ。一旦距離を置いたとは言え、二人の関係にまだ脈があるのなら、これまでに一度くらいは連絡があっただろう。
結局、それがないのだからやはり俺達の関係はもう終わったということだ。
(──なんて、思ってるくせに)
俺は今、莉嘉の住むアパートの最寄り駅に来ている。仕事帰り、ふと気づいたらここへ来ていた。もう長いことホームのベンチにぼんやりと座っている。退勤後の記憶がいまいち曖昧だが……退勤直後の俺は「偶然を装って一目でも莉嘉に会いたい」などという風にでも考えたのかも知れない。……あり得る。
ただ、我に返って冷静に考えれば、ここは路線図的に考えても俺が偶然で訪れるような駅ではない。つまり、残念ながら偶然など装いようがない。なんとも未練たらたらで、ストーカー的所業としか言いようがない。……我ながらやべーな。
「いい加減、帰るか……」
時刻は既に二十二時を回っている。いくら忙しいとはいっても俗に言うブラック企業じゃあるまいし、ましてや莉嘉はまだまだただの一新人だ。退勤自体はとっくにしているだろうし、帰宅するならいい加減この場所は通過している頃合いだ。今日ここで会えなかったのは、俺が来るよりも早く莉嘉が帰ってしまったか、それとも、たまたま俺が通り過ぎる彼女を見逃してしまったのか、そのどちらかだろう。
もう一つ、先にこちらの存在に気づいた莉嘉が元カレ(仮)のストーカー行為にドン引きしこっそり逃げてしまったという可能性も……まあ、なきにしもあらずなわけだが。
「いやいや」
俺は自身の精神衛生上の観点から第三の説を打ち消した。大丈夫、莉嘉ならせいぜい呆れることはあってもドン引きまではしないだろう。それに、俺に気づいたなら声くらい掛けてくるはず……。
「ああ、やめやめ──」
これ以上はドツボに嵌まる。俺は電光掲示板を見上げ次の列車の時間を確認した。
「──上りはあと十二分……下りは五分か」
俺の帰り足は上り線、莉嘉が乗って来るとすれば下り線だ。
後から振り返れば「あと一本だけ見て帰ろう」なんて、そう思ったのが良くなかったのだろうか。
「!」
五分後、俺は下り列車から降りてくる莉嘉を見つけた──が、
「え」
電車から降りた莉嘉は一人ではなかった。
「…………」
彼女は知らない男と親しげに腕を組んでいた。
「……なんだよ……そういうことかよ──」
その男は見た感じ俺達よりも一回り上の年代で、振る舞いにも雰囲気にもずいぶんと余裕があった。服装もやけにこなれていて、いかにも“業界人”といった風だ。おそらく職場の上司か先輩か……たぶんその辺りだろう。
莉嘉もしばらく見ないうちにかなり“向こう側”に染まったように見える。もはや別世界の住人といった感じだ。
「──クソビッチが……っ」
変わってしまったのだろうか──それとも元から素養があったのか。それはともかく、こんな女だとは思わなかった。
「えっ……、航太!?」
「誰?」
気がつくと、俺は二人の前に立ち塞がっていた。
「よう」
俺は“たぶん”にこやかに声を掛けた。
「……ぐっ、偶然ね」
「莉嘉……彼は知り合いなの?」
莉嘉は驚きと焦燥を押し殺したような──引き攣った笑顔を浮かべ、連れの男はただただ困惑した様子で莉嘉と俺との間で視線を行ったり来たりさせている。
それにしても面白いのは莉嘉の言葉だ。
「はっ、偶然……偶然、ねぇ……」
俺が偶然こんな場所に居るなんてあり得ない──ついさっき、自分自身がそう考えていただけに、俺は思わず笑ってしまった。
「…………何がおかしいのよ」
莉嘉が気味の悪いものでも見るように俺を睨む。──虚勢だ。顔色は悪いし瞳にははっきりと怯えの色が浮かんでいる。こいつにこんな顔を向けられる日が来るなんて。人生ってのは本当にままならないな。
「いや、別に。それより、隣の紳士はどちらさん? 紹介してよ」
「……あなたには関係ないでしょ」
「関係ない? ……まあ、確かに関係はないかもな」
確かにこれまで何の関係もなかったし、これから先も関わり合っていくつもりはない。その点は莉嘉の言う通りだ。
「──君っ、さっきから何のつもりだ」
おっと、関係ない男がお怒りだ。
「いや、あんたこそ何のつもり? 関係ないだろ? 俺はこの女に用があるんだけど」
「関係ならある! 僕と彼女は恋人同士だ」
「……ふうん、へー。莉嘉の彼氏さん? そうなんだ。お名前は?」
「…………佐々木だ。君も名乗ったらどうなんだ」
なんだよ。大人の余裕か? 俺と莉嘉がただならぬ関係なのはとっくに察しているだろうにやけに紳士的じゃないか。……気に食わねえ。
「ああ、こりゃ失礼。御崎航太です。ご存知ないかもしれませんが──俺も莉嘉の彼氏なんですよ」
「は?」
佐々木の目が点になった。
「ちょっ、航太!!」
「くはっ、はっはっは!」
ざまあ! 言ってやったぜぇえええ!!
莉嘉はこれまで以上に顔色を悪くし、佐々木は先ほどよりも更に困惑の度合いを深め俺を見たり莉嘉を見たりと忙しい。
「……うっ、嘘よっ!! 佐々木さん、こんな奴の言うことを信じないで! こいつはストーカー……そうよ、ストーカーなの! 大学のときちょっと優しくしたらなんか変に勘違いされちゃって……」
ストーカー!!
「お前(上手いこと言うなあ)」
思わず感心する。言うに事欠いてストーカーときたもんだ。確かに俺自身、今日の自分はストーカー的だと思っていた。でもさ、さすがにその言い分は苦しいだろ?
せめてしおらしい態度でも見せてくれれば適当なところでフォローを入れて引き下がってやっても良かったのに。──それがお前の本性なのか?
お前がその気なら……ああ、俺もとことんやってやるよ。
「──佐々木さん、こいつはこんなこと言ってますがね、仮に俺がストーカーだとして、ストーカーとその被害者はこんな風に写真を撮ります?」
俺はスマホの画像フォルダを開いて、以前のデート中に撮った莉嘉との様々なツーショット写真を見せてやった。過去の二人が仲睦まじく笑っている。
「ほら、ほら、ほら、これも……ね?」
「っ……」
佐々木が息を飲む。
「ちっ、違うのっ! それはどうしてもって頼まれたから撮ったヤツで」
莉嘉……お前、頼まれたらストーカーとも写真撮るのかよ。
「あっ、こんなのもありますよ?」
「ん゛な゛っ!?」
佐々木が絶句しながら思いきり目を剥いた。
「ちょっ、航太!? あなた──何を!?」
莉嘉がぎゃあぎゃあ騒ぐので同じものを見せてやる。
「──────!!」
写真を見た直後、莉嘉の表情は驚愕、絶望、悲哀、後悔、憤怒、それら全ての感情を孕んでいるようでいて、しかし一概にはそのどれにも当てはまらない、言葉では到底言い表しようのない凄まじい有り様であった。
撮ったときは悦んでたくせに何て顔だよ。それにしても──なるほど。これが所謂リベンジポルノってヤツか。まさか自分がやることになるとは思わなかったが効果は絶大だ。復讐は何も生まない? 倫理? そんなものは糞食らえだ。
ざまあざまあざまあ───気分は最高だ。
俺は仄昏い歓びを覚えた。
お目汚し失礼しましたm(_ _)m