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今度は私が「何で」と問う番だった。彼から放たれた言葉がにわかに信じ難く、数秒固まる。
津山くんは私の両手首を掴むと、そのままぐっと体重をかけてきた。
「やっと……やっと加夏ちゃんと、好き同士になったのに……」
ぽたぽたと彼の涙が落ちていく。
体が重たい。手首が痛い。だけれど、津山くんの手はずっと震えていた。まるで――これ以上、力を加えてはいけない。そう我慢しているかのように。
「邪魔されてたまるか……俺はずっと、あいつよりずっと、加夏ちゃんのこと」
顔が迫る。呼吸が近い。
「加夏ちゃんのこと、ずっと、誰よりも好きだよ」
それが彼の、最終的に行き着いた結論だった。
ゼロ距離になった刹那、唇が重なる。彼の息が、手が、心臓が、ずっと怯えるように震えている。
「……何で、」
僅かに離した唇で、彼が嘆く。
「何で、逃げないの……」
キスの寸前、緩まった手首の拘束。浮いた体重。
ああ、やっぱりって、思ってしまったよ。津山岬には、人を傷つけることなんてできっこないんだから。
こんな時にまで遠慮しなくていい。私に選択を与えなくていい。もう君は、私に対して下手に回らなくたって、いいんだよ。
私が体を起こすと、津山くんは特にそれを咎めることもなく、呆けたように俯いていた。
「岬」
なだめるようなトーンが混じっていたからか、私の呼びかけに、彼はびくりと肩を跳ねさせた。案の定、恐る恐るといった具合に上がった視線から、内省の気配が読み取れる。
私は精一杯口角を上げた。うまく笑顔をつくれていたかは分からないけれど、今の彼のためなら、ハリウッド女優にでもなってやろうと思った。
そうして、すっかり小さく丸まってしまった彼の背中に両腕を回す。一瞬動揺したのか、身じろぎをした彼を封じるように、ぎゅう、と力強く抱き締めた。
「加夏ちゃ――」
「好きだよ。私は、岬が好き」
ねえ、私たち、本当はきっとそこまで相性は良くないね。おんなじこと何回繰り返すんだろうって、自分のせいだけれど、この先も多分そう思う。
でも、あの時とは違うからね。もらった気持ちを返したいっていうよりも、きちんと自分の気持ちを伝えていきたいんだよ。
「前は岬と同じじゃなかったかもしれないけど、今は同じ。これくらい、好き」
俺のこと、ちょっとは好き? って、浮かれたように聞いてきた彼を思い出す。
あの時は少し、首に腕を回しただけだった。今はもっとちゃんと、しっかり両腕で彼を受け止めて、体温を分け合っている。
届くかな。伝わってるかな。
気持ちの分だけ、無限に心拍数が上がっちゃえばいいのに。そうしたら目に見える形で、おんなじだねって、確かめ合えるのに。
でも、そんなことしたら死んじゃうから、もう一度ちゃんと言おう。
「私は、津山岬が、この世界で一番好きです」
不確実な感情も、移ろいやすい恋情も。この世に絶対なんてないし、明日の保証もない。それなのに、彼は軽率に「ずっと」と言うし、私も簡単に「一番」なんて言う。
そうやって言葉にしていくことが近道であるし、幸せを創っていくことになるんだろう。
そして、幸せになるんだとしたら、幸せにするんだとしたら、津山岬、君しか考えられない。
「……なん、で……」
私の背中にそっと手を伸ばして、津山くんが言い淀む。
「何で怒んないの……俺、無理やり、」
その先はなかった。私が、彼の唇を塞いだから。
「無理やりじゃないよ」
目の前の瞳が大きく揺れる。
私が岬としたいと思ったから、逃げなかったの。
彼の耳元に口を寄せてそう囁けば、津山くんは耐えかねたように私の肩に顔を埋めた。腕が背中に回って、服に皺ができてしまうんじゃないかというくらい、強くしがみつかれる。
やがて嗚咽が漏れ出して、その背中をあやすように摩った。
「加、夏ちゃ……っ」
「うん」
「ごめ……好き、」
「うん。私も、ごめん」
短い髪を整えるように、彼の頭を優しく撫でる。
可愛いというよりも、愛しいという感情が自分の中に確かにあった。そして、それが愛なのかもしれないな、と傲慢なことを思った。
ひとしきり泣いた後、ゆっくり顔を上げた津山くんが、物欲しそうに目を合わせてくる。
さっきまで子供のように喚いていたのに、今の視線には雄々しいものが含まれていて、少したじろいでしまった。
「……加夏ちゃん、」
「だ、だめ。あの、もう、行かないと」
途端、不安げに眉尻を下げた彼に、「大丈夫」と声を張る。
「絶対戻ってくる。話し終わった後、戻るから」
「でも、」
「今日はここに泊まる。……だから、迎えに来て」
そこまで伝えると、津山くんは納得したのか、こくりと一度だけ頷いた。
「約束」
体を離してから、小指を差し出す。
ややためらいながらもこちらに伸びてきた彼の指をさらって、指切りげんまん、と幼少期以来にその歌を口ずさんだ。
「じゃあ、行ってくる」
「加夏ちゃん」
背を向けた拍子に呼ばれて振り返れば、津山くんは自身の濡れた頬を手の甲で拭い、控えめに口角を上げた。
「いってらっしゃい」
最後に来たのはいつだったんだろう。久しぶりに入った店内は随分と内装のデザインが変わり、洗練された印象を与えてくれる。
相手は既に中で座って待っているとのことだった。
手前の一番端から一つずつテーブルを目で確認していると、店員が見かねたようにやって来る。待ち合わせです、と告げた私に、納得した様子で奥のカウンターへ消えていった。
「遅くなってごめん」
窓際の奥から二番目。入口の方を向いて座っていてくれたから、比較的分かりやすかった。
一言詫びてから彼の向かいに腰を下ろせば、相良くんは静かに首を振る。
「いや、大して待ってないよ」
「……あの、本当に私が言うことじゃないんだけど、」
「あー、待って」
こちらに手の平を向けて私の言葉を遮った彼は、メニュー表を掲げた。
「とりあえず先に何か頼もう。お店にも悪いから」
「あ……うん、そうだね」
自分は思いのほか気が急いているらしい。いやそれとも、相良くんが冷静なのだろうか。
そういえば彼はこんな人間だったな、と妙なタイミングで実感する。そつがない、というか、会話の主導権は大体彼だ。
「西本は、カフェオレだっけ?」
今しがた頼もうと思っていたドリンクを言い当てられ、面食らう。
どうして、と呟いた私に、相良くんは苦笑しつつ、店員呼び出し用のボタンを押した。
手早く注文を終わらせた後、真向かいの相手は目を伏せる。
「……覚えてるよ。好きだった人の、好きなものくらい」
それは恐らく、数年越しの自白だった。
わざわざこうして話し合いの場を設けてまで嘘をつくような人には、到底思えない。とはいえ、鵜呑みにするのもためらわれた。だって私は、彼のせいで何年も暗い靄を抱えていたのだから。
「俺はずっと、西本にちゃんと謝りたかった。謝らなきゃ、いけないと思ってた」
木目調が目に優しいテーブルの上、相良くんの骨ばった長い指が組まれて、願い事でもするかのように固く握られている。
「ごめん。本当に、ごめん。謝って済む話じゃないかもしれないけど、……これは俺の自己満足なのかもしれないけど、西本の顔を見て、謝りたかった」
頭を下げた彼が、言い終わってからゆっくりと姿勢を戻す。
私が声を発しようとした時、頼んでいたドリンクが運ばれてきて、口を噤んだ。
相良くんが頼んだのはアイスコーヒーで、少なくとも中学時代は絶対にコーヒーなんて飲んでいなかったと思う。そこに嫌でも空白の時間を感じずにはいられなかった。
「……私のこと、好きっていうのは、」
「うん。好きだった。あの時、男子の間で悪ふざけがあったっていうのは、どうしようもない事実だけど」
グラスの水滴がしたたり落ちて、テーブルに着地する。
「三浦が、西本に告白するっていうから……そんなんで西本が傷つけられるの、すっごい嫌だなって思った。だから、『それなら俺が告白する』って言っちゃって」
冷静ではなかったと思う、と、彼は当時の自分を振り返った。
「西本に気持ち伝えるタイミングもずっと見つけられなくて、乱暴だけど、これが良い機会なのかもしれないって……それであの日、西本を呼び出したんだ」
「……相良くん」
「だから、あの告白は本当に、本当だったよ。って、今更言っても信じてもらえるか分かんないけどさ」
嘘つき。私は彼をそう評して、これまでずっと心の中で戦ってきた。大嫌い、とも、伝えてしまった。
そこまで徹底的に嬲り殺してきた相手への認識を即座に改めるには、脳内でかなりの混乱が必要だった。
「俺、西本のこと、好きだったよ」




