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あの人。それが誰を指しているのかは、容易に理解できた。
まさかここで持ち出されるとは予測していなかった話題に、意図せず口ごもってしまう。
「この前だって、あの人に触られてた」
「だから、それは……」
手が離れる。――離したのは、津山くんだった。
「ねえ。今ちゃんと俺のこと、考えてる?」
無機質な瞳が私を射抜く。その眼光に、ひゅ、と喉が締まった。
そんなの当たり前だ。相良くんなんて、もうどうだっていい。いま私が向き合いたいのは津山くんで、だからこそこうして態度を改めようとしていたのに。
脳内では散々言葉が浮かんでくる。そのくせ口からは何も出てこないのだから、私は臆病者だ。
頭の中で考えていることが全て言い訳じみてしまうのも、彼の問いに足をすくわれてしまうのも、本当はどうしてなのか分かっている。
私はずっと、初恋を忘れるために――鍵のかかった記憶を葬り去ってしまいたいがために、津山くんを利用しているのだ、と。
「……答えて、くれないんだね」
津山くんが苦々しく口角を上げる。
そう、私は何も言えなかった。だって、いま考えているのは、囚われ続けている記憶のことだったから。
ああ、最低だ。でも津山くんを好きになったことは、好きなことは、本当に本当だった。
自分は特別なんだって自惚れるのも、愛しさで胸が苦しくなるのも、津山くんを好きになって初めて知ったこと。
不甲斐ない。情けない。みっともない。今までこんなに自分を卑下したことがあっただろうか。それくらい必死で彼とぶつかったし、変わりたいと思って涙を流したのも初めてだった。
正解を探し続けてきた自分に、正解なんて自らの手で作り出せばいい、そんな結論に至らせるほど、目の前の彼は私にとって大事な人だ。
津山くんが私の腕を取る。そして唐突に歩き出した。
「え――な、なに、どこ行くの」
顔を逸らす寸前の、彼の空虚な目が忘れられない。掴まれた箇所は少し痛いくらいだ。
私の質問に、津山くんの返答はなかった。それがますます不安をあおる。
どうやら私は、一つ大きな思い違いをしていたようだ。
津山くんが強引に私の手を引くことはない。そう思っていたけれど、今の彼は強引と言う以外、何と表現すればいいのだろう。らしくない、ということだけは確かだ。
振り払う空気でもないし、振り払えそうにもない。足早に進んでいく彼に、黙って引っ張られることにした。
「入って」
そう促されて、背中を押されるがまま中に踏み入る。
意外にも――というべきか、辿り着いたのは津山くんの家だった。
駅を降りて歩いている途中から薄々気が付いたけれど、一体わざわざ帰ってきてどうするのだろう。ゆっくり話し合い、となると、逃げ場はない。
そろそろ覚悟を決めるべきだろうか。浅く息を吐いて、そう思った時。
背後で鍵を閉める音と共に、金属音がした。
振り返れば、ドアチェーンがしっかりとかけられている。
「……どうしたの?」
念入りに施錠し終わった津山くんが、ゆっくりとこちらを見やった。
どうしたの。それは、私が聞きたい。
前に私が来た時はドアチェーンなんて使っていなかったはずだ。どことなく不気味さを覚えて、息を呑む。
「あの、……どうして、そんなに鍵」
「加夏ちゃんとの時間、邪魔されたくないし。それより早く上がって」
物々しい口調に気圧される。慌てて靴を脱いだ。
部屋の真ん中に恐る恐る腰を下ろして、津山くんを見上げる。
「ねえ。加夏ちゃん、あの人のこと好きなの?」
私を見下ろし、彼が問うた。面食らったものの、即座に首を横に振る。
「好きじゃない」
「じゃあ何で? 何か話してたよね。知り合いじゃないの?」
普段の柔和な彼を見慣れているがために、無表情で淡々と詰められるのが怖い。
津山くんはなおも追及の手を緩めることはなかった。
「どうして隠すの?」
隠していたわけじゃない。隠したかったわけじゃない。
ただ純粋に、もう思い出したくないだけだった。苦い記憶を切り捨てたかった。
「……だって、」
瞼を閉じる。
嘘で塗り固められた告白は、私を縛った。たった悪ふざけ、されど悪ふざけ。津山くんからの気持ちをなかなか信じ切ることができなかったのも、きっと、その呪縛のせいだ。
「だって、怖かったの……」
本当に好き? 差し出されたものを受け取って、その後は本当に大事にしてくれる?
常に半信半疑。そのうち自分の気持ちを明確にするのも怖くなって、私は避けた。
ようやく過去の呪縛を解いて、人並みに誰かを好きになれると思ったのに。
津山くんには知られたくなかった。これまでも全然上手じゃなかったけれど、圧倒的に下手くそだった頃の自分を、知って欲しくなかった。
余計な心配事で私たちの仲が振り回されないように。そう願うくらいには、好きなんだよ。本当だよ。
「何してるの?」
スマホを取り出した私に、津山くんの問いかけがぽつりと響いた。
メッセージアプリを開いて、バイト先のグループメンバーから、ある一人の名前を探す。
「ちゃんと、清算する」
宣言して、私は「相良修平」――その人に、電話を掛けた。
勢いでタップした後、離した指は震える。耳の横に心臓があるのかもしれない。それぐらい、緊張していた。
「……もしもし」
十秒ほど経ち、呼び出し音が途切れる。電波越しに聞こえた声は、存外落ち着いていた。
「西本?」
それでもやはり信じがたい気持ちはあるらしく、相手が念を押すように確かめてくる。
「……うん」
うん、と。もう一度景気づけに頷けば、沈黙が落ちた。
もう話したくない。大嫌い。そう言った手前、こちらから連絡を取るのは気まずかったけれど、清算の鍵は間違いなく私が握っているのだろう。
「どうした?」
「あの、……ごめん、こないだあんなこと言ったくせにって、感じなんだけど」
そう切り出した私に、事務連絡でも緊急事態でもないと察したらしい。相良くんは「ううん、いいよ」と相槌を打った。
「やっぱり、ちゃんと相良くんと話すべきだなって思って。私も、吹っ切れたいから」
恨みつらみだったとしても。今日全てをここに置いて、いい加減に誠実でいなければならない。そうしないと、津山くんの隣にもいられない。
津山くんがくれた純情な想いに、私はいつだって怠惰なままだった。
「そっか。……ありがとう」
どこか安堵に満ちたような声色だった。相良くんがゆっくりと息を吐き出す気配がして、それから静かに投げかけてくる。
「俺は直接会って話したい。西本は?」
「……そうだね。私も、そう思うよ」
分かった、と相良くんは受け応えた。
「いつがいい? 合わせるよ」
「今から」
「え?」
「今すぐ――しないといけないの。なるべく早く、」
もう一秒も無駄にできない。したくない。私は、自分自身にも、誰に対しても、誠実でありたいと心から思った。
「分かった」
相良くんが言う。さっきと同じ単語を、今度はさっきよりも力強く。
彼の家は当時と変わっていないらしく、中学校からさほど遠くないカフェで落ち合おうということで話はまとまった。
通話を終えて視線を上げると、呆然とした顔で立ち尽くす津山くんと目が合う。
「津山くん」
彼の名前を呼んだ。きっと、今までで一番清々しい声が出た。
どこか怯えたように揺れた瞳が、私を映して歪む。
「私、行ってくる。相良くんに会って、話してくる」
「……何で、」
「ちゃんとしたいから。津山くんの言う通り、もう隠さない」
立ち上がった私に、彼は一歩、二歩と近付いてきた。その勢いで私の両肩を掴み、双眼を見開く。
「何で? 何で行くの? 会わなきゃだめなの?」
「うん。会って話したいの」
「やだ……やだよ。そんなに会いたいの? やっぱり好きなんじゃないの?」
「違うよ」
彼の手の上から、自分の手を重ねる。宥めるように「相良くんのことは好きじゃない」と伝えたけれど、津山くんは必死に首を振るだけだった。
「やだよ……俺、加夏ちゃんが他の男と会うの、黙って見てるとかできない!」
「津山くん、」
「行かないで。ここにいてよ……」
悲しい色を宿した瞳が、切々と訴えかけてくる。
彼が不安になるのも、躍起になるのも、痛いほどよく分かった。それが全部自分のせいだということも、痛感していた。
「ごめん。……ごめんね」
津山くんはいつも真っ直ぐに向き合ってくれていたのに、それを勝手に屈折させていたのは私の方。
ずるくて、卑怯で、臆病で。分かっているくせに見ないふりもして。
随分と遠回りをしたけれど、私はやっと、自分から手を伸ばして君を欲しいと思うよ。
「加夏ちゃん、」
いっそ弱々しい叫びを受け流して、彼の手を外す。その横を通り過ぎて、玄関に向かった。
――と、
「嫌だ!!」
腹の底から絞り出したような爆発に、心臓が大きく跳ねた。純粋な驚きと共に顔だけ振り向いた刹那、既に津山くんはこちらへ向かってきていて、荒々しく床に押し倒される。
「いっ、」
フローリングに背中を打ちつけ、顔をしかめる。しかしその痛みに気を払う暇もない。
「――俺のことだけ見ててよ!」
視界いっぱいに広がった彼の姿が、鮮烈に胸を打つ。眉根を寄せ、歯を食い縛り、彼は今にも壊れてしまいそうだった。
「俺以外の男と話さないで! 俺の、俺のことだけ、……俺のこと、好きって言ってよ……」
頬に生暖かい雫が落ちてきて、どうしようもなく苦しくなる。ゆらゆらと水を溜めた彼の目から、幾筋も涙が流れた。
「……津山くん」
その水滴を拭おうと、手を伸ばした矢先。
「どうしてもあいつに会いに行くって言うなら、加夏ちゃんをここに閉じ込める」




