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「ま――待って、加夏ちゃん! どうしたの急に、」
ばたばたと騒がしい足音を立てて、ひたすらに遠ざかっていた。一度階段をあがって、講義があるとき以外はあまり人の行き来がない二階。ようやくそこで立ち止まる。
腕を離してから、私は面と向かって叫んだ。
「津山くんの馬鹿!」
「えっ」
怒鳴られるのは想定外だったらしい。びくりと肩を震わせ、彼が「ごめん」と言いかけ――やめた。
「な、何で? 俺、何かした……?」
『それ、ただ私の機嫌取りたいだけじゃん。よく分かんないけど、とりあえず謝っとけばいいかって、そんな感じなんでしょ』
前にそう言われたのを気にしているのか、彼は先に「なぜ」私が怒っているのかを確かめたいようだった。
ただ、今回はどちらかというと、私が気に食わなかった、という話なのだけれども。
「……私、津山くんの彼女じゃないの?」
「え、」
「可愛い女の子いたね。あの子たちにカノジョいるって、知られたくなかった?」
「違う!」
物凄い剣幕に、思わず息を呑んだ。
食い気味に否定してきた彼は、途端にしおらしくなって、か細い声で問う。
「だ、だって……いいの?」
「何が?」
「加夏ちゃん、俺が彼氏って、知られたくないんじゃないの?」
……それはどういうことだろう。
眉をひそめた私に、津山くんが言い訳のように付け足した。
「名倉もそうだけど、ケースケにも……一番最初は、俺と付き合ってるって、あんまり言いたくなさそうだったから」
一番最初。必死に記憶を掘り返す。
言いたくない、と思ったことはないけれど、一つ思い当たる節があった。
「いや、……普通に、恥ずかしくて」
自分から積極的に言うもんでもなくない? と、今度は私が言い訳じみたことを脳内で考える。
大学生になって周りを見ていると、別に彼氏彼女なんて当たり前なんだな、と思ったから、これまで勝手に恥ずかしくなっていた自分があほくさくなったけれど。
「恥ずかしかったの?」
「……うん」
「嫌じゃない?」
「うん」
そっか、と息を吐いた彼の頬が緩む。
「……逆に、津山くんの方が、嫌なんじゃないの」
捻くれた感情がすぐに顔を出すから困った。
面倒くさいことを言い出した私に、津山くんは「ううん」と首を振る。
「嫌じゃない。前も言ったじゃん。俺は加夏ちゃんと付き合ってるって、……彼女だって、見せつけたいよ」
性懲りもなく彼のくれる言葉に胸を撫で下ろしては、優越感に浸る自分がいる。
どうせ面倒くさいなら一度にぶつけてしまおう、と思って、私は彼の袖を引いた。
「……さっきの子」
「うん?」
「髪の毛ふわふわで可愛い子。津山くんのこと、きっと好きだよ」
その子にとられたくないから、あの場で叫んだようなものだ。彼氏なのに、彼女なのに、私はまだまだ自信がない。
「……加夏ちゃん」
「なに」
「やきもち?」
熱を含んだ瞳が、甘いトーンで確かめてくる。
そうだよ、ばか。文句あるのか。嬉しそうにしてるけど、私は気が気じゃないよ。
でも、そんなことを言えそうにもなくて、小さく頷くのが精一杯だった。
「……やば、」
思わず、といった様子で零れた独り言のようなそれに、顔を上げる。
津山くんは耳まで真っ赤になりながら、口元を手の甲で押さえた。
「どーしよ。嬉しすぎてにやけ止まんない」
きゅう、と心臓が少し、苦しくなった。
津山くんが案外、赤面症だってこと。あの子は絶対に知らないだろうな。
……絶対に、教えたくないな。
「加夏ちゃんの髪、さらさらだね」
彼の手が伸びてきて、私の毛先を弄ぶ。
「……ふわふわじゃなくて、俺は、さらさらが好きだよ」
「え、な、」
「俺の彼女が、一番、可愛い」
いちばん。その単語をわざとらしく区切って、津山くんは噛み締めるように言った。
「もー……戻ったらすぐ言う、さっきの俺の彼女って、みんなに言う……」
「そ、……そんなわざわざいいよ」
「やだ。言いたい」
出た、駄々っ子。でも今日は、私の方が我儘だったから、人のこと言えないや。
***
――もう絶対、恋なんてするもんか。
安っぽい台詞だけれど、その時の私は本気で思っていた。
中学二年になる前の、放課後の教室。
普段はすぐに部活へ行くか帰るかの二択のくせに、その日は窓の外を眺めてみたりして、ちょっと浮かれていた。
『話があるから、教室で待ってて』
当時同じクラスだった相良くんにそんなことを言われて、友達にも揶揄われて。
告白じゃん、と脇をつつかれたけれど、必死に冷静なふりをして、私は「聞いてみないと分からない」と答えた。
相良くんはクラスの男子の中で一番落ち着きがある。すぐに馬鹿にしたり下品なことを叫ぶ男子とは違って、彼はとても爽やかだ。
そしてそんな彼に、ひっそりと好意を抱いていた。
自分から告白する勇気もなければ、付き合いたいというわけでもなく、ただ漠然と「いい人だな」という感覚に近かったのかもしれない。
わたあめみたいに不確かで、でも甘さはわたあめの十分の一くらい。それが私の初恋だった。
「ごめん。お待たせ」
温厚な声と静かな足音が、教室に入ってくる。
余裕があると思われたかったのか、強張った表情筋を取り繕う時間を稼ごうとしたのか。緩慢に振り返って、私は視線を上げた。
話って何? そう問おうとした喉は震えて、うまく言葉を発することができない。
私の代わりに、相良くんが切り出す。
「……突然呼び出して悪いんだけど、その」
彼の骨ばった手が、所在なく自身の頭を掻いた。
妙な沈黙と緊張感。握った拳に汗が滲む。
相良くんの顔が上がって、背筋が伸びる。真っ直ぐ私を見据えたまま、彼は告げた。
「俺、西本のことが好きです」
言われた瞬間、あんなに揶揄われて予想もしていたのに、純粋にびっくりしてしまった。
本当に告白って、こんなことってあるんだ。シャッターを切っていたら、突然カメラを取り上げられたみたいな、そんな驚き。
むしろ私の方が呼吸の仕方を忘れてしまったように、しばらく固まっていた。
「あ、……えっと」
「俺と、付き合ってくれませんか」
胸が苦しい。
目の前の綺麗な瞳と、染まる頬と、たどたどしい言葉に、心臓が容易く絞られている。
相良くんはゆっくり目を伏せて、私の返事を待っていた。
正しい答え方なんてまるで分からないけれど、断る選択肢は、端からなかった。
「……はい。私で、良ければ」
嬉しい、とか、私も好き、とか言えれば良かったのに。
いざとなると気の利いた言葉は一切出てこなくて、ひたすらに頷く。
「……ほんと?」
珍しく目を見開いた相良くんは、もう一度頷いた私を見て、ようやくほっとしたように頬を緩ませた。
「ありがとう。嬉しい」
これからよろしく、と彼が言う。それにまた頷く。
間がもたなくなって、それを向こうも感じたのか、「じゃあ、また明日」と相良くんは教室を後にした。
私は一人、また窓の外を眺めて、でも一分もしないうちに荷物をまとめて、教室を出る。
どきどきしていた。夢心地だった。
だからわざといつも通りにしていることで、たったいま起こったことが夢じゃないと実感しようとしていた。
けれど次の日の朝、クラスで一番可愛い女子が、泣いていた。
「ほんっとにサイテー! まじであり得ないんですけど!」
「謝れよ、男子」
華奢な肩を震わせるその子を庇うように、野次が飛ぶ。
一体何事か、と眉をひそめていると、おはようもそこそこに、友達が駆け寄ってきた。
「ねえ加夏、昨日大丈夫だった!?」
「え?」
「相良に呼び出されてたじゃん! やっぱ告白された?」
どもりながらも首を縦に振れば、相手が大袈裟に顔をしかめる。
「それ、嘘なんだって。嘘告。男子が言ってた」
す、と体の芯が冷えていく。理解より先に、感性は敏感なようだった。
「もうすぐバレンタインじゃん。だから手当たり次第に告白とかしてたらしいよ。チョコ欲しかったんでしょ、まじでくだらないし最低すぎ」
つまり今そこで涙を流している子も、被害者なのだろう。あんなに可愛い子でそんな仕打ちなのだから、本当に残酷だ。
「でも相良までそんなことすると思ってなかった。三浦と畑中が言い出したっぽいんだけど……」
正直、何を話されても、右から左に抜けていくだけだ。
相良までそんなことすると思ってなかった。もう、本当に、その通り。相良くんは、他の男子と違うと思ってた。無神経に人を馬鹿にしたり、揶揄ったり、子供っぽいことは絶対にしないって、勝手に思ってた。
「だからさあ、言ったっしょ。OKされると思ってなくて、俺もビビったし。『ごめん嘘』って、謝ったじゃん」
教室の中央で繰り広げられている裁判。
男子の中でもヤンチャで悪ふざけばかりの三浦くんが、そんな弁解をしている。
「おはよう」
と、教室のドアから落ち着き払った挨拶が聞こえた。
振り返りたくない。いま振り返ったら負ける。
私の葛藤をよそに、裁判に参加していた畑中くんが声を上げた。
「おい相良! お前からも言ってくれって。別にまじで告ったわけじゃないじゃんか、しかもちゃんと謝ったし」
「……は、」
「西本は分かってんのに、本田が分かんないとか、ないわー。てかそんなまじな感じ出してないじゃん、冗談って分かるっしょ?」
何それ、最低、と再び抗議の声が飛び交う。
感情が迷子だった。唇をぎゅっと噛んでいたら、不意に肩をたたかれる。
「西本」
振り返ってしまった。
相良くんとまともに目が合って、そうしたら急に涙腺が緩む。ぼやけた視界の中で、相良くんが痛々しげに眉尻を下げていた。
「ごめん。俺、」
「……嘘つき」
取り繕うみたいに、今更悲しそうな顔をしなくたっていい。したたかだなって感想しか浮かばないから。
へえ、そう。相良くんってこういう時、あくまでも自分を守ろうとするんだね。開き直ってる三浦くんと畑中くんより、ずっとずっとタチが悪いよ。
朝のホームルームが始まるまで、女子トイレにこもって必死に気持ちを整理した。
それから男子と女子の間には明確な溝ができて、結局完全な和解はないまま、私たちは進級した。




