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背後から、唐突に耳元で囁かれた言葉。
冗談抜きに一瞬心臓が止まったかと思った。下手に大声で驚かされるよりもタチが悪い。
振り返ると同時に、どこか翳りのある瞳が私を捉える。想像からかけ離れた彼の無表情が、やけに不穏だった。
「……あ、津山く、」
「加夏ちゃん。今の人、知り合い?」
彼が私の言葉を遮るなんて珍しい。
詰め寄られて、一歩後ろに下がりながら頷く。
「……普通に、バイトの人」
「ほんと?」
「うん」
津山くんは私の答えに満足はしていないようだ。じ、と瞳の奥を覗き込むように見つめてくる。
「腕、掴まれてなかった?」
「見てたの?」
「加夏ちゃんの声が聞こえたから」
それならそうと、最初から言ってくれれば良かったのに。何だか隠し事をしてしまったようで勝手に気まずくなってしまう。
「私がちょっと、階段踏み外しそうになって。支えてくれただけ」
説明するのも面倒だし、わざわざ彼に話すようなことでもない。
無難な回答を寄越した私に、津山くんが「そっか」と呟いたから、ひとまず安心した。
「今日は忙しかった?」
「うーん、そこまで。普通かな」
彼と並んで歩きつつ、駅へ向かう。
津山くんはあの日以来、私のバイト先にこうして迎えに来てくれることが多くなった。彼のバイトの終わり時間と被った時や、そうではない時も。
だけれど、長時間待たせるのは私の中のポリシーに反する。申し訳ないし、そわそわしてしまうし。
それを津山くんに伝えたら、分かった、と了承して、彼は「優しいね」と笑ったのだ。あんまりそうは思わなかったけれど、適当に流しておいた。
「加夏ちゃん」
「なに?」
信号が赤に変わる。
足を止めて隣を見上げれば、すぐに彼と目が合った。
「今日の分、まだだよ」
薄い唇が、ふんわりと機嫌の良さそうな音を紡ぐ。
今日の分――なんのこと? と誤魔化すのは、流石にできない。だって、もう毎日繰り返されているやり取りだから。
恥ずかしいけれど、彼が求めているのならできるだけ応えたいとは、思う。こういうことを積み重ねて、自分の気持ちを彼につり合わせていけるのなら、逃げたくないとも、思う。
「……岬」
まだまだ慣れそうにない。だって、「ただのクラスメート」と「友達」である期間が長すぎた。
津山くん。それが、私の中で彼を認識する呼び名だった。
「うん」
今日も今日とて、浮かれた返事。
『俺のこと、名前で呼んで欲しい』
その願いは、あの場限りのものじゃなかった。津山くんは関係性の変化を望んでいて、毎日必ず一回、私にその特別な三音を強請る。
「もっかい、呼んで欲しい……な」
「えっ」
更に一歩踏み込んだ要望に、声を上げてしまった。
そんなことを言われたのは、一番最初にお願いされた時以来だ。私のキャパシティが少ないのを理解して、今までは一回で留まってくれていたのに。
「だめ?」
「そ、それ、ずるい」
「ええ……何で」
津山くんの「だめ?」に弱いのは、自分でもよくよく分かっていた。私より可愛いのがむかつくし、きっと私が本気で嫌がったらあっさり引き下がるんだろうな、というのが見て取れるから、何となく罪悪感がわく。
「み、岬がそうやって言う時、いっつも……負けた気分になる」
名前を単体で呼ぶのは、結構ハードルが高い。
会話に混ぜ込んで及第点で許してもらおうと思ったら、ふと見やった彼の顔がみるみるうちに赤く染まった。
「……加夏ちゃんの方が、ずるくない?」
「は?」
「だっていま、呼んでくれない流れだったじゃん……不意打ちはずるいっしょ」
知るか、流れとかそんなの。
あからさまに照れられると、こっちの方が恥ずかしくなる。
「ずるくないし」
「あ、ちょ……待って」
タイミングよく青に変わった信号に、これ幸い、と歩き出す。
津山くんが焦ったように横に並んできて、それから。
「繋ぎたい」
触れた腕と伝う指。おずおずと近付く距離にもどかしくなった。
きっと津山くんは、この先も強引に手を引くことなんてないんだろう。でもそれは、私が彼に気持ちを伝えるのを、怠っていたからだ。
「……うん」
繋がれるのを、触れられるのを待っているだけじゃなくて。繋ぎたい、触れたい、その意思があるなら、ちゃんと自分からも勇気を出していかなきゃいけない。
いいよ、と言うのも上から目線だし、私も、と言うのは照れ臭かった。その代わりに彼の手を握って、ゆっくりと頷く。
ワンテンポ遅れて私の手を握り返した津山くんの目尻が、泣いてしまいそうなくらい、優しく綻んだ。
本当に、津山くんは時々意味が分からないし、大袈裟だ。
これくらいで弱らないで欲しい。でも、これ以上はまだ心の準備ができていないから、待っていて欲しい。
一人胸中で考えていたのは結局そんな自分勝手なことで、だけれど、彼を嫌いになりたかった時と比べたら、私は少しだけ利他的になれたような気がした。
***
「ぶっちゃけさあ、津山氏とはどこまでいったの?」
お茶を一口飲み込もうとして、むせかえる。
ごめんごめん、と軽率に詫びた芽依は、あまり反省していないようだった。
まさか自分がこんなことを言われる立場になるとはな、と肩を竦める。彼氏との進捗を問われて咳き込んでいたいつかの友人を思い出して、遅ればせながら同情した。
「どうもこうも……それって第三者に言うことじゃなくない?」
「え~、私と加夏の仲じゃん。それとも、言えないことでもしたとか?」
「してないよ」
これは神に誓って本当だ。
以前津山くんの家に行った時はさすがに身の危険を感じたけれど、わんわん泣かれて服を汚されただけだった。まあそこそこお気に入りのトップスだったから、あーあ、とは思ったのだけども。とはいえ、服は洗えばいいし、あの時は目の前で泣いている津山くんの方が重要だったわけで。
「冗談冗談。てか、別にしてても全然おかしくないし」
サラダにフォークを突き立てた芽依は、あっけらかんと言ってのける。
彼女の物言いに、そういうものなのか、とこっそり納得していた。
さっきから芽依が話題に挙げているのが、キスなんて可愛いものではないことくらい、分かっていた。
……まだキスもしてないって言ったら、どうなるんだろう。
付き合うって難しいな、と常々感じる。
ただなんとなく周りや自分のことを踏まえて思うのは、順番を間違えずに進んでいくこと、清くいることが、全ての解決になり得るわけではないということだ。
だから「普通」もないし、「正解」もない。
それが、ようやく掴めてきた、私なりの誠意である。
そこまで考えた時、なんだか不意に、会いたいな、と思った。
会いたい、津山くんに。昨日の夜、顔を見たばかりだけれど。
「なんか加夏、顔赤くない?」
「…………何でもない」
柄にもないことを考えてしまって、頭を抱えた。
そんな私の様子を訝しむように、芽依が「大丈夫?」と声を低める。
「あー、うん。ごめん、大丈……」
やや視線を右方に投げた時だった。
ミルクティーのマッシュヘア。黒いスニーカーにネイビーのリュック。食堂の向こうを通りすがっていく人影に、見覚えのあるそれを見つけて思わず立ち上がる。
「なに、加夏。どしたん?」
今度は戸惑いの色を滲ませた芽依に、「ちょっと行ってくる」とだけ告げて、私は足早に目的の人物を追いかけた。
こんなに衝動的に動いてしまうのは初めてのことで、自分でも少し驚いている。
でも、だけど、どうしても。会いたいと思った今の気持ちを、大事にしたかった。僅かに芽生えたこの温かい感情を、気のせいだと消してしまいたくなかった。
曲がり角を左に行って、見えた背中。今日も彼は周りに沢山の友人を抱えている。
「津山くん、」
私が口を開いたと同時に、前方の集団から笑い声が上がった。断片的にしか会話は聞こえないけれど、なかなかに盛り上がっているようだ。
その空気に気圧されてしまい、足が止まる。
「で、それを見た先輩が……」
「厳しすぎ! 俺だったら、……でもさあ、」
少しずつ開いていく距離に、目を伏せた。
やっぱり私は、あの中に飛び込んでいけるほど勇敢じゃない。似合わない。つり合ってもいない。
でも、私は――ねえ、西本加夏、それでいいの?
「津山く……」
違う。だめだ。ここで止まったら、前と同じ。
「岬!」
つやまくん。散々呼んできた五音より二文字も短いのに、全然しっくりこない呼び名を、いま、自分の意思で使う。
廊下の奥。弾かれたように振り返った彼が、目を見開いた。
「……加夏ちゃん、何で」
「えーっ、なになに。岬、そのコ誰?」
一斉にこちらを向いた視線に、若干おののく。
茶化しているのは主に男子だけれど、女の子の方は、やはりどうにも私を品定めしているかのように見えて仕方なかった。
津山くんが私の方に歩み寄ってくる。その表情が、困り果てている。
「ど、どうしたの?」
帰りに会う以外、滅多に話さない。連絡はスマホで事足りる。
今までずっとそうだったのだから、突然のイレギュラーに動揺しているのだろう。
「なー、カノジョ? 噂の、めっちゃ可愛いっていう?」
「噂っつーか岬が言ってるだけだろそれー、ノロケおつ」
津山くんの背後から、そんな冷やかしが聞こえてきた。何だかとんでもないワードが含まれていた気がするのだけど。
恐る恐る彼の顔を窺えば、「お前ら、うるさい」と苦笑気味に友人をいなす姿があった。
「え、なに? カノジョじゃないん?」
そう問いかけられた津山くんが、頭を掻く。
「あー……その……」
なに、それ。何で困ってるの。どうして頷かないの。
女の子の一人と目が合って、相手の瞳に安堵の色が宿ったのを、私は見逃さなかった。
――もう、ほんっとうに馬鹿だ。津山くんの馬鹿。
だらりと垂れ下がっている彼の腕。それをぎゅう、と引っ張って、自分の傍に引き寄せる。
「この人、彼氏なんで!」
全体に、というよりも、とある一名に向けての宣戦布告みたいになったけれど。勢いに任せて断言すれば、その場が静まり返った。
「…………え?」
頭上から気の抜けた声が落ちてくる。
捕まえた腕を離さずに、そのまま踵を返して廊下を走った。




