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「キスってもうしたの?」
そんなド直球な質問が繰り出されたのは、大浴場から帰ってきた後のことだった。
昨日から修学旅行で旅館に宿泊していたのだけれど、今日は一日中京都府内で歩き回っていたから、みんなクタクタだ。
テニス部に所属している灯は、唯一元気が有り余ってこんな突拍子もない話題を切り出した様子。短く切り揃えられた髪を雑にタオルで拭いつつ、あっけらかんとした表情だった。
「うぐっ、」
ミネラルウォーターを飲んでいた羊が、灯の奇襲に咳き込む。危うく口に含んでいたものが出そうだったので、私はすかさず「羊、汚い」と注意を促した。
「ま、……まだしてない、よ」
「狼谷のことだからすぐ手出すのかと思ってたわ」
「あ、あかりちゃん……」
無事に恋仲となった羊と狼谷くん。文化祭から一か月ほど経っているから、二人の交際期間もそれに準じているはずだ。
修学旅行といえば恋バナ、なんてよく聞くけれど、まさか灯が切り出すとは思わなかった。
荷物の整理をしながら、私もこっそり耳を傾ける。
「あの、二人に聞きたいんだけど……普通のカップルって、いつ頃キス……するものなのかな」
私と灯の顔を交互に窺いながら、羊がおずおずと尋ねてきた。彼女の真ん丸な瞳が、不安げに揺れている。
そんなことを聞かれても、生憎私だって今まで彼氏がいたことはない。
羊はいかにも純粋無垢で、狼谷くんが初めての彼氏だと言っていた。それは見た通りだから納得だけれど、私が同じことを言っても、そうはいかない気がする。経験がないと公表するのは、何となく気恥ずかしかった。
「え~……それは個人差あるから、何とも」
と、先陣を切ったのは灯だ。灯は中学生の時に、クラスの男の子と付き合ったことがあるらしい。
「別に羊がそこまで気にしなくてもいいんじゃない。狼谷くんに任せていいと思うよ」
少しだけ迷ったけれど、私はそう告げて上手く逃げた。具体的な数字なんて分からないし、経験者の灯だって断言していないのだから、実際個々人で違うのだろう。
しかし私たちが曖昧な回答を寄越してしまったせいか、羊はますます眉尻を下げて困り顔になってしまった。
私はこの顔に弱い。義務でもないし責任もないけれど、このままにしておいてはいけないと思ってしまう。
「羊はどうしたいの?」
キャリーバッグから視線を移して、友人の顔を見据えた。
僅かに目を見開いた羊が、「え?」と虚を突かれたように首を傾げる。
「結局、そこの問題なんじゃない? こうするべきとか、これが正解とか、そんなのない気がする」
個人差があるのなら、そのカップルによって「正解」は異なるはず。結局のところ、相手の気持ちなんて分からないのだから、せめて自分の気持ちに正直に動くしかないと思うのだけれど。
「私は……」
羊が口を開いたまさにその時、畳の上に転がっていた彼女のスマートフォンが震えた。
噂をすればなんとやらで、どうやら狼谷くんから連絡がきたようだ。
「ごめん、私ちょっと出てくるね」
慌てたように部屋を出て行った羊を見送り、ふう、と軽く息を吐く。
今更ながら自分の発言が恥ずかしくなってきた。羊には偉そうに言ってしまったけれど、私だって――いや私の方がむしろ、色恋沙汰に関しては経験がないかもしれない。
「加夏ってさー、ほんと真面目だよね」
一人胸中で反省会を開催していたところで、灯が突然そんなことを言い放った。
さっきの発言はやっぱり不自然だったのかな、と不安に駆られつつ、努めて平静に返事をする。
「つまんないって言いたいのー?」
「あは。そうは言ってないでしょうよ」
けらけらと笑い飛ばした灯に、ほっと胸を撫で下ろした。
真面目。その単語は、きっと私を一言で説明するのに一番似合っていると思う。
何をするにしても、堅実に地道に積み重ねることが得意だった。無難に生きる方が絶対に楽なのに、どうしてわざわざ突拍子もないことをする人がこの世にいるんだろうと、そんな規模の大きいことを考えたこともある。
「まー、何というか……羊には甘いよね、加夏は」
「ええ……? そんなことはないけど」
「いや、激甘でしょ。子離れできてないお母さんみたいな時あるもん」
「お母さんって……」
大人っぽいと言われるのには慣れているけれど、さすがにそれはちょっとショックだ。せめてお姉ちゃんで妥協してくれないだろうか。
とはいえ、灯にだって悪気があったわけではないのだろう。その証拠に、飲み物を買いに出ていた同室の子が帰ってきた途端、「ファーストキスはいつ?」などとおちゃらけていた。
「ていうか、羊まだ帰ってこないね。さっきすれ違った時はそんなに時間かかりそうな感じじゃなかったけど」
羊と入れ違いで部屋に戻ってきた朱南が、サイダーを半分くらい飲み干した頃。彼女は小首を傾げ、時計を見上げた。
「せっかく沢山話そうねって約束したのになぁ……」
いつも快活な朱南は、栗色のショートヘアが印象的な学級委員だ。彼女と羊はこの修学旅行を機に仲を深めたようだった。
目の前でしょんぼりと肩を落とす朱南に、私は思わず口を開く。
「私、ちょっと見てくるよ」
「え? そんな、わざわざいいよ~」
「案外迷ってるだけかもしれないし、どうせ暇だから。二人は先にトランプでもしてて」
二人でできるのなんてスピードぐらいじゃーん、と不服そうに述べた灯は、立ち上がった私に続けた。
「もー、ほんと過保護。そういうとこだよ、お母さんって言われんの」
「灯しか言ってないでしょ……」
別に羊のことだけが気がかりだったわけではなく、朱南の寂しそうな顔を見ていると、黙って座っているのも落ち着かなかっただけだ。
部屋を出て廊下を歩いていく。時々クラスの男子とすれ違うことはあったものの、羊の姿は見当たらない。
一体どこまで行ったんだろう、と肩を竦めた時だった。
「お、西本さん。やっほー」
ちょうどロビーに差し掛かったところで、前方から片手を挙げ近付いてくる人影が一つ。
自分自身、やっほー、と返すキャラではないし、彼とそこまで仲は良くないと思う。小走りで距離を詰め、私は開口一番、状況説明を行った。
「津山くん、羊のこと見なかった? さっき部屋出てって、結構経つんだけど戻ってこなくて」
彼なら顔が広いから色んな人の部屋を行き来していそうだし、そのぶん羊を見かける確率も高そうだ。
たぶん狼谷くんのところに行ったとは思うんだけど。私がそうため息交じりに付け足せば、彼は「ああ」と声のトーンを上げる。
「ついさっきまで俺らの部屋にいたよ。出てくるとこ見た。入れ違ったんじゃない?」
「ほんと? そっか、ありがとう」
確かに、それならもう部屋に戻っているところかもしれない。
安堵して――安堵した途端、また新たな懸念事項が浮かび上がる。
キスだなんだ、と話した後に羊は狼谷くんと会ったのだから、ひょっとするとひょっとした? まあ、狼谷くんが上手くリードしてくれるだろうし……いやでも、私があんなことを言ったせいで影響を及ぼしていたらどうしよう。
「ねえ、津山くん」
「んー?」
いるじゃない、目の前に。百戦錬磨の経験豊富なスペシャリストが。
「……津山くんって、キスしたことある?」
その質問は、きっとおかしなくらい自然と零れ出た。
普段の自分なら、絶対にこんなことは口にしないだろう。でも私は至って真面目に聞いているのだ。
津山くんはよっぽど驚いたのか、目を真ん丸にして固まってしまった。それからすぐに自身の頭を掻き、歯切れ悪く頷く。
「え〜……まあ、うん。あるよ」
「それって、彼女?」
食い気味に質問を重ねれば、彼の視線が下がった。どことなく困ったように、うろうろとさ迷っている。
その表情に珍しく陰りが見えたから、やっぱり聞かない方が良かったかな、と罪悪感が生まれた。
「そーだね。彼女かな」
ぱっと顔を上げたその時の津山くんの笑顔は、何とも空虚で。明るい髪色も、耳朶に二つ空いたピアスも、なぜだか酷く寂しそうに映った。
「そっか。……あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」
彼の心に土足で踏み入ってしまった気がしてならなかった。だからといって、ここで謝るのも違う。
私は逡巡しながらも、自分のことを同等にさらけ出すことにした。
「カップルって、どれくらいでキスするのが普通なの?」
「えっ?」
きょとん、という効果音が相応しいくらいの、気の抜けた声だった。津山くんが呆然と私を見ている。
「さっき、羊にそうやって聞かれてさ。でも私、経験ないから誤魔化して答えちゃったんだよね。だから有識者の津山くんに聞いてみようかなと思ったんだけど」
嘘ではない。本当に真剣に悩んでいる。それを伝えたくて、顎に手を当て神妙に唸ってみる。
馬鹿にされてもおあいこだな、と思っていたのに、津山くんはそうしなかった。ただただ呆気に取られた様子である。
「そういうのって、普通男子に聞かなくない?」
「ええ……でも周りにこんなこと聞ける人いないし」
普通、とか言われたところで、津山くんの普通と私の普通は違うんだから、意味はないと思う。
彼は数秒黙り込んでいたけれど、やがて「ふは」と突然吹き出したから、ちょっとだけびっくりした。
「西本さんってさー。しっかりしてるけど、ちょっと危機感足りないよね」
「馬鹿にしてる?」
「してないよ」
でもさ、と続けた津山くんが、なぜかこちらに数歩近付く。反射的に後ずさった私にお構いなく、彼はぐっと顔を寄せて、耳元で囁いた。
「男にそんなこと言ったら、ぱくっと食べられちゃうかもしれないよ?」
……正直に言わせてもらうと、めちゃくちゃ鳥肌が立った。
いや、津山くんはイケメンの部類に入るし、実際女の子に人気だし、百戦錬磨だし。でも本当に申し訳ないことに、全然タイプじゃない。
この距離で、この声で、この顔で。全くときめかない自分もどうかと思うけれど、それはどうしようもないのだ。
彼のことはそういう対象で見ていないからこそ普通に話せているのに、突然「遊び人」のモードでこられると、げんなりしてしまう。
「でも、津山くんはそんなことしないでしょ?」
眉間の皺が取れていない自覚はあった。せめて声色だけは通常運転を装いつつ、以前彼が言っていたことを思い出す。
――別に俺、誰彼構わずってわけじゃないからね。向こうから誘ってきた時しかしないよ。
夏になる前、だっただろうか。羊にちょっかいをかけているように見えたから、津山くんに警戒心丸出しだった時期のことだ。羊に変なことしないでよ、と注意をしたら、そう返ってきた。
「……え〜〜? 俺だって男の子だよ? 何するか分かんないよ〜?」
一瞬の間の後、津山くんが明るく取り繕った。
しないよ。私は念を押すように、そう断言する。
「だって津山くん、人が嫌がることはしないでしょ」
多分、彼の中での線引きは、そこにある。
もちろん、彼が私のことをそういう対象で見ていないから、しないよ、とはっきり言えたのは大前提にあるのだけれど、そうでなくとも、津山くんはしないと思う。
別に恋愛方面に限ったことではない。
津山くんは周りをよく見ている。常に輪の中心にいながら、自分が周囲に求められているものを察知するのが上手なのだ。空気を読む、気を遣う。そこに関しては、とても日本人らしい。
悔しいかな、津山岬とは、そういう憎むに憎みきれない人間だ。
私の言葉に、津山くんの返事はなかった。何だか真面目な空気になってしまったので、柄にもなくおちゃらけてみることにする。
「意外とヘタレだよね、津山くん」
「な――」
途端、かあ、と彼の頬が赤く染まった。その反応が意外で、こっちの方が驚いてしまう。彼のことだから、また「何ソレ、酷い」とへらへら躱すかと思っていたのに。
照れている、というよりも、純粋に恥ずかしがっている、といった方が適切だった。「ヘタレ」は流石に傷つけてしまっただろうか。
「なんちゃって。うそうそ。津山くんは優しいよ」
そう、ヘタレってつまり、言いようによっては優しいってことだから。内心ではそう付け足して、彼のご機嫌取りに努める。
津山くんは「フォローする気ある? それ」と眉尻を下げた。少しずつ本来の調子を取り戻しているらしい。
「ね、結局どうなの? 付き合ってからどれくらいでするの?」
本題から随分と逸れてしまった。
改めて聞き直せば、彼は気まずそうに頭を掻いて口を開く。
「……や、まあ、ほんとに好きなら期間とか関係なくね?」
遊び人から放たれた遊び人らしからぬ誠実な発言に、瞬き数回。彼自身もむず痒そうにしているから、これ以上の追及はやめておこうと思った。
「そっか」
うん、そっか。やっぱりそうなんだ。百戦錬磨の彼が言うなら間違いない。
良かったあ、と思わずため息をつく。
「私、『羊がどうしたいかじゃない?』って偉そうに言っちゃったんだけど、正解だったみたいで良かった」
そういうこと、だよね? 好きだなあって、したいなあって思ったら、期間にとらわれずに行動あるのみってことでいいんだよね。
そうだ、きっとそう。自分の中で考えを落とし込むように何度か頷いて、津山くんを見上げた。
「ありがとう。引き止めてごめんね!」
不思議と心は軽かった。懸念材料もなくなり、あとは楽しい夜を過ごすだけだと思って、気が急いていたのかもしれない。
おやすみ、と彼に告げて、踵を返す。――と、
「あの、さ」
津山くんが、私の腕を掴んだ。振り返った先にあった彼の顔が、思ったよりも近くてびっくりする。
「……他の男には、そういうこと聞かない方がいいよ」
やけに真剣な顔で津山くんが言ってくるから、さっき彼が忠告してくれた通り、私には危機感が足りないということなのだろう。二度も言わなくても大丈夫なのに。それとも、さっきはふざけていたから、今度は真面目に注意しておく気にでもなったのだろうか。
「あはは。そうだね、気を付ける」
張り詰めた空気を中和するようにわざとらしく笑って、彼の手からすり抜ける。
部屋に戻ってからも、掴まれていた感覚が残っているようで、そわそわと落ち着かなかった。