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完全に浮かれた口調で、津山くんが問うてきた。頷いた私に、彼は「どれくらい?」と追及の手を緩めない。
「これくらい?」
津山くんが聞きながら、人差し指と親指で隙間を作る。ちょっとだけ、という時にするジェスチャーだ。それだと本当に少ししか好きじゃないと思う。
「……もうちょっと」
「じゃあ、これくらいかな」
「違う」
「えー……じゃあ、」
彼の言葉が途切れた。――否、正確に言うと、私のせいで喋ることができなかったのだろう。
「…………これくらい」
津山くんの首に腕を回して、顔を埋める。やっぱり爽やかな匂いはしなかったけれど、そもそも津山くんに爽やかさは求めていないんだった。
「え、……待っ、加夏ちゃん?」
しまった。すぐに離すつもりだったのに、恥ずかしくて顔を上げられない。タイミングを逃して、ただ津山くんに抱き着いたまま、秒数だけが過ぎる。
「……まじか」
ぽつりと、そんな声が落ちた。その後すぐに耳元で息の気配がして。
「嘘つき。俺のこと、ちゃんと好きじゃん」
ぎゅっと心臓が縮まる。もうどうしていいか分からなくて、首を振ることしかできなかった。
「……津山くんの方が、いっぱい、」
「そーだよ。でも、加夏ちゃんの気持ち分かったから、もう何でもいい」
私の頭に手を添えて、津山くんが抱き締め返してくる。どきどきして、今ようやく自分はこの人にちゃんと恋をしているんだと、分かったような気がした。
「もう俺、我慢しなくていい?」
「え、」
「加夏ちゃんの彼氏にしてくれる?」
何を言いたいのか、いまいち理解できなかった。「津山くんは彼氏だよ」と返すと、彼は「うん」と更にきつく抱き締めてくる。
「もっと彼氏っぽいこと、したいの。させて」
「例えば?」
「手繋ぎたい」
「う、ん」
「もう誰に見られても離さないで。付き合ってるって、他の人にちゃんと見せつけたい」
ストレートな要望にたじろいでしまう。私は恐る恐る口を挟んだ。
「……見られても、いいの?」
「いいよ。何で?」
「え、なんか、私こんなんだし……津山くんの周り可愛い子いっぱいいるから、」
「妬いてくれてるなら怒らないけど、そういうのもう言わないで。俺が付き合ってるの、加夏ちゃんじゃん」
本当に? また気まぐれで可愛い子に誘われたらどっか行ったりしない? もうずっと、私だけ?
本気になっていいのかな。踏み出したらもう戻れない。津山くんが私に飽きたって言っても、傷つくことしかできない。
「……うん。ごめん」
違う。傷ついたとしても、好きになるしかないのだ。だって片足は既に溺れている。
自己保身のために津山くんを傷つけて、それなのにまだ自分は傷つきたくないなんて言っている。そんなの、傲慢だ。
私はいい加減、この人に溺れにいっていいのだと思う。
少しだけ、抱きつく腕に力を込めた。津山くんが微笑んだ気配がする。
「もっと加夏ちゃんに好きになってもらえるように、頑張る」
「……が、頑張んなくていい」
「やだ。頑張る」
だから、やだって言わないで。可愛いから。
今でもこんなに緊張して恥ずかしいのに、この先どうなってしまうのだろう。不安が胸をついたけれど、これは随分と幸福な憂慮だな、と思った。
彼の首に回した腕を解くタイミングを逃してしまって、津山くんも私から手を離す気配はなくて、しばらくお互いの体温を分け合う。
いよいよ耐え切れなくて身じろぎした私に、彼はようやく「ごめん、重かったね」とゆっくり体を離した。
「津山くん、立てる?」
「うん。ちょっと捻っただけ」
「冷やさないと……」
立ち上がろうとした時、彼に手を掴まれる。そのままゆっくり指を絡めてきて、きゅ、と握られた。
「まだ、一緒にいたい」
分かりやすく甘えられて、顔が火照った。遠慮をしなくなった津山くんは、破壊力がありすぎる。
「な……に、言ってるの。帰んないって言ったじゃん」
「そーじゃなくて。いま、ここで、もっとくっついてたいの」
「はあ……!? 今の今まで散々、」
「足りない。ずっと我慢してた分、全然足りてないよ」
愛おしそうに見つめてくる視線が、じりじりと私を焦がしていく。
「ま――待って、ほんと、今はだめ」
「何で?」
「……もう、さっきので、いっぱいいっぱいだから……」
あんなに近い距離でハグまでしたのに、何が足りないんだろう。彼から与えられる甘さへの耐性がない分、いま手を繋いでいるだけでも心臓が壊れてしまいそうだった。
「今日はもうだめなの?」
「……うん」
「恥ずかしい?」
「うん」
そっか、と引き下がった彼は、それでもどことなく嬉しそうである。ちょっと悔しくて気に食わなくて、私は顔を背けた。
「津山くんは慣れてるから、普通にできちゃうけど……私は、無理なの」
「……え、」
「すぐそういう感じの雰囲気になるの、……す、好きじゃない。から、あんまり急にはしないで」
正直に申告すると、沈黙が落ちる。
加夏ちゃん、と呼ばれて、ゆっくり顔を上げた。
「今まで彼氏いたこと、ある?」
「は? ないけど」
「俺が初めて?」
「だから、そう言ってる……」
「そっか。分かった」
彼が手を離す。熱と鼓動が少しだけおさまって、ほっとした――のも束の間、今度は小指だけさらわれて、彼のものと絡まる。
「今まで俺と手繋ぐの嫌だったのって、恥ずかしいから?」
「……嫌じゃないけど、普通に、見られたら恥ずかしいじゃん」
それに、緊張してどうにもならなくなる。心臓に負担をかけてまで繋ぎたいとは、正直思わなかった。
「うん、ごめん。……もう加夏ちゃんが嫌なことしない。約束」
手をぶらりとさせたまま、低い位置で指切りをする。
今度はあっさりと指が解けて、津山くんは「あとは?」と首を傾げた。
「もっと我儘言って。俺の直して欲しいとこ、教えて」
「……津山くんは、」
「うん」
「津山くんは、お酒飲まない方がいいと思う」
だって、すごくふわふわして頼りなくなっちゃうから。女の子に好き勝手されても抵抗できないんじゃないかってくらい、無防備だった。
「あー……いや、ほんと、まじであれはごめん。もうほんとにごめん」
がくりと項垂れて、津山くんが嘆くように謝罪する。もう飲まない、と先に宣言して、彼は続けた。
「多分、他の人のやつ間違えて飲んで……記憶はあるんだけど、すっげー眠くて。自分でも酔うとこうなるんだって分かったから、もう飲まない。ごめん」
どうやら、彼の意思でアルコールを摂取したわけではなかったようだ。体質的にも、津山くんはきっとお酒に弱いのだろう。
あとは? と、懲りずに彼が聞いてくる。
私は数秒思案して、首を振った。
「気が付いたら、その時に言う」
「ん、分かった」
「津山くんは?」
至極当然のこととして尋ねれば、彼はきょとんとした顔で固まった。
「俺はって……」
「私に直して欲しいところ」
与えてもらうだけ、頑張ってもらうだけ。そんな関係は嫌だし、自分のポリシーもそれを許さなかった。津山くんだからとか、そういうわけじゃない。もらったものは返したくて、同じ目線で物事を眺めていたかった。
津山くんがくれる気持ちから、もう逃げない。私は私なりに、少しずつでも返せるように、つり合うように、努力していこう。いつか彼とおんなじ気持ちを持って、隣で笑えるように。
「返信はできるだけしてくれると、嬉しい、かな」
彼に指摘されて、自分でもしっくりくる。確かに津山くんは連絡しすぎなところもあるけれど、私だってしなさすぎだった。
これは改善しないとな、と納得して頷く。
「あと、ケースケとあんまり仲良くならないで」
「別に仲良くはないけど……」
「俺の知らないとこで連絡取ったりしないでよ」
「してないって」
「それと、」
まだあるのか、と若干顔をしかめた私に、津山くんはおずおずと要望を述べた。
「手は、もう少し繋ぎたい、です」
こういうところが、ずるいよなあと思う。プレイボーイだったくせに、無駄に健気で可愛いのだ。
「……津山くんって、手繋ぐの好きだね」
「加夏ちゃんとだから、繋ぎたいの」
それから、と。欲張りな男の子は、もう一つ乞うてくる。
「俺のこと、名前で呼んで欲しい」
「……は、」
「呼んで。お願い。加夏ちゃんの特別なんだって、もうちょっと自惚れたい」
自惚れるも何も。私がここまで許すのも許したのも、津山くんしかいないのだけれど。
とはいえ、あまりにその訴えが切実だったから、適当に受け流すこともできず。
「…………み、さき」
消え入りそうな声で喉奥から何とか絞り出して、慣れない響きを届けた。
うん、と酷く嬉しそうな返事が聞こえる。
「もう一回聞きたい」
「む、無理」
「今日はもうだめ?」
「うん」
「明日ならいい?」
「……う、ん」
明日の自分、頑張れ。投げやりな応援を胸中で繰り広げて、目を伏せた。
そうして私たちは、今日ようやくスタートラインに立ったような気がする。
これが正しいのかと問われれば、それはイエスともノーとも答えられないのかもしれない。ただ、正しくあろうとした、誠実さを投げ捨てなかった、ということだけは確かなのだろう。私たちには私たちだけの正解があって、不正解がある。それを二人で必死に探している最中なのだ。
テレビを見て、お風呂に入って、夜は別々に眠った。
薄暗い部屋の中、瞼を閉じきる前に聞こえた津山くんのいびきに笑ってしまいそうになったけれど、それがなぜだかとても幸せな波の中にいるようで、涙が出た。




