7
「待って!」
後ろからの叫び声に驚いて、それでも私は早足で廊下を進んだ。
荒々しい息遣いと、追い縋ってくる足音。逃げなきゃ。帰らなきゃ。私はまだ、彼に向き合うには覚悟が足りていない。
「待って――お願い、加夏ちゃん、待って!」
切々とした声が止んだと同時に、背後で大きな物音がした。
顔だけ振り返ると、津山くんが廊下に倒れている。それはそうだ、さっきまであんなにふらふらだったのに、突然立ち上がって走ったらそうなる。
随分派手に転んだようだけれど、怪我はないだろうか。打ち所が悪くて骨を折ったとか、そうなるとこのままにしておくのは危ないんじゃ――。
純粋な心配が頭をよぎり、足が止まる。
「加夏ちゃん……行かないで……」
顔を上げた津山くんが、呻くように懇願してくる。下から掬い上げるように目が合って、体が強張った。
「お願い……ごめん、全部俺が悪いから……さっきの全部嘘、あんなこと思ってない、来てくれただけで嬉しい……」
彼の顔が苦しそうに歪む。目がみるみる赤くなって、五秒も経たないうちに潤み始めた。
足でも痛めたのか、起き上がろうとして断念した彼は、そのまま腕を使って床を這い、こちらに近付いてくる。
「加夏ちゃん、教えて……俺の何がだめ? もう俺のこと嫌いになった? 教えて、全部ちゃんと直すから……」
目の前にいるのは、本当に、津山くんなんだろうか。
漠然とした恐怖が体を支配している。じりじりと数歩後ずさり、私は力なく首を振った。
「津山く……あの、落ち着いて」
「俺、別れたくない……別れるなんて言わないで。嫌いにならないで……」
「ま、待って、ほんとに、」
彼の頬は涙ですっかり濡れている。
更に一歩引こうとした私の足首を、津山くんの手が掴んだ。
「俺を捨てないで」
「な――」
なんてことを言うのだろう。捨てるだなんて、そんな言い方をしないで欲しい。
しかし抗議もままならなかった。彼の言葉に、空気にひたすら圧倒される。
体はとっくに恐怖で思うように動かなくて、津山くんは私の足に両腕を回すと、ぎゅう、ときつく抱き着いた。
「加夏ちゃん……加夏ちゃん、加夏ちゃん……お願い、行かないで」
つと彼を見下ろし、今の状況に眩暈すらする。
恐る恐る屈んで、彼の腕に手を伸ばした。とりあえず拘束を解いてもらおうと口を開きかけた時、ぐっと手首を掴まれてバランスを崩す。
「痛……」
私まで床に座り込んでしまい、津山くんと視線の高さが同じになった。なおさら威圧感が増して、呼吸もしづらい。
「津山く――」
ど、と打ち付けたような音と共に、視界が揺れた。背中が若干痛い。
目の前の津山くんの涙を、ただ呆然と眺めていた。彼に、押し倒されている。
「加夏ちゃんは、俺のこと、好き……?」
乞うている。求められている。好き、の一言を。
あの日、私は津山くんに「好き」と言って欲しかった。彼の口から、彼の方から、言って欲しかった。
でも今は? あれから私は、津山くんに一度でも「好き」と伝えただろうか。
お互い交わす言葉は少なかったけれど、彼が与えてくれる好意に、私はちゃんと向き合っていただろうか。
「俺、いっつも言えなくて加夏ちゃんに怒られてたけど……でも、言えないよ。めっちゃ大事だから……適当に言いたくなくて、死ぬほど緊張して、」
だけど、と彼がしゃくりあげる。
「俺の気持ち、ちゃんと伝わってる……? 足りないなら、言うよ。ほんと、馬鹿みたいにいつも思ってるけどさ、」
好き。
小さく震える声で、津山くんはそっと囁いた。途端に顔を真っ赤に染めて、唇を噛む。まるで、初めての告白をしたかのように。
彼の顔が近付いてきて、熱を孕んだ瞳に吸い込まれていく。
「待って……津山くん、」
多分、今は正気じゃない。声だけで止めようにも、効力は足りなかった。
「加夏ちゃん……」
咄嗟に目を瞑ったけれど、津山くんは私の肩に顔を埋めただけだった。じっとりと彼の涙が染み込んでいくのが分かる。
私の手首を掴む手に一層力がこもって、甘えるような声が耳元で聞こえた。
「今日は帰んないで。一緒にいたい……」
「え、……でも、」
「加夏ちゃんがいないと不安で……何も手につかない」
ただの我儘と言い切るには、不安要素が多すぎる。だって実際、彼は今の今までそうだったのだから。
「加夏ちゃんが作ってくれたご飯、食べたい……」
「そ、それは……いいけど、明後日までしか、いられないよ」
「そんなにいてくれるの?」
「え、あ、いや……明日まででいいなら、帰るけど」
「やだ。ずっといて」
「だから、ずっとは無理だって……」
明日は休みだからいいとして、月曜日からはまた普通に学校だ。一泊ならまだしも、さすがに二泊は親に渋い顔をされかねない。
「津山くん、あの……退いてくれる? ていうか、足大丈夫なの」
「退いたら帰っちゃう?」
「帰んないから。ほら、泣かないの」
ず、と鼻を啜った彼が、そろそろと顔を上げる。
唯一自由だった右手で自身の服のポケットを漁り、ティッシュを取り出した。
「泣きすぎ。ちゃんと拭きな」
「ん、」
「今日は泊まるけど、明日の夜には帰るからね。学校もあるし」
「うん……」
私の上で泣きじゃくる津山くんの鼻を拭ってやる。
「ま、って、汚いから、自分で――あ、加夏ちゃんの服汚れて……ごめん、」
「いいよ、洗濯するから」
「ん……加夏ちゃん、」
「なに?」
少々乱雑だったけれど、粗方いいだろうか。拭い終えて一息つくと、津山くんが再び耳元に口を寄せてくるから驚いた。
「好き」
「えっ、な……」
ここには二人しかいないのに、内緒話をするかのようなトーンだった。
彼にとってその二音はとても重々しくて大事なものなのだと、つい先程言われたばかりだ。それを知ってから聞くと、とてつもなくウエイトのある言葉に思えてしまう。
すぐに顔を離した津山くんの頬はやっぱり赤くて、なんなら耳まで茹でダコだった。
「……そんなになるくらいなら、頑張って言わなくてもいいのに」
「だ、だって、……言いたかったから」
もごもごと濁す彼に、不覚にも可愛いと思ってしまう。
決めきれていない。何も結論は出ていない。けれども、意地を張るのだけはもうやめようと、今の彼を見て決めた。
「津山くん」
彼の頬に手を伸ばす。触れた瞬間、津山くんは目を見開いた。
「私、津山くんのこと、嫌いじゃないよ。嫌ってない。別れたいとかそういうんじゃなくて、少しだけ自分の気持ちを整理したかったの。そうじゃないと、津山くんに失礼だと思ったから」
「……え、」
「本当はあの日、津山くんが女の子に触られてるのが嫌だった。それを分かってない津山くんにいらいらした」
嫌いじゃない。それは確かで、じゃあ好きでもないのかと聞かれると、きっとそうではない。私は多分、津山くんが好きだ。好きなんだ。
でも彼の気持ちと比べた時に、私の気持ちは「好き」と定義していいのか分からなくなって、堂々巡りだった。
「ほんと自分勝手だけど、津山くんの彼女でいる自信がなくなって……すごい卑屈になってた。津山くんにも八つ当たりしてた。ごめん」
加夏ちゃん、と彼の唇が動く。声にならない声が、私を呼んでいる。
「ねえ、津山くん。私、津山くんみたいに上手く『好き』も言えないよ。たまに自分の気持ちも分かんなくなるんだよ。津山くんとおんなじ気持ちでいられるかも、分かんないよ」
自分で羅列していて、散々だな、と思う。そんなぐだぐだな彼女、私が男だったら絶対に嫌だなって、あり得もしないイフを考えている。
「それでも、いいの? 津山くんの気持ち踏みにじって、全然可愛げなくて、それなのに、私――」
苦しい、と。そう思ったのは、津山くんの汗の匂いに抱き締められたからだった。
いつも香っている爽やかなそれじゃない。もっと汚くて生々しくて、でもこれが津山くんの匂いだ。
「……いいよ……いいに、決まってるよ……」
ああ、せっかく拭いたのになって、呑気なことを考える。
津山くんはまた私の肩に顔を埋めて、そこがじんわり熱くて、彼が泣いているのが分かった。
「俺の彼女が可愛くないわけないんだから……いいんだよ……! 自信とか、そんなのなくても……俺が好きだから、どうでもいいの……」
「どうでもよくないよ」
「いいよ。加夏ちゃんへの気持ち、加夏ちゃんにだったら踏まれても何されても、どうだっていい。好きにして……ついでに、俺のことも、めちゃくちゃにしてよ」
津山くんの心の叫びが、私の心臓を抉った。
どうして、そこまで言えるんだろう。何もかも、差し出せてしまうんだろう。私は全然足りてない。この熱量に、敵わない。
「……津山くんって、ばかだね」
最初から、ずっと、今でもそう思う。
この人は本当に、ばかなのだ。だって、そんなに全部私に渡してしまったら、この先どうするの。もし他の人を好きになった時、私に返してって言えるの? 言えないでしょう。
「何で、そんな……私なんか……」
私なんて、どこにでもいるような人なんだよ。芽依みたいにお洒落で可愛いわけでもないし、素直に言いたいことも言えないし、恋愛下手で面倒で、無駄なこと一人でぐるぐる考えて。
「津山くんにそこまで言ってもらうほど……私、なんにもないのに……」
だから、ずっと、苦しかった。つり合うものが何一つなくて、それを周りに指摘されるのが怖くて、本気になるのもなられるのも嫌なのは、逃げ道を残したいからだった。
「……加夏ちゃんだけだよ」
いつの間にか滲んだ視界が、突然クリアになる。
津山くんの指が優しく私の目をなぞって、眼前に彼の穏やかな笑みが広がった。
「加夏ちゃんだけが、本当の俺のこと、見つけてくれた」
「え……?」
「カッコ悪い方が好きって言われたの、初めて。どんなにダサくても、加夏ちゃんは俺のこと、ばかにしなかった」
たったそれだけで、彼は今まで私をこんなに――?
考えていることが伝わってしまったのか、津山くんは「俺にとっては大事なの」と照れ臭そうに付け足した。
「意味、分かんない……ほんとにばかなんじゃないの……」
強がることでしか、もはや感情を制御できなかった。一度緩んでしまった涙腺はなかなか締まってくれなくて、目頭が熱くなる。
「うん。でも、俺がばかでも加夏ちゃんがいてくれるから、いいよ」
泣かないで、と彼の低い声が耳朶を打って、その響きに潜んだ甘さが私を蝕んでいく。
「違……津山くんのが移ったの」
「ふは。俺のせい?」
「津山くんの方が、泣いてたくせに」
「ダサい?」
「うん」
「ダサい俺でもいいって言ったの、加夏ちゃんだよ」
だから責任取って。
今度こそ潜んでも隠れてもいない、甘ったるい声だった。私に受け取ってもらえると――受け取ってもらえなくてもいいと割り切ったからなのか、そういった熱を臆面もなく差し出してくる。
「ね、俺のこと、ちょっとは好き?」




