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「西本さんは、お酒飲まない感じ?」
暖色系の照明が、夜の居酒屋の雰囲気を手助けしていた。
向かいに座るケースケくんの問いに頷いて、私はウーロン茶を一口含む。
「まだ十八だし」
「やっぱ真面目だなー。一年でもバカみたいに飲んでバカみたいに酔っぱらってる奴いんのに」
ほら、と彼が目線だけ寄越した先には、言葉通り既に出来上がっている男子がちらほら。本当に、バカだと思う。
今日はサークルの飲み会だった。新歓はバイトの都合で参加できなかったから、これが初めての交流の場である。
先輩たちは思いのほか穏やかな人が多くて、なんというか、変にがつがつもしていない。
もちろん飲み会の場でお酒を強要するなんてこともなく。だから、千鳥足で意味不明なダンスを踊っているバカな一年生たちは、盛り上がって自分の意思で飲んだのだろう。
「加夏ってハタチになるまで一滴も飲まなさそうだよねー。親のビール一口もらって『まっず』ってやる恒例行事も通過しなさそう」
隣で好き勝手言っている芽依に苦笑しつつも、彼女の論評は間違っていない。
わざわざ飲もうとも思わないし、飲むつもりもなかった。こうして飲み会の場に来て、お酒でへらへらしている人を見てしまうとなおさらだ。
「えーっ、飲みすぎじゃない? 大丈夫?」
前方のテーブルから甲高い女の子の声が飛んでくる。
ああ、また誰か潰れたんだな。何の気なしに視線をそちらに向けた。
「でも津山くん、全然飲んでないよね? これ一杯目でしょ?」
今度は少し落ち着いたトーンだった。聞こえた名前に、思わず耳を研ぎ澄ませる。
私とは違うテーブルに腰を下ろしている彼の顔は、確かに真っ赤だった。誰がどう見ても完全に酔っている。
その両隣はいずれも女の子で、右の子も恐らくお酒が入っているんだろう。紅潮した頬をそのままに、しきりに津山くんに話しかけていた。
「津山くんお酒弱いんだぁ~可愛い~」
「ちょっと、あんた近いって。なんかやらしーからやめな」
「何それー!」
きゃはは、と笑い声が上がる。
自分の眉間に皺が寄ったのが分かった。
当の本人はといえば、アルコールのせいでまともに会話もできないのか、話しかけられるたびにこくりと頷くだけだ。眠そうともとれるし、気怠そうともとれる。
しばらくは大声で話していた彼女たちも、彼の反応が鈍くなると、次第に声のボリュームが落ちていった。それと同時に、こちらまで会話の内容が聞こえなくなって、ほんの少しだけほっとする。
ちゃんと帰れるのかな、あの人。送る気もないくせに、脳内でそんなことを考えた時だった。
「……え、」
うつらうつらと船を漕ぎ始めた彼の肩に、女の子が右手を掛ける。もう片方の手は良く見えなかったけれど、そのテーブルの下では彼の太腿に置かれているんだろうな、と推測できた。
彼は触れられた拍子に、僅かに顔を上げる。そしてぼんやりと隣の女の子を見つめ、振り払うでもなく、ただ首を傾げるだけだった。
……いや、ちょっと、待って。
「西本さん、だし巻き卵食べた? これ残ってるの食っちゃっていいよ」
ケースケくんが呑気に促してくる。
正直今はだし巻き卵とかどうでも良くて、目の前の光景から視線を逸らせない。
「……ケースケ、マジで空気読めよ」
「は? なに?」
「もういーから、それはお前が食え!」
芽依が声を荒らげた拍子に、我に返った。
焦点がようやくケースケくんに合う。彼は訝しげに首を捻って、私と芽依を交互に見やるだけだった。
「あ……ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」
「卵いる?」
「ううん、大丈夫」
今一度断りを入れると、ケースケくんは最後の一切れを頬張る。
「加夏」
ふと隣から呼ばれて、芽依が憂いの帯びた瞳を差し向けてきた。
彼女は感情の幅が大きいから、私の代わりに突拍子のないことを言い出しかねない。そういう時は、私が平常心を保つことが大事だ。
「どうしたの? 芽依も酔った?」
冷静に尋ねれば、彼女は少しだけ表情を和らげる。
「もー、私は飲んでないし! そーじゃなくて、加夏が……」
「私は大丈夫だよ。だって飲んでないもん」
言外のニュアンスが伝わったのか、芽依は渋々といった様子で押し黙った。
普通に前を向いているだけなのに、視界に見たくないものが映り込んでくるから憂鬱である。
べたべたと津山くんに触っている女の子――には最早何の感情もわかない。まあせいぜい、酔うとそうなるんだね、という感想だった。
どちらかというと、私が気に食わないのは津山くんの方だ。
仮にも――いや、普通に付き合っている相手がいるのに、どうして他の子に触らせているのか。そもそも、両隣に女の子がいるとか、そんな状況すら気に食わない。
酔ってるから? 正常な判断ができないから? ううん、全部言い訳。お酒はその人の本性を暴くって、よく言うし。
「芽依。明日何限から?」
「え? 三からだけど」
「私も」
目配せをして、にやり。芽依が俄然元気になる。
「遊びに行っちゃう?」
「うん」
「てゆーか、もうここにいてもつまんないわ。どうせ後は適当に解散でしょ、とっとと出よーよ」
グラスの中の液体を一気に飲み干した彼女は、鼻歌交じりでご機嫌だ。
私も一生懸命ウーロン茶を喉に流し込んでいたら、ケースケくんが口を挟んでくる。
「え、二人とも離脱する感じ?」
「んー、まあケースケも連れてってやらんこともないけど? どうする、加夏」
芽依に話を振られて、「いいよ」と了承した。
今日はずっと同じテーブルで会話をしていたということもあって、彼とはだいぶ気兼ねなく話せるようになっていたからだ。
「じゃあ俺もお邪魔。カラオケ?」
「そーだよ、加夏と遊ぶ時はいっつもカラオケって決まってんの。てか酒飲まないでね、治安悪くなるから」
「飲まねーよ」
幹事の先輩に声を掛けて、お金を払ってから三人で立ち上がる。
騒がしいテーブルの間を抜けていくように足早に歩いていると、がた、と突然後方から荒々しい食器類のぶつかる音がした。
「……加夏、ちゃん」
おぼつかない声。つと聞こえた方に顔を向ければ、津山くんが立ちあがってこちらを凝視している。
「ちょ、津山くんどーしたん? 急に立ったら危ないよ」
「ふらっふらじゃん。とりあえず先に水飲みなー」
周りの人に宥められ、彼は半ば強制的に座らされた。
なおもこちらを見続ける津山くんに、ケースケくんが「岬はごゆっくり」と言い渡す。芽依はひらひらと手を振って、「早く行こ」と私の背中を押した。
「いやー、見た? さっきの津山氏の顔。傑作だわ」
「趣味悪いなーお前」
「まあちょっと反省すればいいんだって。いくら酒入ってたとはいえ、彼女の前だっつーの」
すっきりしたのか、けらけらと笑って芽依が腕を伸ばす。彼女が明るく片付けてくれたので、私も心なしか晴れやかな気持ちになった。
まあ確かに、ちょっと触られていただけだし、飲み会だし、そこまで苛々することでもない。悪意のある行為ではないのだから、今日でさっぱり忘れるのが吉だ。
近くのカラオケ店に入り、スマホを取り出した時だった。
『かなちゃん、いまどこ?』
画面にポップアップ表示された、彼からのメッセージ。それを開くことはせず、家に遅くなる旨の連絡を入れて、ため息をつく。
『もうかえったの?』
『けーすけとなぐらといっしょ? どこ?』
あー、始まった。そういえば、最近津山くんがしつこい人間だということを忘れていた。これは一度火がついてしまうと、なかなか鎮火しない。
「加夏、曲入れてー」
芽依の声で顔を上げる。
返事は……まあ、別にいいか。一応これは津山くんへの反抗だし、返事をしてもどうせ連投は止まらないし。
今日くらい、いいよね。だってそもそも津山くんが悪いんだ。
「最初に入れる曲って悩むよね」
「ぶちアガるやつで良くない?」
「確かに」
スマホをテーブルの上に投げ出して、目の前の会話に集中する。
ケースケくんが意外にも音痴でお腹を抱えて笑ったり、芽依のダンスパフォーマンスつきのアイドルソングに聴き入ったり、最初の一時間はあっという間に過ぎ去っていった。
ふと視線を落とした時にスマホが振動していたので、もしかしたら母からだろうか、と手に取る。
画面を見た瞬間、思わず固まった。
「加夏、どした?」
「あ……いや、」
「津山氏?」
こくりと頷くと、芽依が「無視しろ無視」と肩を揺らす。
躊躇しているうちに着信は止んで、ほっとした。しかしその途端に溜まっていた通知が表示され、目を瞠る。
メッセージが十件、それから不在着信が五件。全部津山くんからだ。
彼のしつこさもここまで来たか、と呆れていると、再び手の中でスマホが震えだす。
「……ごめん、ちょっと一回出る」
二人に詫びて部屋を出てから、通話を受けた。
「もしもし、」
「加夏ちゃん! 良かった、出た……」
居酒屋から出る前、最後に聞いた声よりかは、幾分はっきりとしている。
はあ、と安堵したように息の吐く音が向こうから聞こえて、津山くんは矢継ぎ早に質問を重ねてきた。
「何で先に帰っちゃったの? いまもう家? 一人?」
「いや……芽依たちといるよ。まだ帰らない」
「えっ、どこ? どこにいるの?」
「別にどこだっていいでしょ。もう切るからね」
案の定、疑問符だらけで一方的な会話だ。
全部の質問にいちいち答えてやるほど、私も心は広くない。彼が待ったをかけるように私の名前を呼んだけれど、「今日はもう連絡してこないで」と切り捨て、そのまま通話を終わらせた。
部屋に戻ると二人とも歌っていなかったようで、私の顔を見るなり「どうだった?」と聞いてくる。
「うん、大丈夫。もう今日は連絡しないでって言ったし」
「うわ、ばっさり。加夏、けっこー普通に怒ってたんだ」
「いや怒ってはいないけど」
純粋にめんどくさいな、というだけであって、怒鳴る気力もなければ理由もない。
芽依は私の回答に少しだけ面食らったような様子で、首を傾げた。
「怒ってないの? 何で?」
何で、とは。彼女の質問の意図が分からず、こちらも首を捻る。
「だってあんなに女子にべたべたされてさー、むかつくっしょ。あんたの彼女は誰ですかって話」
「私と津山くんが付き合ってるって知らない人、いっぱいいるし。まあしょうがないんじゃないかな」
「えー……そういうことじゃなくて。妬かないの?」
「何を?」
今度こそ芽依が「え」と目を見開いた。彼女が答えるより先に、ケースケくんが明言する。
「嫉妬しないの、ってことでしょ」
嫉妬。やきもち。本来なら恋に付随するはずのそれを、指摘されて初めて思い出した。
何だか苛々していた気がするのも、つまり妬いていたからということなんだろうか。でもあまりしっくりこない。
「……津山くんは、いつもあんな感じだから。今更妬くのも違うっていうか」
彼は常に沢山の女の子に囲まれていた。それが当たり前で日常で、一つ一つ気にしていたらきりがない。自分の身を守るため、傷つかないためにも、私はいつの間にか嫉妬という感情に鈍くなっていたのかもしれなかった。
「西本さん、それまじで言ってる?」
ケースケくんが引きつったような笑みを浮かべる。
「それはさすがに……ちょっと、岬が可哀想」
心臓がざわついた。頭の芯がすっと冷えて、今しがた言われたことを必死に脳内で咀嚼する。
可哀想って、津山くんが? 私のせいで?
「私もう持ち曲ないんだけどさー、二人はまだ歌いたい?」
凝り固まった空気をほぐす形で、芽依が唐突に投げかけてきた。
咄嗟に声を出すことができなくて、静かに首を振る。
「……俺も、もういいかな。出るか」
ケースケくんの言葉に、誰ともなく立ち上がった。
滞在時間としては二時間弱。これが飲み会の後だったら終電も怪しかったかもしれないけれど、途中で抜けてきたのでその心配はない。
会計を済ませ店外へ出る。その間、私たちの中に会話は生まれなかった。
風の温度が心地良い夜だった。前髪がふわりとさらわれて、片手で押さえると同時に何気なく顔を上げ、瞬間、息を呑む。
「な、んで」
足を止めた私に、隣にいたケースケくんが「ごめん」と種明かしをした。
「岬に聞かれて、俺が言ったんだ。このカラオケにいるって」
彼の言葉は嘘ではないのだろう。
だって、目の前にはついさっき「連絡しないで」と突き放したはずの津山くんが、まるで私たちが出てくるのを待ちわびていたかのように、佇んでいたから。




