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「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
その日は少しだけ最後の講義が長引き、急いでバイトに向かった。何とかぎりぎり間に合って呼吸を整えつつ、三十分ほどホールで動き回っていた時のことだった。
「あー……と、五名です」
大学生だろうか。私と同年代の男女グループが来店し、つと視線を奥に投げ――
「な、」
見覚えのある、ミルクティー色のマッシュヘア。彼は私に気が付くと、へらりと笑って小さく手を振った。
「……失礼致しました。どうぞ」
さっと顔を逸らして、勤務モードで彼らを席に促す。簡単に説明を終えて踵を返したところで、厨房に入るなり項垂れた。
何で津山くんがいるの。いや、バイト先はお互い知ってるし不思議じゃないけど。だったらなおさら私がいる時に来ないで欲しかった!
「加夏ちゃーん、これ四卓に持っていってー。あと今の五名ついでにドリンク……どうかした?」
夢乃さんが私の顔を見て首を傾げる。
「……来ました」
「ん? 何が?」
「彼氏が、来ました」
「えっ、まじ!? ちょ、みんな大変、加夏ちゃんの彼氏ご来店なんだけど!」
厨房の奥で洗い物をしていた栞さんが、「えー!」と甲高い声を上げる。
「どこ? 七卓? あそこの人?」
一番髪色明るい人です、と伝えれば、二人は驚いたように顔を見合わせた。
「めっちゃパリピじゃん! すご、てかイケメン~」
「あ、こっち見た。ねえ、加夏ちゃんのこと探してるんじゃない? オーダー取ってきてあげな」
「いやいやいやいや絶対無理です」
普通に友達がバイト先に来ただけでも恥ずかしいのに、彼氏とか耐えられない。
しかもさっきからあの集団、厨房の方めちゃくちゃ見てる。津山くんが私に手を振ったから、絶対勘付かれた。
「じゃあ私行ってくるわ! 近くで見てみたいし」
「す、すみません。お願いします」
任せろ、と夢乃さんがホールへ躍り出る。
私もいい加減さぼるわけにはいかないので、料理を持って仕事に戻ることにした。
なるべく津山くんのいるテーブルには近づかないようにしながら、一時間くらいは何事もなく過ぎていった。
三組ほど一斉に会計のラッシュが来てレジを終え、ありがとうございました、と頭を下げる。顔を上げた瞬間、目の前に突然津山くんが現れたから、驚いて声が出そうになった。
「すみません。お手洗いってどこにありますか?」
動揺したのも束の間、彼は至って愛想良く尋ねてくる。
なんだ、普通にお客として振舞ってくれるんだな、と安堵し、私も口角を上げた。
「店内出て右にあります。少し遠いんですが……」
「加夏ちゃん」
店の出入り口から彼に視線を移し、固まる。
その呼称はつい先日から変わったばかりで、まだ慣れていない。津山くんはいま明確に店員ではなく、「私」に話しかけていた。
「今日バイト何時まで?」
「……十時、だけど」
「待ってるから一緒に帰ってもいい?」
「待ってるって――いま何時だと思ってんの、まだ八時だよ」
「うん。待ってる」
だめだ、伝わってない。できれば速やかにお引き取り願いたいんだけれど。
それに、バイト終わりはなるべく一人で帰りたい。誰かと一緒だと気を遣うから、余計に疲れるのだ。
「ええと……お店的にも、長居されると……ちょっと」
「あー、いや、あいつらとはもうそろお開きだけど。適当にそこら辺で暇つぶししてるから、一緒に帰ろ」
「あと二時間も?」
「うん」
分からない。そんな時間があるなら、家に帰って好きなドラマを見たり、ゆっくりゲームをするなり、いくらでも有意義な過ごし方はあるだろう。
私と帰るといったって、せいぜい一緒にいられるのは三十分だ。そのために二時間も待つだなんて、非効率にもほどがある。
『しっかし、毎回健気だねー。津山氏って、意外と尽くしてくれるタイプ?』
そんなに尽くされても、私が返せるものは何もないんだよ。
人からもらった善意は返したい。借りたものもきちんと返したい。目に見えるものであろうとなかろうと、与えられてばかりじゃ気味が悪いから。
だから、津山くんがいつも無条件にくれるものを、私はどうしていいか分からない。どう頑張ったって、きっと私は彼と同じ熱量で恋していないのだ。
「じゃ、待ってる」
津山くんは一方的に告げて会話を切り上げると、友達の待つテーブルへと戻っていった。
何話してたのー、と、女子の鼻にかかる声が遠くで響く。見られている。品定めされているような気が、してしまう。
……だめ、仕事しないと。
頭を振って無理やり思考のスイッチを切り替えた。
津山くんのいるテーブルの近くで空いたグラスやお皿を片付けていたら、自然と見たくないものが視界に入ってきてしまう。
明るい髪色、ピアス、派手なメイク、ネイル。それらを全て自分のものにして、華やかに笑う女の子。津山くんの隣に座っている子が彼の肩に触れただけで、何だか惨めな気持ちになる。
『えー、それは知らなかったわ。なんか意外。岬にこんなしっかりした彼女がいるとは』
『なんか意外。姉ちゃんああいうタイプ苦手だと思ってた』
意外。意外、意外……か。意外ってなんだっけ。
栞さんは「正解なんてない」って言っていたけれど、私は正解が欲しかった。こうすれば正しくて、それをしたら間違い。そんな指標がないと、もうどうしていいか分からないのだ。
やっぱり、津山くんと私では、いるべき世界線が違う。
そもそも彼は色んな人から求められてしまう人だし、彼もそれに応えざるを得ない人だから。いちいち、今更、気にしたところでどうしようもない。
そんなことはずっと前から、好きになる前から分かっていたはずだ。
だって、ずっと違和感しかない。津山くんの隣に私がいていいのかなって。
綺麗で可愛い今時の女子大生が座っているたった今。この瞬間の方が、彼にはずっと似合っていた。
「西本、三卓のバッシング終わった?」
いつの間にか緩慢になっていた手が、その呼びかけで再び取り繕うように動く。
「あー……結構いっぱいあるな。俺ここのグラス全部持ってくから、あと拭いといてくんない?」
「はい、すみません……ありがとうございます」
颯爽と登場した一太さんは、栞さんと同い年の頼れる先輩だ。
食器やグラス類は、男手があるとやはり助かる。げっそりしていた気分が、少しだけ回復した。
「お疲れー」
「お疲れ様です」
ようやく二十二時。今日は特別忙しいわけでもなく、すんなり退勤できた。
人を待たせているのが負い目となって、普段よりも急いで着替えを終わらせる。
「あ、加夏ちゃんおつ~。さっきゴミ捨て行ったら、店の前で彼氏くん待ってたよ。良かったね、超ラブじゃん」
「あー……はは、はい、お疲れ様です」
さっきからネガティブな思考回路に取り憑かれていて、うまく笑えない。曖昧に会釈をして、足早にその場を後にした。
店を出て左右を確認し、津山くんの姿を探す。先輩はさっき店の前で見かけたと言っていたけれど、ぱっと見はいない。
一体どこに行ったのだろう、とため息をついてスマホを取り出した時だった。
「あ、加夏ちゃん! お疲れ」
その声に顔を上げると、津山くんがこちらへ向かってくるところだ。片手にコンビニの袋を提げている。
彼はそこからペットボトルを取り出して、私に差し出した。
「喉乾いてない? お茶いる?」
「え、これ津山くんのじゃないの?」
「俺はさっき散々飲んだし。あ、いや、いらないなら俺が持って帰るけど」
「あー……うん、じゃあもらう。ありがとう」
受け取ったペットボトルは冷たくて心地良い。バイト終わりは喉が渇くから、有難いのは確かだった。
「いま小銭あったかな……百円でいい?」
「え? いやいいって、これくらい。俺が勝手に買ったんだから」
勝手に、とは言うけれど、彼は私のために買ってくれたわけだし、結局奢られるに等しいのでは。
釈然としない私を見かねてか、津山くんは「じゃあ今度機会があればコーヒーでも奢って」と苦笑した。
「……コーヒー飲めないくせに」
「今はそこ流してよー」
軽く冗談を飛ばした彼が、ゆっくりと歩き出す。私も横に並んで歩幅を合わせた。
「いつもこの時間に帰ってるの? 結構暗いじゃん」
「人通り多いし、すぐ駅だから大丈夫だよ」
「いやー、危ないって。なんか普通に柄悪い奴も多くない? 声掛けられたりしないの?」
「そういうのは無視だよ、ひたすら」
ぐだぐだと話しているうちに駅のホームに着いた。
津山くんはずっと心配してくれているみたいだけれど、小学生でもあるまいし、さすがにある程度自衛はできる。でも何だか私の答えが気に入らなかったようで、不服そうに眉根を寄せていた。
「声掛けられてるってことじゃん、それ」
そう呟くと、おもむろに私の手を取って指を絡めてくる。
咄嗟に一歩後退れば、彼は咎めるように、握った手に力を込めた。
「……さっきも、男の人と話してた」
「は? 話してない」
「話してた。バイトの人。話しかけられた途端に嬉しそうにしてたじゃん」
いつのことを言ってるんだ、一体。記憶を掘り起こして、ようやく一つだけ思い至る。
「一太さんのこと? あれは普通に下げるグラス多すぎて、困ってたから……」
しっかり弁明したはずなのに、津山くんは全然手を離してくれない。それどころか、ますます不機嫌そうに口を尖らせた。
「俺だって名前で呼ばれてないのに……」
「い、……今それ関係ない」
別に仲が良いから名前で呼んでいるわけではなくて、ただ他の人がそう呼んでるから合わせているだけだ。
見当違いなことで拗ねられて、非常にめんどくさかった。
「加夏ちゃんって、あんなに笑うんだね」
「どういう意味……」
「俺といる時よりもずっと笑ってる」
「バイトだから。愛想良くしないといけないでしょ」
どうして私の方が悪いみたいになっているんだろう。至って普通にバイトしていただけなのに。
津山くんは黙り込んで、私もそれ以上は何も言わなかった。
沈黙を埋めるように、電車がホームに入ってくる。
「いつになったら、俺……、るの」
彼が何か呟いたようだけれど、電車のせいで途中の音を拾えない。
聞き返せば、何でもないよ、と言われてしまった。その割に津山くんの表情は曇っていて、私まで心の中に霧がかかる。
電車に乗り込む時、さり気なく繋いでいた手を振り払うと、先程の力強さが嘘のようにすんなりと離された。彼の横顔は冴えない。
ほらね、と内心思う。
だから言ったでしょう。家に帰って好きなことをしていた方が何倍も楽しいはずだ。二時間も待った結果がこの気まずい空気だなんて、あまりにもお粗末すぎる。
労働で体は疲れているし、空気は最悪だし、心は休まらないし、散々だ。
一番恐ろしいのは、今この状態で津山くんに「面倒だ」という感情しか抱いていない自分自身だった。なんて薄情なんだろう、と他人事のように思う。
「津山くん。ここまででいいよ」
電車から降りて、改札を通る前にそう告げる。
彼は口を開きかけてやめ、黙って頷いた。
「加夏ちゃん」
背を向けて歩き出した途端、少しだけ切羽詰まったような声で呼ばれ、振り返る。
「……ううん、ごめん。何でもない。気を付けて」
「うん」
その時、全然「何でもなく」なくて、津山くんが本当は何か言いたいことがあったのも、分かっていた。
だけれど、今の私にきちんと聞いてあげられる余裕はなくて、自分本位にただ労働の疲れを癒すことだけ考えていた。




