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電車に乗って、私の家の最寄り駅で二人揃って降りる。
時折たわいもない会話が何度かぽつぽつとあって、五分とかからないうちに家に着いた。
「じゃあ……送ってくれて、ありがとう。バイト頑張って」
うん、と返した津山くんが、何か言いたげに私をじっと見つめる。
「……なに?」
「あー、と、……俺ら、もう二ヶ月、経つじゃないですか」
それが交際期間のことを指しているのはすぐに分かった。
彼が妙に畏まった空気を出すから、私もそわそわと落ち着かない気持ちになる。
「それで、その……一つ、提案というか、要望、なんだけど」
「うん」
「名前で、呼んでもいい?」
何かと思えば。身構えていたけれど、思いのほか小さな要望だった。
というかそんなの、わざわざ許可を取らなくたって勝手にすればいいと思う。津山くんなら、軽々とやってのけそうなイメージがあった。
「いいよ」
「えっ」
「だめって言われるかと思った?」
「うん……」
何回目のやり取りだろう、それ。そもそも津山くんの中で、私はどれだけ心が狭い扱いなんだろう。
「え、えー……じゃあ、えっと、」
視線をさ迷わせている彼の頬に、ほんのりと朱色が広がる。ゆっくり交わった瞳が優しく揺れて、彼はその音を紡いだ。
「加夏ちゃん」
かなちゃん。津山くんは、そうやって私のことを呼ぶのだな、と思った。
乱暴に呼び捨てるのではなくて、ほんの少し、小さい女の子を相手にする時のような柔らかさが滲んでいる。
「姉ちゃん?」
と、不意に横から聞き慣れた声が私を呼んだ。
弾かれるように振り向けば、学校帰りの優希が私と津山くんを見比べて、立ち尽くしている。
「あ……え、と、ごめん。おかえり」
どもりながらも告げて、私は優希の方に駆け寄った。
正直、彼氏といるところを家族に見られることほど、恥ずかしいものはない。
「津山くん、あの、私の弟です。優希。いま高二なんだけど」
早口で事務的に述べれば、津山くんは「ああ」と若干気まずそうに会釈をした。
「津山岬です」
「……はあ、どうも」
優希はまじまじと津山くんを上から下まで観察するように眺め、無愛想に返事をする。
軽く小突いて「こんにちはくらい言いなさい」と叱る私に、弟は眉をひそめるだけだった。
「あ、えーと……じゃあ俺、行くね」
津山くんは私にそう言い渡し、最後に優希にもう一度ぺこりと頭を下げてから背を向けた。
家の前。弟と二人。かつてないほど気まずい沈黙が落ちる。
「彼氏?」
「は」
「今の人、家まで送ってくれたんでしょ。彼氏じゃないの」
淡々と確認する優希に、まあ、うん、と曖昧に頷く。
「なんか意外。姉ちゃんああいうタイプ苦手だと思ってた」
前触れもなくぶつけられたその言葉は、なぜか妙にどきりと心臓が冷えた。
発言者本人はさほど興味もなかったのか、そそくさと玄関ドアを開けて家の中に入っていく。
「ゆ、優希」
私も彼にならって靴を片方脱ぎながら、声だけで追い縋った。
「意外って、変ってこと?」
「は?」
「私と津山くんが付き合ってるのって、変なのかな」
つり合わないとか、相性が良くないとか、周りにはやっぱりそう見えるんだろうか。
この前、ケースケくんにも「意外」と言われてしまったし、私たちが「お似合い」であるとは思っていないけれど。
「別にそんなこと言ってない」
「じゃあ、どういう人と付き合えば『意外』じゃないの」
更に問いかければ、優希は「はあ?」と面倒そうに顔をしかめる。
「知らな。なんか普通に、真面目そうな人じゃね?」
それ以上は会話を続ける気がないようで、優希は階段を上って自分の部屋へと向かっていった。
「真面目そうな人……」
って、なんだろう。黒髪で眼鏡をかけてて、読書好きで成績優秀?
少なくとも今の優希の口ぶりからして、津山くんが真面目そうな人ではないのは確かだった。
***
「なんと! ワタクシ、ついに彼氏ができました~!」
わっ、と短く歓声が上がる。
栞さんは自身の頭を掻きつつ、照れたように表情を和らげた。
「いや~、ついにしおりんにも春が……」
「あの永遠に彼氏ができないと嘆いていた栞が……」
「ちょいちょいちょい! エターナルとは言ってないからね!? 大学入ってから全然できない、もしかしたら社会人になってもできないかもしれないって言っただけであって!」
居酒屋――の、裏の従業員室。
その日のシフトを終えて退勤し、厨房から戻ってくると、バイトの何人かが既に話に花を咲かせていた。今日の話題は栞さんの彼氏事情らしい。
「お疲れ様です」
「あ、加夏っち! おつかれ~」
現在大学四年生の栞さんは、バイトメンバーの中でも歴が長い方で、いつもみんなの中心にいるような明るいムードメーカーだ。
月に一度は「彼氏ができない」と嘆き、その度にバイトのみんなが馬鹿真面目に「なぜ出雲栞には彼氏ができないのか」を議論していた。
「加夏ちゃん、聞いた? しおりん彼氏できたって~。私、しおりんより先に彼氏つくれるって思ってたんだけどな」
「私に勝とうなんざ百年早いわ~」
「こないだまでマッチングアプリに手ぇ出して失敗してた女子大生が何を言うか」
盛り上がる先輩たちを横目に、私は静かに着替え始めた。バイト後なのに元気だな、と感心してしまう。
「いや待てよ、本当に栞に彼氏はできたのか? あまりにも彼氏が欲しいと願いすぎて、願望が見せた幻覚という線は……」
「私の彼氏ファンタジーかーい!」
「確かに確かにー。実物見ないと信用できないわ」
「おうおういいだろう。来週ここに彼氏連れてくるから、びっくりして倒れるなよ!」
元気なやり取りを黙って聞き流していたら、先輩が突然こちらを振り返った。そして「加夏ちゃんも栞の彼氏、見たいよね?」と話しかけてくる。
「あ……そうですね。彼氏さん、どういうタイプの方なんですか?」
私の質問に、栞さんは顎に手を当て、わざとらしく考え込んだ。
「まあそうだな~……目玉焼きにはソース派、って感じかも」
「何の話でしたっけ?」
「加夏ちゃん、合ってる。合ってるよ、彼氏の話。栞が浮かれてるだけだから」
浮かれてる、と聞いて僅かに首を捻る。
浮かれる――そうか、彼氏ができて、普通はそういう気持ちになるわけだ。恋に恋する乙女、とまではいかなくとも、ふわふわ揺蕩うような感じ。
「……あの、先輩方って、好きな人いますか?」
らしくないな、と自分でも思った。
恋バナといわれる類いのものは普段あまり得意じゃなくて、友達が話しているのをひたすら聞く側だったから。
「え、えっ、なに、どした? 加夏っち好きな人いるの!? 初耳!」
「いや、えっと……彼氏、が、います」
「彼氏ぃ!? 待って聞いてないよ、いつからー!?」
たちまち嵐のように質問が浴びせられて、つっかえながらも一つずつ答えていく。
根掘り葉掘りとはこのことか、というくらい細かく聞かれてしまったので、途中で恥ずかしくなった。
「ふむ、なるほど。つまり加夏ちゃんは、彼氏くんと自分がつり合ってないんじゃないかって思ってるわけね?」
「それもそうなんですけど……何というか、友達や今の栞さんの話を聞いてて思ったのは、私って本当に彼のこと好きなのかなって」
恋をしている女の子の横顔は、みんなきらきらしていて可愛くて、素敵だと思う。でも自分がそうなるのは想像できないし、私みたいなのがそうなっても、変というか、恥ずかしいんじゃないかと考えてしまうのだ。
「いつから好きだったかも明確には分からないし、ずっと好きになりたくなかったし……告白された時も、舞い上がるというよりかは、やっとか、みたいに思ってしまって……」
純粋に「あの人のことが好きだ」と貫き通せる友達が羨ましかった。私はいつも何だかんだ理由をつけて、これは恋じゃない、好きじゃない、と目を背け続けていた。
よく漫画やドラマの最後で、両想いになって涙を流すシーンがある。
振られて悲しくて泣くのは分かるけれど、好きという気持ちだけで泣けるのは、私にはまだない感情だ。すごいなあ、と思う。
あの日、私に好きだと叫んで泣いていた津山くんに、心を打たれたのは本当だ。そういう彼にちゃんと応えたいと思ったのも本当だ。
でも、私は泣いて叫んで「好き」とは言えない。彼のためなら、とか、自分のデメリットを顧みず身を投げ出す覚悟もない。
恋って、こんなに淡泊なものだっけ? 地に足がついたものだっけ?
もっと波があって激しくて、ままならないけれどそれでも構わない、そんな燃え滾るものじゃなかったっけ?
「多分、好きではあるんですけど、彼と同じだけの気持ちを返せているとは思えないんです。それって、このままでいいのかなあって、最近思って」
しん、と静まり返った空気に、我に返った。
伏せていた目を上げれば、先輩たちが私の顔を食い入るように見つめている。
「あ――す、すみません。こんな話、されても困りますよね」
せっかく栞さんのいい報告で場が盛り上がっていたのに、白けさせてしまった。申し訳ない。
ごめんなさい、ともう一度頭を下げようとした時。
「加夏ちゃん、真面目だねえ」
「……え、」
「いや、ほんと。そんな深いことまで考えたことないよ私。彼氏できたら『やったーうれしー』ってくらいだもん」
私も私も、ともう一人の先輩が追随する。
「気持ちの大きさ? とか、気にしたことない。私が加夏ちゃんだったら、別に告白された側だし、向こうがもっと私を好きにさせろよって思っちゃうかもな~」
「あっは、それは夢乃が図々しいわ~」
「えー? でもぶっちゃけ思わない? 私はね、相手にぐいぐい来て欲しい派だから」
あんたの話はいいんだわ、と笑い声交じりにツッコミが入る。少し空気が明るくなってほっとした。
それまで黙っていた栞さんが、不意に口を開く。
「加夏ちゃん的には、同じ気持ちってどういう基準?」
「基準、ですか」
そう問われてしまうと、すぐには答えを出せなかった。
そもそも無形のものを比べるなんて、簡単ではない。ただでさえ移ろいやすい恋情だ。
「いや、正解とかはないんだけどね。私もよく分かんないし。でも何となくだけど、加夏ちゃんが気にしてるのって周りからの見え方じゃないかな?」
栞さんは結んでいた髪を解いて、違う? と私に投げかける。
「どう頑張っても私たちはさー、結局主観でしか判断できないんだよね。友達のことは客観的に『いやその男はやばいだろ!』とか分かるけど、自分のことになるとポンコツになったりするじゃん」
「なに、今度はしおりんの話?」
「そうそう、私もやばい男に引っかかってたわー。って、いやそれは例えばの話!」
ユーモラスを交えながら、彼女が私のために親身になってくれている。それがよく伝わった。
「同じ気持ちって、誰が決めるの? って話ね。正直、『好き』に大きいも小さいもないと思うってのが私の意見だけど。だって、人によって恋愛の優先順位違うじゃん?」
なるほど、と栞さんの言葉を胸中に落とし込んで、思案してみる。
彼女の言っていることも言いたいことも、きちんと理解したつもりだった。実際的を得ていると感じる。
でも、なんだろう。なんというか、依然としてこのままでいいのだろうか、という不安は拭えない。
こんな不確かな気持ちで付き合っていて、津山くんにも少なからず申し訳ないという気持ちはあるし、失礼なんじゃないだろうか、と内省したくなるのだ。
「ま、何はともあれ、加夏ちゃんの彼氏見てみたいから、今度連れてきてよ」
「えっ」
「実物見ないことには始まらんよね~」
マイペースな先輩たちの提案に頷きはしなかったものの、後日思わぬ形で実現することになったのである。




