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「えー……つまりピーク・エンドの法則というのは、最も感情が高ぶった瞬間と最後の印象によって、記憶の全体的な評価が下されるということになります。したがって、『終わりよければすべてよし』とはよく聞きますが、これは科学的に証明されているんですねー……」
淀みなく続く教授の声が、子守歌に聞こえる。昼食後の三コマ目。これが一番眠い。
かくん、と無意識のうちに船を漕いでしまって、慌てて頭を振った。
講義は既に終盤だったようで、時間を確認した教授が早口になる。
今日のまとめを喋り出した途端、今まで微動だにせず受動的に話を聞いていた周りの人たちも、一斉にメモを取り始めた。
「では、今日はここら辺で終わりにしましょう。次回は話しきれなかった部分、まあ蛇足ですが、ちょっとそこに触れてから、新しい箇所に入りたいと思います」
そんな締めの挨拶が飛び出したところで、隣に座っていた友人に腕をつつかれる。
つと視線を向ければ、芽依が悪戯っ子のように目を細めていた。
「めっずらしー。加夏、寝てたね。まあツッチーの話はマジで蛇足ばっかだからしゃーないけど」
ツッチー、というのは先程の教授の愛称だ。心理学に興味があってこの講義を取ってみたけれど、一ヶ月も経たないうちに少し後悔している。彼女の言う通り、話が長くてなかなかに辛いのだ。
「んー……ていうか、昨日バイトだったから」
「ありゃ。しかも今日一限からじゃなかった?」
「そう。だから眠たくて」
大学生になってから始めた居酒屋のバイトは、時給が良くて助かるのだけれど、帰宅時間は遅くなりがちだった。しかもGWに結構シフトを詰め込んでしまって、その疲れがまだ取れていない。
「加夏も次、空きコマでしょー? 部室行こ」
スマホの内カメラで自身の前髪を整えながら、芽依が誘ってくる。そんなに頻繁に確認しなくたって彼女の髪はいつも綺麗だけれど、逆に言えば常に気を遣っているからいつも綺麗なのかもしれない。
「いいけど、何しに行くの」
「えー、普通に駄弁る。他に誰かいたら楽しいかなーって」
いま早急に片付けなければいけない課題は特にない。
まあどうせ眠いし、眠気覚ましにちょうどいいか、と私は彼女の提案に頷いた。
大学には、今まで以上に色んな人がいる。
髪の毛がピンクのバンドマン、肌の露出が多い美人、図書館の一番奥の席でいつも本を読み耽っている勤勉家。
私はどれにも当てはまらない。無難な服装、無難な髪型、講義はきちんと受けて適度に手を抜く。
隣を歩く芽依は、いわゆる「陽キャ」という類いなのだろう。
ダークブラウンの毛先を緩く巻いて、毎日メイクもばっちり。彼女が着ているおしゃれな服は、どこで買うんだろう、と未だに疑問だった。
「お疲れ様で~す! って、あれ。全然人いないじゃん」
永北大バスケサークル、と書かれたドアの向こう側。快活に挨拶をした芽依が、中を見渡して肩を竦める。
「おー、おつおつ。今日やたら一年しか来なくね?」
既に部室にいた男子が、軽く手を挙げて苦笑した。彼も私たちと同じ一年生だ。
「てか西本さんもここに来んの珍しいね。どうせ名倉が無理やり連れてきたんだろうけど」
「大正解だけどさ、いちおー加夏の了解も得てるからね、こちとら」
男子と芽依の会話を後ろで黙って聞いていたら、部屋の奥にいる「彼」と目が合った。それとなく移動して、隣に腰を下ろす。
「お疲れ」
手持ち無沙汰なのか、ペットボトルを手で転がしながら彼が言う。
私は頷いて、ちらりと相手の顔を窺った。
「……津山くんも、空きコマ?」
「うん。まあいつも結構ここにいるけど」
「へえ」
「はは。興味ないじゃん」
興味がないんじゃなくて、妙に緊張している。
手に持っているミルクティーと同じ色の髪、再び耳朶に空いたピアス、清涼な香水。津山くんは、少しだけ以前のような外見に戻った。
大学生になって色々とおしゃれをする人も多いし、それ自体は別にどうということはなくて。
ただ、新しい彼を見てしまったというか、いきなり制服を取っ払って知らない男の人が目の前に現れてしまったような感覚。
津山くんってこんなに背が高かったっけ。大人っぽかったっけ。一ヶ月経ってもまだ見慣れない。
「あー、ちょっと加夏。ケースケがつまんないからって逃げないでよ」
芽依が口を尖らせて、隣に腰を下ろした。
ケースケ、ああそうだ、そんな名前だったな、とようやく芽依と話していた男子の輪郭がはっきりしてくる。実を言うと、名前を覚えるのはあまり得意ではない。
「俺のせいにすんな。てか岬と西本さんって、仲良かったっけ」
振り返ったケースケくんが突然そんなことを聞いてくるから、ぎくりと体が固まった。
不思議そうに首を傾げる彼に、芽依が「え~?」と声を上げる。
「ケースケ、知らなかったっけ? 二人付き合ってんだよ」
「えっ、まじで? いつから?」
「高校同じだったんだって。ね、加夏」
名指しで話を振られてしまっては、無視もできない。
うん、と短く答えた自分の声はか細くて、随分と頼りなさげだった。
津山くんは講義の終わる時間が同じ日、よく一緒に帰ろうと連絡してくる。
芽依といる時に彼が現れることもしばしばあるので、彼女には一応「彼氏です」と紹介していた。
気恥ずかしくて自分から積極的に彼との仲を公表する気にもなれなかったし、津山くんもそんな私に合わせてなのかどうなのかは定かではないけれど、大っぴらにカノジョの話題に触れることはないようだ。
「えー、それは知らなかったわ。なんか意外。岬にこんなしっかりした彼女がいるとは」
何だよそれ、と相槌を打つ津山くんは、確かにどこからどう見ても明るくてチャラそうで、女の子には困っていないような容姿をしている。
意外、というケースケくんの素直な感想も、あながち第三者評価としては間違っていないだろう。
「あ、やべ。俺これからバイトだった。じゃあ行くわ」
立ち上がったケースケくんに、ふぁいとー、と芽依が気の抜けた応援を送る。それから彼女は私たちを見やり、「じゃあ私も出ようかな」と言い出した。
「え、何で? それだったら私も行く」
「いやいや、流石にカップルの間に居座るほど神経図太くないって~。邪魔者は消えまーす」
「ま、待って。芽依、ほんと、邪魔じゃない。全然邪魔じゃないから」
腰を浮かせて、必死に彼女を引き留める。
二人っきりの空間、というのは付き合ってから何だかんだ今日が初めてで、心の準備ができていなかった。なぜだか分からないけれど、「彼氏」だと意識してしまうと、彼に上手く接することが難しい。
「お願い。芽依だって暇でしょ? ほら、三人で話そう」
「んー……ま、うん。私はいいんだけど」
釈然としない面持ちで、芽依が再び腰を下ろす。しかし頬杖をつくと、唐突に言い放った。
「じゃあ、二人の馴れ初め教えてよ」
「な、……何で」
「興味本位?」
芽依にとっては純粋に暇つぶしのつもりなのだろうけれど、こっちとしては気が気じゃない。
言葉を詰まらせる私の代わりに、津山くんが口を挟んだ。
「普通に俺から告白して付き合った。以上!」
「えーっ、つまんな。もっと具体的に」
「ちょっとそこは事務所NGなんで」
「どこの事務所だよ」
冗談を交えながら、二人が会話を進める。
芽依が「加夏はさー」と急に矛先を向けてきたので、顔を上げた。
「今まで彼氏いたこと、ないっしょ」
「は、」
「いや、すれてなくて、私は加夏のそーゆーとこ好きだけどね。普通彼氏と二人っきりとか喜ぶもんじゃん? いつも津山氏が来たら私の後ろに隠れるの、超うける。超可愛い。中学生かって」
なんだこれは。拷問か。貶されているのか褒められているのか、いまいち判断がつかない。
羞恥で顔が火照る。だんまりを決め込んで、俯いた。
「津山氏もそう思うっしょ?」
やめて、芽依、ほんとに。そっちには振らなくていいから。
いっそ耳まで塞いでしまいたいくらいだ。せめて目を瞑って耐えていたら、津山くんが静かに述べた。
「うん。めちゃくちゃ可愛いよ」
「うっわ、惚気た。なんか悔しいんですけど」
「何でだよ」
てなわけでー、と芽依が声色を変える。気まずい話題が終わりそうで、ほっと胸を撫で下ろした時。
「加夏のこと大事にしないと、まじで殴り込みに行くからね」
アーユーアンダスタンド? ミスター津山?
最後にバランスを取るかのようにおちゃらけて、彼女は釘を刺した。
「アイアンダスタンド。いぇあ」
「いぇあ、じゃねえよミルクティーボーイ」
「ダサすぎるあだ名やめて」
そんな不毛なやり取りは、次の講義が始まる前まで続いた。
***
「加夏、ほら。隠れない隠れない」
芽依が私の腕を掴んで、促してくる。
前方からはひらひらと手を振りながら、津山くんが近付いてくるところだった。
「しっかし、毎回健気だねー。津山氏って、意外と尽くしてくれるタイプ?」
「わ、分かんない」
「いや、一番知ってるの加夏っしょ」
今日は四コマ目で講義が終わって、津山くんと一緒に帰る日だった。
彼とは学部が違うから、構内ですれ違うことはあんまりない。こうして帰りが一緒になる時か、サークルの時くらいにしか現状会っていなかった。
じゃあね、と一足先に歩き出した芽依が離れていく。咄嗟に伸ばした手は、彼女を引き止めたかったのか、何なのか。
津山くんは私の目の前で立ち止まると、複雑そうに眉尻を下げた。
「……俺と帰るの、嫌だった?」
「あ、いや……別に、そういうわけじゃなくて」
自分でも言語化が難しい。
恥ずかしい、というのはもちろん大前提にあって、きっと私は結構周囲の目を気にしているのだと思う。自分の中にいるやけに達観したもう一人の自分が、揶揄ってくるような感覚なのだ。
街で腕を組んで歩いているカップルを見かけただけで、こっちが恥ずかしくなってしまう。いちゃいちゃも戯れも、よく分からないし苦手だ。
「何でもない。……帰ろ」
考えてもきりがないことを整理しようとするのは、時間の無駄だ。
頭を振って彼に告げ、足早に歩き出す。
津山くんと二人で帰ること自体は、そこまで嫌じゃない。というか、どちらかというと好きな方だった。
彼は大学でも相変わらず人気者で友達が多い。騒がしく喋っている印象が強いけれど、私といる時はあまりうるさくなくて、その方がこちらとしても助かる。穏やかに静かに、外の空気を感じながら過ごす時間は落ち着いていた。
「今日さ、バイトの時間いつもより一時間遅いんだよね」
構内を出て外を歩いていると、津山くんがぽつりと口を開く。
そうなんだ、と返事をしようとした時、彼が私の方を見て首を傾げた。
「だから、西本さんのこと家まで送ってこーかなって」
「え、いや……いいよ、別に。夜でもないし」
突然そんなイレギュラーをぶちこまれても困る。平静を保てない。
しかし彼は控えめに笑って、「察してよ」と頬を染めた。
「俺がもっと一緒にいたいんだってば」
「……な、」
不意打ちの剛速球だった。つられて私まで顔が熱くなってしまい、目を伏せる。
「ねえ、手繋いでいい?」
いつかのように、彼の手がちょん、と私の指先に触れた。
思わず顔を上げれば、やっぱり変わらない。私の機嫌を常に窺って、遠慮がちに媚びてくる彼。
至近距離でその表情を見てしまい、少しだけ胸の奥が苦しかった。
「だ、だめ」
「えー……」
「人に見られるところは嫌って、言ったじゃん」
特に学校の近くなんだから、知り合いに見られる可能性が高い。揶揄われるのも面倒だし、とにもかくにも恥ずかしいし、絶対に嫌だ。
「そうだけど……でも、じゃあいつになったら繋いでくれるの」
ほんの少しだけ、詰るような声色。どちらかというと、拗ねている。
「いつとか知らない。とにかく、見られるの嫌だから」
「分かった……」
しゅん、と項垂れた姿に、危うく声が出そうになった。
毎回思うけれど、彼は計算してやっているんだろうか。眉尻を下げて、寂しそうなオーラを纏わせて。
勿論、私が断るからだというのは分かっている。それでも、絶妙に罪悪感を煽られる彼の表情は、何度見ても心臓に悪かった。




