百合姫の恋煩い
♢ リリア目線
♦︎ ロバート目線
ステンドグラスから入る光により、礼拝堂は明るい。
ここにいるのは王族とその護衛、司祭と教会関係者の十数名だ。司祭の祈りは中盤に差し掛かり、いくらか声の張りが落ちてきている。
リリアは少しだけ頭を上げ、王太子である兄の斜め後ろに控える彼を盗み見た。
艶のある黒い髪、騎士服を纏った大きな背、腰にはサーベルを下げている。ここからは見えないが、彼の瞳が黒いことも知っている。
肩の装飾に光が反射してキラキラしているのを見て眩しくなり、リリアはまた目を伏せた。
♢
リリアはプラチナブロンドの髪とマリンブルーの瞳、透き通るような白い肌を持った第三王女で、その外見と名前から百合姫と呼ばれていた。
姫たちはその瞳と同じ色の魔法石をあしらった指輪をつける風習があることは一般にも知られており、リリアも幼い頃から百合の紋様を施した青い魔法石の指輪を身につけている。
三人の兄と二人の姉はいずれも既婚。国内の情勢は安定しており政略的に嫁ぐ必要もなく、兄姉たちはみな恋愛結婚だった。
末姫のリリアは皆から可愛がられており、いずれ好きな相手と結ばれるといいね、と特に結婚を心配されていない。
しかしリリアは、自分は好きな相手と結婚出来ないだろうと考えていた。
なぜならリリアの好きな相手は「氷の騎士」ロバートだからだ。
ロバートはラドクリフ伯爵家の次男で近衛騎士団副長。
非常に端正な顔立ちをしているため女性人気は高いものの、寡黙で表情が変わることがなく、業務外の会話は極端に少ない。そのため「氷の騎士」と呼ばれていた。
リリアとロバートは幼馴染みで、幼い頃、彼は文官の父と共に頻繁に王宮に来てリリアと交流を持っていた。
ロバートは自然の豊かな領地で育ったため草木や花に詳しく、王宮の庭園でリリアと植物や虫を観察したり、時には庭師に頼んで新しい花を植えてもらうこともあった。
二人の話題は、自分の家族のことや読んだ本、取り組んでいる勉強や将来の夢。リリアにとってロバートは一人の人間として自分を見てくれる貴重な友人だった。
その幼いある日。
公式の場での立ち振る舞いについて教育係から強く注意を受けたリリアは、落ち込んでロバートに愚痴をこぼしたことがある。
「どうしてもお姉様たちのように上手に出来ないの。気をつけているのだけれど何度も注意されてしまう。こんなことで立派に公務を果たすことが出来るのかしら……」
ロバートは花に水をやる手を止めてリリアを見つめ、にやりと笑った。
「姫様、頑張ってくださいね。俺、人混みが好きじゃないので、将来夜会でご一緒することがあったら完璧なエスコートで俺を会場から連れ出してください」
「私があなたを連れ出すの? ふつう逆じゃない?」
その言葉に面食らったリリアは、自分が騎士になったロバートを連れ去る様子を想像して、ぷっと吹き出した。
また、あるとき庭園の池で亀を観察していたら、熱中して足を滑らせ二人で池に落ちたことがあった。大事にはならなかったものの、二人は世話係の女官から大目玉を食らってしまった。
リリアがしょんぼりしているのに対して、ロバートは嬉しそうにニコニコと笑った。
「池に落ちた瞬間、亀がすごい勢いで泳いで逃げていったんですよ! あんなに速く泳げるなんて知らなかったなあ!」
リリアはロバートと話していると悩みが溶けていき、心が軽くなるのを感じた。彼はいつもにこにこと花を愛で、軽口を叩き、大変マイペースな少年だったのだ。
ロバートが騎士学校に入学したことで、庭園での交流はなくなった。リリアも本格的に公務が始まり、王族としての役割を果たしながら成長していった。
リリアがロバートに再会したのは、彼が近衛騎士団に入団し、新団員として挨拶に来たときだ。
数年ぶりに会ったロバートは幼い頃の面影は残しつつも、背は大きく伸び、鍛えられていることがよく分かるしっかりとした体躯の青年となっていた。
リリアは昔のように気軽に話ができるか期待していたものの、対面したロバートは一瞬リリアを見てすぐに目を伏せたため、声をかけることはしなかった。
池の亀を見てにこにこしていたロバートはどこに行ったのか、騎士となった彼は表情を変えず淡々と仕事をしていた。
立場上、ロバートからリリアに話しかけることは難しいためリリアは自分から話しかけようと思ったこともある。しかしまずなんと声をかければ良いかわからず、それからもリリアから話しかけることはなかった。
入団してしばらくはロバートがリリアの護衛にあたることもあった。しかしロバートはあっという間に昇格し副長の位についてしまったため、もうリリアの護衛にあたることはない。
いまでは父王や王太子の兄の公務に同伴する際、彼を見かける程度だ。
リリアは成長した後も、ロバートに恋心を抱いていることをはっきりと自覚していた。
昔の思い出が美化されているのかもしれないけれど、それでもたまにロバートを見かけるとドキドキして目で追ってしまう。
まれに声を聞けた時には何度も頭の中で思い返して幸せな気分に浸り、いつか昔のように話をしたいと思っていた。
♢
リリアは比較的、魔法を使うことが得意だ。
産業が発達してきた中で魔法を使う場面が大きく減ってきたが、魔力の高い王族と魔術師の家系は魔力の暴走を防ぐため、幼い頃から訓練を重ねることは続いている。リリアも王宮魔術師から魔法授業を受けてきた。
ある日の授業でリリアは、髪、瞳、肌の色を変える魔法を習得した。髪と瞳を黒に変え、血色の良い肌色に変えた鏡の中の自分は別人のようだった。
「この変装魔法は慣れるまでは集中していないと元の色に戻ってしまいますから、気を付けてくださいね」
遊び心のある王宮魔術師は、リリアに女官の服を渡した。
それ以来、リリアはたまに姿を変え、百合の紋章の指輪が見えないように首から下げ、女官の服で王宮内を散歩するようになった。
ちょっとした息抜きだ。大勢の人が働いている中で誰も女官姿の自分に気付かず、気にも留めない。リリアはこの遊びを大いに楽しんでいた。
変装して王宮内を散歩するとき、彼女は庭園内にある四阿で休憩することが多い。
変装してこっそり自室から抜け出し、王宮内で人が働いているのを見ながら庭園へ抜ける。四阿で一息ついてまた自室に戻る、というのがお決まりのコースだ。
ある日、母主催のお茶会の後、次の公務まで少し時間が空いたためいつものように変装して四阿に向かった。姉が珍しい菓子をくれたため、四阿で涼みながら食べようと考えていたのだ。
しかし四阿の階段を登ろうとしたところで、中の長椅子で誰かが横になっていることに気付いた。
庭園は王宮内に立ち入る人間なら誰でも入れるものの、この四阿に人が来ることはほとんどない。誰だろう、とゆっくり覗き込んで、リリアは息を飲んだ。
ロバートが寝ていた。
♦︎
ロバートは領地でずっと自然に囲まれて生活したいと思っていたが、騎士になった。
家は兄が継ぐため自分は自分で食い扶持を稼ぐ必要があったためだ。王宮の庭師もいいなと思っていたが、家族から反対された。
昔よく交流を持っていた百合姫は幼いながらに王族としての自覚を持ち、厳しい教育にもめげずに勉強に励む真面目な少女だった。
王宮内の庭園で自分についてくる彼女はにこにこと楽しそうに話をし、しかしたまに弱音を吐く。ロバートは彼女を妹のように感じると同時に尊敬もしていた。
騎士学校を卒業し、近衛騎士団に入団したときに百合姫に再会した。
昔の面影を残したまま非常に美しく成長した彼女を前にして直視できず、思わず目を伏せた。そもそも地位も立場も異なるため、昔のように話しかけることなどできない。
国内の情勢が安定しているとはいえ、騎士団の仕事量は膨大で業務は多岐に渡る。
しかしロバートは器用なたちで、体力仕事も事務作業もそつなくこなした。それが評価されたのか、あれよあれよと副長になってしまった。
位が上がるにつれ、多忙を極めた。心身を休める暇もなく仕事に忙殺され、同僚と雑談する余裕もない。
自分が「氷の騎士」と大変不名誉なあだ名で呼ばれていることは知っていたが、撤回する術も時間もない。
今回、王太子の二週間の外遊は本当に忙しかった。訪問先が多いためそれだけ警戒場所や護衛の方法など様々検討事項があり、帰ってきたときにはくたくただった。
護衛の引き継ぎを済ませ、王宮を出ようとしたところでふらついた。
このまま騎士団に戻っても書類が溜まっているだろうから休憩できない。二週間も不在だったのだ。仕事が溜まっている。いやだ。
ロバートはふらふらと庭園へ向かった。昔はよく出入りしていた庭園だったが、騎士になってからは立ち入っていない。
昔と大きく変わらない庭園は季節の花で彩られていた。ロバートは深呼吸し、そういえば四阿があったなと足を向けた。
少しだけ、少しだけ休憩しよう、と四阿の長椅子で横になると、すぐに眠気がやってきた。
♢
本当に寝ているのがロバートなのか確かめようと、リリアが階段をもう一段登ったところで、パキ、と音が出てしまい、寝ている人が身動ぎして起きてしまった。
起き上がった男性は紛れもなくロバートだった。しかし普段艶やかな黒髪はボサボサだし、目の下には濃い隈が出来ていて、驚いたようにこちらを凝視している。
もしかして変装魔法が解けたかと、自分の肩にかかる髪を見た。大丈夫、黒髪だ。
「――失礼、女官殿。いま何時か分かりますか?」
ロバートに声をかけられてリリアは驚いたものの、女官服のポケットに入れた時計を確認した。
「え、ええと、もうすぐ夕刻の鐘が鳴ります」
「ありがとうございます。あなたの休憩場所を邪魔して申し訳ありませんでした。失礼します」
「あの、」
彼がふらふらと立ち去ろうとしたので、リリアは思わず声をかけた。
「だいぶお疲れのように見えます。よかったらどうぞ」
姉からもらった菓子を差し出すと、ロバートはリリアをじっと見つめた後、ありがとうございます、と菓子を受け取って階段を降りていった。
――ロバートと会話してしまった。
リリアは長椅子に座り込み、高鳴る胸を押さえた。
夢のような時間だったと、ロバートとのやり取りを思い返しながら数日が経ち、また夕方に時間ができたので四阿へ向かった。
すると、驚いたことにロバートが座って本を読んでいた。いつもの騎士服ではなく、私服のようだ。
「――あ、女官殿、会えてよかった。先日は見苦しいところをお見せして失礼しました」
ロバートはリリアに自分の向かいの長椅子に座るよう促す。
「先日頂いたお菓子、とても美味しかったです。ただ、あなたの休憩の楽しみを横取りしてしまったと申し訳なく思っておりまして」
彼の優しい声に動揺したリリアは、声が上擦らないように慎重に答える。
「お気になさらないでください。かなりお疲れのように見えましたので」
「実はかなり疲れていました。ただあの日、この庭園で休憩して、頂いたお菓子を食べたら少し元気になりました。これ、お礼です」
ロバートはコートの中から袋を取り出してリリアに渡した。なんだろう、と首を傾げて受け取る。
「しおりです。草花が好きで、押し花で作りました。本当はお菓子でもと思ったのですが、いつお会いできるかわからなかったので」
「えっ」
押し花でしおりを作る騎士なんて聞いたことがない。どこが氷の騎士なのだろう。全然違う、昔のままのロバートじゃないか!
袋を受け取り中を開くと、薄い桃色の小さな花がたくさん散らされていて、周囲を鮮やかな緑の葉で縁取られた可愛らしいしおりだった。
これを、彼が作ったのだろうか。見た目からは想像が出来ないが、頭を下げて礼を言う。
「あれは頂き物のお菓子だったので恐縮ですが、ありがたく頂戴します。とても素敵なしおりですね」
「受け取って頂けて良かったです。あれ以来、休憩中や非番の日はここに来ているのです。あ、その押し花はこの庭園から摘んだものではありませんよ。勝手に摘むと怒られますからね」
ロバートはそう言うとふわりと微笑み、それを見たリリアは自分の頬が赤くなるのを感じた。
直後、夕刻を告げる鐘が鳴った。
「おっと、もうこんな時間ですね。私は失礼します。ではまた」
ロバートはあっさり告げると立ち上がり、さっさと四阿から出て行った。
リリアはロバートが去った方向を呆然と見つめ、長椅子にもたれかかった。
困惑したが、相変わらずの彼のマイペースぶりに頬が緩む。そして、もらったしおりをそっと指先で撫でた。
それ以来、四阿でリリアはロバートにたまに会うようになった。待ち合わせなどはしていないが、夕方に会うことが多い。それもそのはず、ちょうど公務の合間がお互い、同じ休憩時間なのだ。
三回目に会ったとき、ロバートは自己紹介をした。
「ロバート・ラドクリフといいます。いまは王太子殿下に付くことが多くて、こき使われてます」
ロバートは、あははと朗らかに笑い、リリアにも名を尋ねてきた。リリアはまずい、と思ってどきりとしたが、動揺を隠して口を開いた。
「――ノアです。リリア殿下付きの女官をしています」
嘘をついてごめんなさい、と心の中で詫びる。
「ああ、それで同じくらいの時間帯が空くのですね。百合姫様は公務も多くて、ノア殿もお忙しいでしょう」
いえ、とリリアは目を伏せ、思い切って気になっていたことを尋ねてみた。
「失礼ですが、ラドクリフ様は噂と全く印象が異なりますね」
「ああ、あの氷の騎士とかいうあだ名のことですね。なんでそんなことなっているのか。同僚からは無表情だからだと言われましたが、でも護衛中、へらへらしてるわけにはいきませんもんね?」
そう言いながらロバートは持っていた木の枝をくるくる回し始めたので、リリアはなんだか可笑しくなって笑ってしまった。
「ラドクリフ様のその様子をみんなが知ったらきっと驚かれますよ」
「いえ、このままでいいですよ。私は一人で草花や動物を見るのが好きですから」
そういえば昔も人混みが嫌いだと言っていたなと思い出し、こみ上げてくる笑いをかみ殺した。
ロバートは自室で育てている植物のこと、王族の同行で行った外遊先の異国の話、王宮外の街で見たことなどをリリアに聞かせた。
リリアは最近読んだ本の話――もらったしおりを大切に使っていること――、食べて美味しかったもの、見に行きたいと思っている観劇などについて話した。
彼と話していると、リリアは昔に戻ったように感じるのだ。話しているのはリリアではなく、「ノア」という存在しない女官だけれども。
リリアは「ノア」としてロバートと交流を深めていたが、公務で見かけるロバートは以前の氷の騎士のまま、全く変わりはない。
ある日、王太子の兄とともに退官する騎士への褒章授与式に参加することになった。父王や兄らに並んで立ち、部屋の隅に控えている護衛たちにこっそり目を向ける。
ロバートは無表情で前を向いて隙なく立っていた。無表情でいると確かに冷たい印象を受ける。実際には彼は動植物を愛する心優しい青年なのに。
褒章授与が済んで王族が退席する際、後ろを歩いていた兄がリリアのドレスの裾を踏み、つんのめってしまった。
あ、転ぶ、と思ったところで誰かに手を取られた。
「ありがとうございます」
反射的に礼を言って顔を上げると、支えてくれたのはロバートだった。
驚いて、一瞬びくりと体が震える。取られた手が急激に熱く感じた。
ロバートは小さく会釈だけすると、すぐに手を離し、兄に付いて行った。
彼は優しい人だ。そんな彼を騙していることを急に後ろめたく感じてしまい、ため息をついた。
♦︎
ロバートは庭園で休憩時間を持つようになってから、心身が好調であることを実感していた。
初めてノアに会った日のことを思い出す。あの日は本当に疲れていて四阿でうたた寝をしてしまった。ノアを見た瞬間、百合姫かと一瞬目を見張った。しかしすぐに髪も目も色が違うことに気付いた。別人だ。
庭園でほんの少し休憩し、菓子を食べたことで自分でも驚くほど心が回復した。やはり仕事ばかりで休みを取らないと限界が来る。
その後、抱えている仕事を整理し、出来る限り休憩も挟むようにした。一日一回十分でも、庭園で好きな草花に囲まれて深呼吸すると、頭がリセットされて仕事も捗るのだ。
休憩中、ノアに会うこともしばしばあった。
僅かな時間他愛もない話をするだけだが、彼女は表情をコロコロ変え、よく笑う。
しかしなぜか、彼女と話していると百合姫を思い出す。雰囲気がよく似ているのだ。昔この庭園で過ごした時間と同じ空気が流れているようなのだ。
実際に見かける百合姫はノアとは違う。
先日、王太子にドレスの裾を踏まれ転びそうになった彼女をとっさに支えた。取った手が透き通るように白く、幼い頃からつけているマリンブルーの指輪がとても重そうに見えた。
彼女は独身王族としてかなりの数の公務を請け負っているが、全く疲れを見せずに完璧な淑女の姿でこなしている。いつも控えめに微笑み、表情が大きく崩れることはない。
――全く違う人物なのに、ノアと百合姫が重なるのはなぜなのだろう?
♢
もうすぐ社交シーズンが始まる。昼間の公務に加え、夜会への出席も増える。息つく間もないほど忙しくなるため、当分四阿には行けないだろう。リリアは忙しくなる前に、しおりのお礼にサシェを作ってロバートに渡そうと考えた。
彼は花が好きだから、部屋にも飾っているかもしれない。そのため、あまり邪魔をしないように爽やかな香りにする。庭師に相談して花をいくつかもらい、乾燥させた。サシェの袋は自分で繕い、それはすぐに完成した。
「これ、良かったらどうぞ」
いつもの四阿でリリアがサシェを差し出すと、ロバートは驚いたようにサシェを見つめた。
「これ、ノア殿が作られたのですか? すごいな……良い香りですね。ありがとうございます、大切にします」
ロバートはサシェを受け取るとにこにこして撫で始めたので、なんだかむず痒い気持ちになる。リリアは彼の指先から目を逸らした。
「……社交シーズンが始まるのでしばらく忙しくなります。ラドクリフ様もお忙しくなるのですか?」
「そうですね、殿下に同行しますからこの時期は忙しくなります」
ロバートは庭園に目を向け、サシェを口元に当てる。香りを確かめているのだろう。その仕草に、リリアの方がなんだか照れてしまう。
「社交シーズンが終わる頃には季節が移ってこの庭園の様子も変わるでしょうね。楽しみです。その頃、またその時期の花でサシェを作って頂けませんか?」
「構いませんよ。その頃にはこのサシェも香りが飛んでいるでしょうから」
ロバートと先の約束をしたことは初めてだ。もう少しだけノアでいよう。
リリアは、大変な社交シーズンをロバートとの約束をご褒美に頑張れそうだと思った。
♦︎
社交シーズンが始まるとさすがに忙しいな、とロバートは小さくため息をついた。
今夜は王太子主催の夜会で護衛だ。王族の護衛だけでなく、社交シーズンが終わると人事異動の時期となるため書類仕事も多く、もう庭園にも二週間行けていない。
ただ今日は夜会が始まるまで少し時間が空いた。二週間も行けてないのだ。少しだけ庭園で休憩しようと足を向ける。
四阿が見える場所まで来ると、ノアが座っているのが見えた。
確か今夜の夜会には百合姫も出席する。ノアもそれまで少し休憩が取れたのだろうか。
階段を上がりノアを見ると、うたた寝しているようだった。初めて会ったときと逆だなと思ったとき、ノアが首から下げているものが目に入った。
普段は何もつけていないようなのに。
なんだろうと見てみると、見覚えのある指輪だ。
マリンブルーの石に百合の紋章の入った指輪。
少し大きいそれは普段華奢な指にはめられており、重そうに見える――
――――百合姫じゃないか!
ロバートが混乱していると、彼女は小さく呻いて目をこする。起きてしまった。
「――ラドクリフ様……、ご無沙汰しています。お見苦しいところをお見せしました。ご休憩中ですか?」
「……ええ」
普段は襟の下に隠しているのだろうか。見えてしまっている指輪にノアは気付いていない。
それから二、三言葉を交わし、二人は四阿を後にした。
ロバートは自分の予想を確かめようと、騎士団へ戻り、その足で同僚の女騎士を訪ねた。
「女官のリストはないか?」
ちょうど人事異動の時期なので各部署の人員リストが上がっているはずだ。
業務上必要だと思ったのか、女騎士は特段疑問に思う様子もなく重ねられたファイルから、どうぞ、と書類を差し出した。
ロバートは受け取った書類を素早くめくり、リリア付きの女官の欄を探した。
が、ノアの名前は見つからなかった。
「ははっ!」
ノアと百合姫が重なって当然だったのだ。
二人は同じ人物なのだから。
♢
社交シーズンも終わりが近づいてきたがまだまだ忙しい。
リリアは朝から養護施設の視察と新設された橋の除幕式に参加し、午後は今後の公務に向けた衣装合わせでマネキンとなっていた。立ちっぱなしだったので足が棒のようだ。この後は公爵家主催の夜会まで少し時間が空く。
しかし散歩に行くほどの時間はない。リリアが自室の長椅子に座り足を休めていると、ノックの音がして、返事をする前に扉が開いた。
「いま少しよろしいですか?」
「もう入って来ているじゃないの」
リリア付きの王宮魔術師が、えへへと笑って入ってくる。
一番上の姉と同い年の彼女は変装魔法を教えてくれた講師でもある。付き合いが長いため、許可なくとも気軽にやってくるのだ。
時間が取れず魔法授業を出来ていないため調子を見に来たと彼女は言い、魔力の具合を確めるために簡単な魔法を行うようリリアに指示した。
「最近、近衛の副長とお会いになっているそうですね」
魔法の炎で紙を炙っていたリリアは、魔術師の明るい言葉に動揺して炎が強まり、紙を燃やし尽くした。狼狽がばれたばかりか魔法まで制御できず、渋面で肩を落とす。
「……見ていたの?」
「指輪で殿下がどこにいらっしゃるかは分かりますが、誰とお会いになっているかまでは分かりませんよ。お散歩の頻度が高くなっているようでしたので後をつけました」
リリアは思いっきり眉を寄せた。まるで監視じゃないか。
「最近はほとんどお会いしていないわ。忙しくて散歩も行く暇がないもの」
実際、シーズンが始まって一度だけしか会っていない。
しかもリリアはうたた寝してしまっていて、まともに話もしなかったのだ。
「別におとがめしているわけではありません。まだ噂になっているわけでもありませんし。ああ、ただ氷の騎士様には婚約者がいらっしゃるそうですよ」
「こ……、はっ!?」
――――婚約者!?
リリアは長椅子からがばりと立ち上がった。
「うそでしょう、そんな話聞いたことないわ」
「尋ねたことがおありですか?」
「……ないけど」
「まあ別に婚約者がいようとお喋りするくらいなら問題ありませんよ。お見受けしたところ、殿下ではなく女官としてお会いになっているのでしょう?」
この魔術師には何もかも見透かされている。しかし婚約者がいるなら問題大有りだ。なにより自分のショックが大きい。
リリアは頭を抱えたが、魔術師はそのままニヤニヤして部屋を出て行ってしまった。
その後、リリアは夜会でも上の空で散々だった。
挨拶した貴族の名前は思い出せないし、ダンスでは相手の足を踏み、同行した二番目の兄から体調が悪いのか心配された。リリアは帰ってから葡萄酒を一杯あおり、頭まで布団に潜り込んで寝た。
♦︎
シーズンが終わり、またノアに会うことができた。
しかし今はノアが百合姫だと知っている。何故姿と名前を変えているのか分からないが、本人が話すまではそっとしておこうとロバートは決めていた。
「やあノア殿、ご無沙汰しています。ようやく少し時間が出来るようになりましたね」
「そうですね、忙しくしている間に季節が変わってしまいました」
二人は多忙だった間の出来事を報告した。ロバートはサシェをとても気に入ったと伝えた。
「とても爽やかな香りだったので、寝る前に嗅ぐとリラックスできました。枕の下に入れていたんですよ」
「それは良かったです。ラドクリフ様はお部屋にお花を飾っていらっしゃるかもと思い、爽やかな香りにしたのです。次はどんなものがよろしいですか?」
「そうですね……、いま部屋は香りのない草木が多いので、甘い花の香りが良いです。お願いできますか?」
彼女は笑って頷いた。
以前と変わりなく話せている。ロバートはそう思った。
公の場では完璧な淑女でいる百合姫が、誰にも気にされない女官の格好でうろうろ散歩する気持ちは理解できた。四六時中、完璧な姿でいるなんて不可能な話だ。
表情を変えない百合姫が、自分の前では表情豊かによく喋り、気楽に過ごせていると思うと、彼女をとても愛しく感じた。彼女も昔のことを思い出してくれているのだろうか。
努力しながら立派に公務を果たす百合姫も、屈託なく笑顔を見せてくれるノアも、どちらの彼女も好ましいと思う。
♢
もし婚約者がいるなら確かめなければならない。シーズンも終わり時間ができてきたので、リリアは息抜きの散歩を再開した。
久々にロバートに会うため、緊張のために指先が冷たい。
サシェのこと、季節が巡った庭園の様子、夜会での出来事など、会えなかった時間が長い分、話したいことはたくさんある。
彼はサシェを枕の下に入れていたといい、リリアは嬉しくなった。
しかし話の内容は以前と変わらないのに、リリアはロバートの視線が気になった。なんだか優しいというか、甘い雰囲気の目で見てくるのだ。久しぶりに会ったからそのように感じるだけなのだろうか。
もし婚約者がありながらこんな目で見てくるのだとしたら、ロバートは意外と女たらしなのではないだろうか。
リリアは両手をぎゅっと握りしめて、思い切って尋ねた。
「あの……、大変不躾な質問で恐縮ですが、ラドクリフ様には婚約者がいらっしゃるというのは本当ですか?」
彼はぽかんと口を開け、首を横に振った。
「いません」
「本当ですか?ラドクリフ様のようにお家柄も良い方でしたら、いらしても当然かと」
リリアが眉を寄せて尋ねると、ロバートはふわりと笑った。
「いませんよ。私はあなたのことが好きです」
今度はリリアの方がぽかんと口を開けた。
――いま、なんと言った?空耳だろうか。
自分を好きだと言わなかった?
ドキドキしすぎて耳の後ろで脈打っているのが分かる。
すると、首元の指輪が急激に冷たくなり、小さく風が吹いた。
しまった、と思った時には遅かった。肩にかかる髪が見慣れたプラチナブロンドに戻っていることに気付く。動揺して変装魔法が解けてしまったのだ。
顔を上げると、先ほど質問した時よりもはるかに驚いて目をまんまるとさせたロバートと目があった。
――どうしよう、
――どうしよう、ばれてしまった!!
「申し訳ございません、失礼します」
リリアはロバートから顔を逸らし、急いで立ち上がると走って四阿を出て一直線に自室に戻った。
しばらく一人にしてほしいと女官に告げ、布団に潜り込んで少し泣いた。
ノアを好きだと言ってくれた。ノアはいないのに。自分は彼を騙していた。
きっと泣きたいのは彼の方だ。
♢
散歩をやめ、公務以外は引きこもっていたリリアを王宮魔術師が訪ねてきた。
「殿下の元気がないと女官たちが心配していますよ」
「……彼、婚約者いないそうよ」
王宮魔術師はけらけらと笑った。
「謀ったわね」
「とんでもない。どうせお二人のことですからチューリップとかてんとう虫とかの話ばかりしてるのだろうと思いまして。進展しました?」
「始まる前に終わったわ」
リリアは天を仰いだ。
「あら、そうですか。でもきちんとお話できていないのではありません? 優秀な氷の騎士様ですもの、分かってくださるかもしれませんよ」
「彼は私のことを詐欺師だと思ってると思うけど」
体調のためにお食事はしっかりとってくださいね、と告げ、王宮魔術師はふらりと部屋を出て行った。
確かに謝罪は必要だろう。今後も近衛騎士と王族として接点はあるし、詐欺師として認識されてしまったとしても、好きな人に対して最後は誠実でありたい。
♢
次の日、リリアは変装することなく庭園へ向かった。ノアでいる時とは違い、すれ違う人々が皆立ち止まり頭を下げてくる。リリアは目礼を返し、足早に庭園を目指した。
四阿にはすでにロバートがおり、本を読んでいた。ロバートはリリアに気付くと本から顔を上げ、にやりと笑った。
「やあ、殿下。サシェは作ってきてくださいましたか?」
リリアは、ふっと肩の力が抜けた。そうだ、彼のこんな飄々としたところが好きなのだ。昔はずっと彼のこんな雰囲気に助けられてきた。
リリアはドレスの裾を持ち、ゆっくり丁寧にお辞儀をした。
「ラドクリフ様、ずっと嘘をついていて申し訳ございませんでした。昔を思い出して、お話できるのがただ嬉しく、楽しかったのです。騙していたつもりではありませんでした。お許し頂けるとは思っておりませんが――」
「知っていましたよ」
遮られた言葉に驚いて顔を上げた。
「ノア殿が殿下であること、知っていました。なんだか昔、殿下と過ごしていた時の雰囲気と似ているなあと思っていたのです。確証が持てたのは指輪を見てしまった時ですけどね。あの、うたた寝なさっていた時に」
社交シーズン中に一度会った時のことだろうか。
気付かれていたなんて。
「調べたらノアという女官もいなかったので、殿下が遊んでいらっしゃるのかなと」
ロバートはふふ、と笑うとリリアの手を取った。
「殿下が気を張って忙しい公務をこなしていることを知っています。だから息抜きに心がほぐれる場所を作るのは必要なことです。騙されたなんて思っていません。ましてや殿下の休憩場所を邪魔してしまったのは私の方ですからね」
自分の目に涙が滲んでくるのをリリアは感じ、何度か瞬きをした。
「殿下でもノア殿でもどちらでも構いませんが、できれば今後もあなたと同じ時間を過ごしたいと思っています。逃げられてしまいましたが、先日私の気持ちはお伝えしました。殿下は私をどうお思いですか?」
耐えきれず、リリアの目から涙が一粒こぼれた。
そんなリリアをロバートは優しく見つめてくる。自分の冷たい指先に、ロバートの温かい手から熱が移っていた。
「……私も、ずっと昔からお慕いしていました。これからも一緒に過ごしたいし、もっとあなたのことを知りたいです」
ロバートは、良かったと嬉しそうに笑うとリリアを抱きしめた。
「殿下、いずれ完璧なエスコートで夜会から連れ出してもらうのを楽しみにしていますね」
ロバートは昔と同じことを言う。過去一緒に過ごした時間を、彼も覚えているのだ。
嬉しくなったリリアは、ロバートの腕の中でくすくすと笑った。
《 おしまい 》
おまけ話がありますのでよかったらどうぞ!
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