華が輝き彩るまで
少し長く感じられるかもしれませんが、暇な時にお読みください。
何が起こるも、それを受け入れなければ前へは進めません。
1. 夏の木漏れ日
やわらかく暖かな光を感じて、僕は徐々に目を開けていく。まだ意識が完全に冴えていないなか、夏のにおいを感じながら流れ作業のように、ケータイはどこかと手で探る。
丁度、枕元の横にあったそれを手に納め、ゆっくりと上体を起こす。ケータイの電源を入れ、光が浮かび上がってくる。画面中央やや上に書いてある数字の字列をみて、一瞬にして目が覚めた。
と同時に、まだ寝起きでおぼつかない体に無理やり力を入れ、立ち上がり、洗面所へ急いだ。これが起床時の、いわゆる”テンプレ”ってやつだ。
洗面所につき、寝坊かよ、と心の中で誰に対してかも分からない愚痴を垂れ流しながら水道の蛇口をひねる。勢いよく噴射された冷水を顔に浴びせ、完全に目が冴え、脳が目覚めた。
軽い手つきで歯磨きを済ませ、自室へと戻る。多少の苛立ちと焦りを抑えながら、慣れた手つきで制服に着替え、身支度を済ませる。鞄を持ち、リビングに赴く。コップに水を注ぎ、一気に
飲み干した後に、玄関でやや乱暴にローファーを履き、自宅を出る。気持ちの良い太陽の光が全身を刺激していく。鞄の取っ手に腕を通して背負い、クロスバイクにまたがり、気分を沈めた
まま目的地へと向かう。
これから僕は”学校”に行かなきゃならない。義務教育ではないが、そう決まっているようなものだしね。しかも、これから向かう学校への登校は初訪問をぬいて初めてだった。ここまで
でもう気分がのっていない理由は明白だろう。初日から遅刻する馬鹿がどこにいるんだ。
2. 初陣
学校の門をくぐると、同じ制服を着た生徒と思わしき人達がちらほらと、校舎のほうに走っていくのが見えた。多分、同じ境遇の奴らなのだろう。自分も浮かれていてはだめだ、と自負し、
クロスバイクを校内の駐輪場に止める。鍵をかけ、僕も駆け足で校舎のほうへと向かった。
玄関から校内に入り、職員室はどこかと鞄の中にある学内マップを取り出そうとしていると、声をかけられた。白髪交じりでシワやシミも目立ち、茶色の縁の眼鏡をかけ、だらしなく腹が
でているというあまり良い印象は感じられなかった。きっと職員の方なのだろう。
「きみが長谷誠君だよね?私はここの3-Bの担任をやっている島津と申します。」
合っているかと不安そうな表情を浮かべる島津さんはとても落ち着きのある喋り方だった。
「はい、そうです。長谷誠です。今日からここの生徒として登校する事になってるんですけど」
島津さんは、そう聞くや否や、ああ、と線と線が繋がったような、安堵の表情を浮かべていた。
「それは良かったよかった。無事に誠君が来てくれてとても嬉しいよ。さて、とりあえず職員室へ案内しよう。」
そして歩き出した島津さんの後をついていった。先ほどの島津さんの印象とは違い、とても大らかで年相応の落ち着きがあり、やわらかい印象を与えられた。急に遅刻をしてしまった責任を
感じ、謝罪の一言でもしておこうかと悩んだが、遮るように島津さんが口を開いた。
「ここが職員室だよ。さあ入って」
はい、と返事をしたはいいが、緊張で多少は声が震えていたような気がしなくもない。なんたって、初日から遅刻してきたマヌケ野郎が、教師達の目にどう映るのかが不安で仕方なかった
からだ。職員室に入る際に軽くお辞儀をし、なるべく周りに目を配らせないように、島津先生の後をついて行った。
ここだよ、と島津先生に案内された小部屋に入り、用意されていた椅子の片方に座る。よっこらせ、ともう片方の席に島津先生が座り、何かの書類を広げていった。
「誠君は今日からうちのクラスで授業を受けてもらうよ。きっと新しい環境にもすぐに慣れるさ。何かあったら島津になんでも言ってくれ。」
そう島津先生はおどけて言って笑った。うちのクラスということは、3-Bが僕のクラスになるのだろう。
「他にも、前の学校の事とか色々、聞きたいことはあるんだけどねぇ。今は時間がねぇ。」
君が少し遅刻しちゃったから、と島津先生は冗談のように言い、広げた書類の中からカードのようなものをだし、僕はそれを受け取った。
「これが誠君の学生証だよ。さて、そろそろ教室へ向かわないとね。」
そう言って腰をあげる島津先生に合わせて、僕も立ち上がった。学生証をしまう前に、証明写真にちらっと目をやる。その写真に写る僕は、とてもやつれていた。自分で言うのもなんだけど、
生気をあまり感じられないような、そんな印象を持った。多分、今もあまり変わらないんだろう。
教室に入る前に、身だしなみくらい確認しておこうと思ったが、すでに遅かった。気づかないうちに、もう3-Bの教室とやらについたらしい。
準備はいいかな?という島津先生の問いに、はい、とあどけない返事をした。心臓がバクバクと音をたてているのが分かった。そして、教室へと入っていく島津先生の後につづいた。
教壇につき、緊張で心臓の動機が収まらない中、横で島津先生が口を開く。
「皆さんおはようございます。今日は授業の前に、改めてお伝えしたい事があります。」
当然のように、3-Bの生徒のほとんどの視線が僕に向けられていた。こういった場面は慣れていなく、足の震えも止まらず、自身の手も湿ってきているのが分かった。
誰だだれだ、と疑問の表情を浮かべる3-Bの生徒らに、島津先生は落ち着いた口調で答えた。
「皆さんも分かってるとは思うし、あまり時間に余裕もないので細かい事は省略して、3-Bに新しいクラスメイトが加わる事になりました。」
名前くらいは本人から、と続く島津先生の表情は、シンプルにいってとても嬉しそうだった。意識を頭上にハテナの記号を浮かべているような3-Bの生徒らに向け、目一杯、頭の中で繰り返した
フレーズを一字一句、丁寧に発していく。
「本日から3-Bのクラスメイトとして、お世話になります。長谷誠です。」
自分でもわかるほど、ひどく声はかすみ震えていた。仕方ない、多数の人間に意識を向けられるのは苦手な上に、機会も数えるほどしかなかった。緊張している様を見て、笑う奴もいるんじゃ
ないかと内心、ひやひやしていたが予想よりも、3-Bの生徒らは温かく迎えてくれた。島津先生に指定された席は、教室の一番後ろの、窓際の席だった。人の目を、人一倍気にするタチなので、
席を指定された時は内心ガッツポーズをしていた。席に向かって歩いている最中、よろしくと声をかけてくれた奴や、不愛想で冷えた目線を送ってくる奴も中にはいた。
「さて、色々話したい事もあるけれどもう授業の時間だ。気持ちを切り替えて、今日も頑張りましょう。」
島津先生の言葉に続き、周りは音をたてて教科書などの類を机の上に広げていった。ガサゴソと音が飛び交う中、僕の一つ前の席が空席だったのが、やけに目立っていた。
初日の授業も終わり、ちらほらと下駄箱へ向かう生徒を見かける頃、僕は少し遅れて帰る身支度を済ませていた。夕日も出てきて、夕焼けの色に染まる教室内を眺めながら、今日という
一日の余韻に浸っていた。ずっと緊張していたからか、授業が終わった解放感からなのか、どっと疲れが押し寄せた。すぐに帰宅しようと思ったが、帰る前に職員室に寄ることにした。島津先生
に、初日から遅刻した謝罪をするためだ。
校内にいる生徒も少なくなってきた頃、職員室へ足を運ぶと、職員室前の廊下に島津先生が生徒と思わしき人と立ち話しているのが目に入った。が、この時の僕の視線は、島津先生よりも
”生徒と思わしき人”に釘付けになっていた。
長く艶やかな黒髪、透き通るような白い肌、自身の倍はありそうな長さの睫毛、そして宝石のように潤んだ瞳。その女の子に対して持った印象は、一言でいうなら”華”そのものだった。
おまけに、夕日に照らされているせいか、絵画を眺めているような錯覚に陥っていた。
島津先生が僕の存在に気づき、僕に声をかけるや否や、その可憐なオーラを纏った彼女は僕の横を通り過ぎ、校外へと去っていった。まるでその花に見惚れ、蜜を求める蜂のように、
僕は彼女に魅せられていた。彼女が視界から消えるまで、視線を外すことはできなかった。まるで時が止まってしまったかのように。
3. Chasing the flower
僕がこの都内の隅にある共学高校、雛鳩高校に転校してきてから約2週間が過ぎようとしていた。それなりに会話を交わすクラスメイトもでき、授業にも多少は追いつく事が
できていたため、一見、順調に学生生活を送っているようにみえる。もちろん学業自体に問題があるわけでもなく、友人関係に不満があるわけでもなかったが、今の学校生活において2つだけ、
気になっている事がある。1つは、僕が3-Bのクラスメイトになってから、一つ前の席がずっと空席だということ。元々、誰も使っていないのかと考えたこともあったけど、島津先生が出欠を
確認する際に、いつもその子のであろう名前を呼んでいたため、その線はなくなった。確か名前は、日奈瀬咲。そもそも僕がそこまで日奈瀬咲という人物を気にする必要もないのだが、
いささか毎日、誰も座っていない日奈瀬咲の席が視界に入るたびに、無意識に考えてしまっている自分がいる。
話を戻すけれど、2つ目は初日の放課後に見かけた、潤んだ瞳をもつ彼女のことだ。あれからもう一度だけ、保健室に入っていく彼女を見かけたことはあるがそれっきりだった。初日にみた
彼女の風貌や仕草、目つきや歩き方まで、僕はそれら全てに魅せられ、その時の余韻が今も、頭の中を駆け巡っていた。そんなことを考えているのもつかの間、僕は今日の昼休みの時間、
再び彼女と顔を合わせることになる。
午前の授業が終わり、昼休みの時間に入ると僕は、朝にコンビニエンスストアで買ったパン二つが入った袋を持ち、学内にある自動販売機で無糖の缶コーヒーを買い、屋上へ足を運んだ。
午前の授業を無事に終えた安堵と、午後の授業を控えているという多少の憂鬱感に浸りながら、屋上の扉を開ける。視界に飛び込んできたのは、地を照り付ける日差し、淡い青の広がる
広大な空、そして長い黒髪を風に靡かせる、彼女だった。
屋上の端のほうでフェンスに手をかけ校庭を見つめている彼女から、7,8mほど距離をあけ、自分もフェンスにもたれかかって座り、缶コーヒーを開ける。見渡す限り、屋上に僕と彼女以外
の人影は見当たらなかった。少しだけ、ほんの少しだけ内心、高ぶっていることを自覚しながらコーヒーを口に運んだ。苦くも深い風味が、舌と喉を刺激する。
パンを二つ食べ終える頃、彼女は振り返り、屋内へ戻る素振りを見せてから僕の存在に気づいた反応を見せた。僕が屋上に来てからパンを二つ食べ終えるまで、僕自体を認知していなかったと
したら、それほどまでに考え事をしていたりしたのだろうか。だとしたら、彼女はこの屋上からの景色を眺めながら、何を想っていたのだろうか。無意識のうちに、そんなことまでに僕が頭を
回していると、彼女がこちらに一歩ずつ向かってきているのが分かった。彼女がこちらに近づく度に、心臓の動機も共に早くなっていくのを実感した。
「もしかして、君が転校生さん?」
長い黒髪を靡かせながら疑問の表情を浮かべる彼女に、そうです、と返事をするも、少し間ができてしまった。向こうから声をかけてくるとは思わなかったし、ましてや彼女の声を聞くのは
初めてに等しかったからだ。
「そっか、君が長谷君だね。島津先生から聞いたよ。初めまして、同学年のクラスメイトさん。」
彼女の”クラスメイトさん”という言葉が、頭の中で反響する。彼女の思い違いかもしれないと思ったが、島津先生の名を聞いてはその線は薄い。となると、答えは一つに絞られていた。
「もしかして、日奈瀬咲さん?」
その問いに対して、元気良く首を縦に振る彼女は、今までの雰囲気とは違い、とても可愛らしく見えた。
「良く分かったね、長谷君。君は超能力者か何かなの?」
笑みを浮かべ冗談を述べる彼女に、そんなんじゃない、と返答をし、前から気になっていた疑問を、彼女にぶつける。
「どうして日奈瀬さんは教室に来ないの?学校内では2回ほど君を見かけた事があるけれど、授業を受ける君の姿を、僕はまだ見たことがないよ。」
「確かに、君とはまだ一緒に授業を受けたことがないなー。ほんの少しだけ重い話になっちゃうけど、そういう雰囲気にしたくないから、聞き流すように聞いてくれる?」
そう告げる彼女に、僕は頷いた。
「私は小さい頃から体が弱くて、今でも通院生活をしてるんだ。だから皆みたいに、毎日のように登校できるわけでもないんだ。そのせいで、授業にもあまりついていけないし、大半は
”保健室登校”ってやつになっちゃうね。君は、ちゃんと授業うけてるの?」
「受けているに決まってるさ。転校してきてすぐにサボりだすなんてこと、普通はないと思うけど。」
じゃあこの生活に慣れてきたらサボっちゃうって訳だね、とまた笑みを浮かべ、彼女は続いて言葉を発する。
「君、もしかして入院してた時期とかある?」
彼女の意外で素朴な質問に、少し戸惑いもしたが、僕はまた頷いて返す。
「小さい頃に、1ヵ月ほどね。大した病とかじゃなくて、ひどく熱が治まらなくてね。なんで分かったんだい?」
そんな僕の問いに、私には超能力のおかげで分かってしまうのです、と彼女は胸を張って答えた。本当にその超能力とやらを持っているなら、”もしかして”なんてあやふやな問い方を
しないだろう。もしくは、”かもしれない”とお告げされる超能力なのかもしれない。なんて中途半端な能力なんだ、とくだらない持論を心の中で垂れ流していると、いつの間にか彼女は、
屋内へと続く扉に向かって歩きだしていた。
保健室に戻るよ、またね。と風に攫われていってしまいそうな声で、彼女は言いながら手を振って見せた。そんな彼女に手を振り返し、歩いていく姿をただただ見送る。そろそろ、と
足元にあった缶コーヒーを急いで飲み干し、僕も教室へと向かった。今日の授業も、頑張れそうだ。
その日の夜、僕は帰りにコンビニに寄って買った弁当を平らげ、シャワーを浴びながら、昼休みの出来事を思い出す。日奈瀬咲は、”小さい頃から体が弱くて”と言っていた。その言葉は、
僕の心に重くのしかかっていた。確かに、初めて話した日奈瀬咲は、そこらの女子高生より少し品のある、元気な女の子という印象だった。が、僕は覚えている、会話を交わす前にフェンスに
手をかけ遠くを見つめていた彼女を。あの時の日奈瀬咲は、どこか悲しそうだった。何を見つめ、何を想っていたのかなんて、僕自身が考えても仕方のないことだけれど、とても気にせずには
いられなかった。そんなもやっとした感情を、全て洗い流すように、シャワーを全身に浴びた。もちろん、効果なんてないに等しかった。
気分転換をしたくて、シャワーを浴び終えた後、上下のスウェットを着て家を出た。辺りも暗く、虫の音があちらこちらから聞こえてきた。もう7月の半ばに入る時期になるけれど、この時間
の気温は丁度良く、風すらも心地よく感じられた。目的があるわけではなかったが、近所にある少し広い公園に向かうことにした。都内ではあるが、ここ近辺に人通りは少なく、最寄の駅も少し
離れている。ここらで人通りが良い場所があるとすれば、大通りにでて向かい側にある、総合病院の付近だろう。僕は小さい頃、ここに入院した経験がある。
公園につき、辺りを見渡すと無人のようだった。ベンチに腰をかけ、愛用のイヤホンを耳にかける。聴こえてくるのは、ジョン・レノンの「let it be」だ。耳から脳へ、送り込まれていく
音楽は、まるで1000円ちょっとの安いイヤホンから出ているとは思えないほど、独創的なものだった。
僕はこうやって、時々一人で外の風を浴びるのが好きだった。何か特別な目的も立てず、ただただ一人の世界を満喫し、そしてその世界に”浸る”のだ。これを聞いて、ただただ自分に酔って
ばかりのヤバい奴、という解釈をする者もいるだろう。だけど、あながち間違っていないのかもしれない。
理由があるとすれば、元々一人でいる時間が心地の良いものだということ。それと、入院していた時期にあまり外出をできていなかった反発で、こうして一人で外と触れ合うことは、新鮮に
感じられるということ。
けれど今日は、いつもとは少し違う。それは、頭の中が彼女、日奈瀬咲で埋まっていることだった。学業や進路、自身のことはこれっぽちも考えることもなく、僕の脳内は彼女で満たされて
いた。昔に流行った”脳内メーカー”なるものに僕の名前を入れれば、咲という一文字で埋まりつくしているんだろうな。これほど彼女の事ばかりを考えるこの気持ちはなんなのだろうか。
なんて何回と考えたが、その答えを自身でなぜか否定し続けていた。否定する意味もなく、ただ曖昧な感情のまま、学校生活を送っていた。だからこそ、僕は後悔をするハメになったんだ。こ
の時の僕自身を、ぶん殴ってやりたいほどにね。
4. 枯れゆく華
この学校での生活にも慣れ、とうとう学生お待ちかねの夏休みに入る頃。うきうきしながら予定を立てあうクラスメイトもいれば、高校最後の夏休みだと、少しやるせなさを感じさせるクラス
メイトもいた。もちろん僕は、嬉しさより悲しさのほうが何倍も大きかった。彼女の顔を拝むことができなくなるからだ。それに何よりその悲しさを倍増させた原因は、夏休みに入る前日にも
前の席には誰も座っていなかったということ。
暗く重い気分のまま、終業式を終えた放課後、僕は島津先生を尋ねに職員室へと足を運んだ。職員室が見えてきた頃に、職員室へと戻る島津先生と会い、すみません、と前置きをしてから尋
ねた。
「あの、日奈瀬咲さんは今日も登校してらっしゃらないんですか?」
その質問を聞き、島津先生は少し曇った表情で答えた。
「誠君は知らなかったね。咲さんは少し前にまた体調が悪化してしまったらしくて、今は入院してらっしゃるそうだ。そうだ、今日の夕方にでも少しだけ、お見舞いと言っちゃなんだけど
咲さんの所へ顔を出しに行こうと思っていたんだ。誠君も一緒に来るかい?」
そんな提案に乗らない訳もなく、僕は島津先生に深く頷き返した。
島津先生に案内され、辿りついた場所は、大通りにでたところにある例の総合病院だった。ここに彼女が入院しているのなら、実家が近所にあるのだろうか、などと考えていると受付で用を
済ませた島津先生がこちらに向かってくるのが見えた。さて、と彼女の病室へ向かう島津先生の後につづいた。彼女の病室へ近づくたびに、心臓の鼓動が徐々に大きく感じて取れた。
「ここが、彼女のいる病室だそうだ。」
そう言って足を止めた島津先生の目前にある扉には、”305号室 日奈瀬 咲 様”と表記があった。ノックをし、島津先生が扉を開ける。病室には、夕日が鮮明にうつる窓に顔を向ける彼女
の姿がそこにあった。
「来てくれたんですね、島津先生。…と、長谷君?」
笑みを浮かべながら首をかしげる彼女に対して、島津先生が口を開く。
「こんばんは、日奈瀬さん。丁度、向かおうとしていた時に誠君と会ってね。ご一緒にと私が誘ったんだ。」
島津先生の言葉に付け足すように、僕もこんばんはと頭を下げた。来客用の椅子に二人して腰をすえ、それからは、島津先生から彼女宛ての事務連絡を済ませた後、3人で何気ない会話を交わした。話している時の彼女は、とて
も病人とは思えないほど、明るく振舞っていて、満面の笑みも時折、見せてくれた。
「さてと、私はそろそろこの辺で学校へ戻ることにするよ。まだ用事が残っているんだ、すまないね。日奈瀬さんが登校してきた時は、また全力で歓迎するからね。」
そう告げ、島津先生は一礼を交わした後に、病室から出ていった。それから、数分間の沈黙が場を包む。明るく話す日奈瀬咲、静かに振舞う日奈瀬咲、学校で出会う彼女も、病室で話す彼女も
どれらもとても愛おしさを感じて、改めてそれを実感させられた。次にいつ彼女と会えるのか、ふと不安になった。自身の気持ちを今、彼女に告げようと心に決め、沈黙を切り裂くように僕から
口を開いた。
「あの、日奈瀬さんに伝えておきたいことがあるんだけど」
「ごめん、そろそろナースさんが来る時間帯だし、また今度でも良いかな。外も暗くなっちゃうし。」
先ほどの元気な様子とは違い、か弱い声で彼女は言った。いつまでも視線を下に向けている彼女のお願いを、断る訳もなくわかった、と了承した。せざるを得なかった。そして腰を上げ、本日
最後になるであろう会話のボールを投げる。
「日奈瀬さん、お大事に。では、またね。」
「うん、バイバイ。」
病室を出ても尚、彼女の弱々しい声が頭の中に居座り続けた。急に体調が悪くなったのか、もしくは元々無理をして話続けていたのか。それとも、僕との会話にうんざりしていたのか。理由は
どうあれ、気分は重いまま病院を出る。いつしか、外は雨が降っていた。空も暗く、まるで僕の心を映しているかのようだった。学生鞄を頭上に持ち、足早に自宅へと向かった。
その後、僕は後悔をする。とても悲痛で、苦しくて。人生を投げ出すほどにね。
今なら、彼女の返した言葉の意味が、分かったような気がする。
5. 辿りつく場所
季節はもう冬になり、一か月後には学生が冬休みという名の休息に入る時期だ。世の学生達は、今頃、揚々と授業を受けている者が大半だろう。けれど、僕は違った。ここ3週間ほど学校にも
行かず、ある場所へ訪れるのが日課になっていた。そして今日も、流れるようにそこへ足を運ぶ。電車に乗れば多少は楽になるのだが、いつも敢えて徒歩で向かうことにしている。大きな理由
などないけれど、強いて言うなら戒めみたいなものだ。その正体は、辿りつけば分かるさ。
目的地につき、手桶に水を汲んで彼女の元へと向かう。そして、やっと着いた。
「おはよう、日奈瀬さん。昨日ぶりだね。」
そう僕は、”日奈瀬 咲”と書かれた墓石に言葉をかける。あくまで僕は、彼女自身に話かけているつもりだ。来る最中に八百屋で買った林檎をビニール袋から出し、彼女の元に供える。昨日の林檎を袋に戻し
汲んできた水で、墓石を洗い流し、自前のタオルできっちりと拭き取る。そして目を瞑り、毎日のように脳内で垂れ流しているフレーズを今日も繰り返す。
”僕にできたことはありましたか?”
知り合って間もない僕なんかが、彼女の力になれるはずがない。けれど、少しくらい力になれることはあったんじゃないか。もう過ぎた事とは嫌なくらい実感していたけれど、そんなことを
自分自身に言い聞かせていた。まるで自分自身への罪の償いのように。
帰り道、僕は彼女とかかわった時間を振り返るのも日課の一つになっていた。数えられるほどしかない上に、病院で彼女と話した日が最後という形になってしまった。けれど、だからこそ彼女
と過ごしたほんの少しの時間は、とても存在の大きく、大事なものに感じられた。
あの病院での出来事以来、彼女は学校にも姿を現さず、ましてや彼女に関係のある連絡は、彼女の死を告げられるまで、一切としてなかった。何かあったのかと途中、何回も面会を要求したが
本人からの面会拒否とされ、一度も会うことができていなかった。
彼女は大した病気じゃないと言っていたが、あれは紛れもなく嘘だ。それなら尚更、長い間、通院や入院を繰り返しているはずがない。そこに気づかないのは盲点だった。彼女を想うと、自分の
不甲斐なさや、不満ばかりが連想されるけれど、考えるなと言われても無理な話だった。
そんなことを考えながら足を進めていると、もう家の近所にまで歩いてきていた。帰る前に夕ご飯を買おうと途中にあるコンビニエンスストアに目を向けると、近くに”路上占い”なるものが
あるのが目にとまった。僕はこういった類は信じないし、馬鹿馬鹿しいとすら思うタイプなのだが、もう彼女という存在が消え、僕の心には大きなひびが入っていて、もう原型などとどめていな
くて。
気づいたら、”路上占い”なるものに立ち寄り、占い師と名乗る者に5000円札を手渡していた。占い師は、性別は女性だと分かるが布の被り物のせいで顔も見づらく、不思議な雰囲気を醸し出して
いた。占い師は受け取ったお札を小汚い小さな箱に入れると、口を開いた。
「あなた最近、大切な人を失ったね。」
占い師の第一声に、思わず驚き、えっと声が漏れてしまった。驚いたのもつかの間、彼女は続けて口を開いた。
「あまり自分を責めるのは良くない。責め続けても良いことなんて実らず、自分の身も心も滅ぼすだけさ。」
言い返す言葉もなく、ただただ驚き、そして納得している自分がいた。
「あなたにこれを渡します。ぜひ、役に立ててください。」
そう言って手渡されたのは、一つの封筒だった。中身は帰ってから、と念を押され、渋々自宅へと向かった。コンビニに寄りたかったが、何より封筒の件が気になって仕方がなかった。
家につき、早速シャワーを浴びることにした。すぐに封筒を開けても良かったが、なにかと線引きをしたいという気持ちがあった。きもち早めにシャワーを浴び終え、心の準備に取り掛かった。
どうせ大したことないものだろうと気持ちを落ち着かせたが、心のどこかで封筒の中身に期待してしまっている自分がいた。日奈瀬咲がいなくなってから、人として落ちぶれ、光を見失っていた
この日々を、打開できるなにかがあるんじゃないか。少し大袈裟だけれど、縋らずにはいられなかった。
封筒を開けると、1枚の手紙と、鶴の形に折られた折り紙、そして5000円札が入っていた。この鶴の折り紙は、どこかで見覚えがあったが、細かい記憶なんて浮かんでこなかった。そして手紙
のほうへと目を向ける。
”〇〇〇ー×××× 屋上 〇月△日 AM12時”
と、住所と日付、時刻だけが書かれていた。日付は今週の日曜日、そして住所も…見当がついていた。先に何があるかは分からない、何もない可能性だってある。けれど、少しでも光が差した
ほうへと、僕は歩まずにはいられなかった。
6. 光さす道
日曜日。某総合病院の屋上へと向かうと、先客がいた。あの時の占い師だろう。けれど、雰囲気は違っていた。セミロングの茶髪に、白シャツの腕を捲り、七分のジーパンを着ていた彼女は、
初印象の時と比べ、だいぶ清潔感が増していた。おまけに被り物もしておらず、改めて女性なのだと実感した。
彼女は僕の存在に気づき、軽く会釈をした。それに対し、彼女より少し深く頭を下げる。彼女の第一声は、予想内のものだった。
「なにか思い出した?長谷誠君。」
はい、と頷き、即答する。彼女の口から僕の名前を聞くのは、とても久しいものだった。
「お久しぶりです、藤宮実里さん、ですよね。」
絶対といった確信はなかったが、彼女はそれを聞いて安堵の表情を見せた。
「この鶴をみて、この場所に呼ばれて、思い出しました。」
なぜ僕が藤宮実里の名前を知っていたのか。そして彼女の持っていた鶴に見覚えがあり、なぜここに呼ばれたのか。なぜ、今だったのか。
この鶴の折り紙は藤宮実里と顔を合わせていた際に、作ったものだった。他にも何個か作った覚えがある。当時、僕はここの総合病院に約一か月ほど入院していた。小さかったが故に、記憶が
曖昧なものになってしまっていた。それに、退院後は一時期、ここを離れて都内の端から端へと引越したため、益々、記憶が薄まっていた。
この鶴の折り紙は、当時の記憶を隅々まで思い出すには丁度良いものだった。なんていったってこの折り紙は、僕と藤宮実里が同じく入院していた”彼女”に向けて作ったものだからだ。そう
、”彼女”とは、日奈瀬咲のことである。
藤宮は小さい頃から日奈瀬咲と幼馴染で、よくお見舞いに来ていた。そこで当時、入院していた僕も含めて3人でよく遊んでいた。歳も近いおかげで、何も考えず、ただ無邪気に遊んでいた。
当時は、相手の名前なんて気にもせず、藤宮が彼女を咲ちゃんと呼んでいたから僕もそう呼んでいた。”咲ちゃんという女の子”という印象だけで、理由もなく関わっていた。
僕が退院したあと、少しの間遠くへ引っ越すということを彼女らに告げ、その際に鶴を藤宮と折ったのだ。当時は、ただ遊んでいたという記憶を忘れないために、友達の証、なんて理由で
いっぱい作っていたんだと思う。けれど、それから長い年月が経ち、僕の記憶からはすっかりなくなっていた。同時に、学校の屋上で日奈瀬咲と交わした会話を思い出す。
”君、もしかして入院してた時期とかある?”
僕は痛感する。あの時、彼女も確信はなかったけれど、もしかしてと僕に尋ねたのではないだろうか。もし僕が、あの時きちんと思い出していれば、もっと日奈瀬咲と深い付き合いができてい
たのだろうか。けれど、それならなぜ、彼女は僕に告げなかったのだろう。なぜ、前に会ったことがあると、告げてくれなかったのだろう。
「もしかして、なんで咲ちゃんが教えてくれなかったのか、なんて考えてる?」
僕の心を見透かしたように、藤宮実里は言った。
「そのくらい私にも分かるよ。咲ちゃんはあなたに告げることで、あなたが嫌な気持ちになるかもって思ったんだ。それと同時に、多分だけど、咲ちゃん自身も嫌な気持ちになんかなりたくな
かったんだ。」
嫌な気持ちになんて、そう言いかけると藤宮は感情的になりながら言葉を続ける。
「咲ちゃんがいなくなったのは君のせいなんかじゃない。それは避けられない運命だったんだよ。でも、もしそれを自分で悟っていたら、君ならどうする。運命の再開を果たして、それを相手
に告げても、終わりがきた時に悲しくなるだけ。それが尚更、相手が気づいてないとしたら、心にしまっておきたいと思うのも不思議じゃない。それでも君は告げる道を選ぶの?」
藤宮の言葉で、全てが綺麗な一本の線で繋がったような気がした。自分の不甲斐なさで心が押しつぶされてしまいそうだった。雨が、降っていた。
雨の音も耳に入ってこないほど、深いどん底の沼に浸かっているような気分だった。多分、彼女、藤宮実里も似たような気分なのだろう。
「何を言っても、何を悩んでも咲ちゃんは帰ってこない。なら、前を向くしかないよ。誠君も、私も。」
弱くかすれた声が聞こえ、そちらに視線を向けると、彼女は泣いていた。雨のせいで気づかなかったが、多分、僕も泣いているのだろう。
「こんな格好の悪い姿はもう見せない。だから、今日だけは、思う存分と吐いていいかな。」
涙を拭き頷く彼女に、ありったけの”想”を吐いていく。
-もっと日奈瀬咲の声を聴きたかった。もっと顔を見ていたかった。もっと話していたかった。気持ちを伝えたかった。3人でまた、遊びたかった。-
そんな悲しく哀しい感情が、辺りを包みこんでいった。いつの間にか、藤宮実里は僕を抱きしめていた。時間を忘れ、二人して泣きじゃくっていた。
雨が止み、涙も枯れ。ひと段落ついた僕らは、会話を交わす。
「誠君は今、願い事をするなら何をお願いする?」
びしょ濡れになり、僕の上着を羽織る藤宮実里は僕に問う。どうせなら日奈瀬咲と会いたい、時間を巻き戻してほしい。なんてお願い事をするところなんだろうけれど、ここにそういったSF
要素は何もないわけで。
「藤宮、一緒に日奈瀬咲に会いに行こう。もちろん、徒歩でな。」
7. 永遠の華
一時期は不登校になっていたものの、高校をなんとか無事に卒業をし、今は目標に向け必死に歩き続けている。目標というのは、いわゆる”医者”だ。理由に、日奈瀬咲という一人の女の子の
存在が大きく関わっているのには違いない。そんな自分語りをしながら車を出し、彼女、藤宮実里を迎え、目的地へと向かう。
「久しぶりだね、日奈瀬さん。」
僕は、日奈瀬咲に声をかける。藤宮実里も同様に、続けて声をかけた。いつもは一人だったけれど、今は藤宮と共に月一のペースでここへ訪れている。そして、丁寧に水洗いしたあとに行きの
途中、八百屋に寄って買った林檎を供える。こういったことを、作業に捉えることはなく、いつまでも日奈瀬咲という彼女の存在は、僕らの心の中で、大きく光続けるだろう。
車に戻り、走り出すと同時に藤宮が口を開いた。
「びしょ濡れになった日、誠君と私が泣きじゃくった日。あの時に、お願い事を聞いたの覚えてる?」
ああ、と視線を外さずに返事をする。続けて、彼女は笑いながら言う。
「あの時、時間を巻き戻してほしいとかSFチックなことを言い出すかと思った。」
再び、見事に心を見透かされているようなことを言われ、思わず笑みを浮かべる。
「でもね、誠君。私はそんなSFチックなことはあんまり好きじゃない。彼女の存在を君一人で抱え込もうとするには、重すぎたんじゃないかな。」
ブレーキをかけ、彼女に視線を向けると、彼女は真剣な眼差しをしていた。
「今までの喜びも痛みも、共有しあえるじゃないか。藤宮ならさ。」
その通り、とおどけて笑う藤宮実里は、とても優しく、とても逞しい表情を見せてくれた。全ては運命だと、運命だと受け止めた上で、前を向くのだと藤宮実里に教えてもらった。今の僕が
あるのも、今までの事も、全ては日奈瀬咲との出会いから始まった。僕の中に咲いているこの華は、いつまでも可憐に、輝き続けてくれていることだろう。今日は、とても気持ちの良い快晴だ。
7.5 after episode-灰彩る華は何を想う-
私は生まれつき体が弱かった。小さい頃から大半は病院内で生活を送る日々だった。高校に入ってからは、何度か登校はできたもののほとんど変わらない日々を過ごしていた。けれど、この前
の学校での出来事で、こんな私の日々に、光がさした。光が、さされてしまったんだ。
彼は、長谷誠と名乗った。小さい頃に、同じ病院内で遊んでいた男の子もそんな名前だった気がする。でも、彼は覚えていない様子だった。私は教えたい気持ちでいっぱいだった。でも、これ
で良かったんだ。自分がもうこの先、長くないなんてわかってるから。余計なことなんて言わなくていいんだって、自分に言い聞かせたんだ。そうやって病室で無理に、自分に言い聞かせてる時
には涙が止まらなかったな。病のことなんて告げられても泣くことなんてなかったのに。
でもね、誠君が面会にきた日の夜に、夢をみたんだ。もしも私が教えてたらっていう、そんな内容の夢物語。
多分、私は誠君と付き合うことになると思う。彼の気持ちはわからないけれど、どんな夢を描いたって私の自由だからね。それで、学校にも行かずに、二人でいろんなところに遊びに出かける
んだ。でもたまに、島津先生に会いに学校へ遊びに行くんだ。そこに、実里ちゃんも呼んでたまには3人で遊んで。そんな幸せな日々を、限界まで、限界まで過ごすんだ。
でもね、ここからが大事なんだ。私はもう長くないことを、誠君に告げるとね、誠君は一人で抱え込んじゃうんだ。悩んで、どうにかしようともがいて、振り出しに戻って。
全ては運命なんだって、受け入れるしかないって私は誠君を説得するんだ。でね、どんどん最期が近づいてきて。
会話を交わせる最期の機会に、私は誠君に言うんだ。
”なんで私と出会ってしまったんだ、私はもう覚悟ができてて、何も怖くなかったのに。君と時間を過ごしたせいで、光が差し込まれちゃったんだ。生きたい、って思っちゃったんだ”ってね。
それを言った私も、言われた君も、お互い泣きじゃくるんだ。どうしたらいいのかも分からないくらいにね。
ほら、どうせこうなっちゃうんだ。だから何も告げない選択肢は正しかった。正しかったって思わないと、何かが崩れていっちゃう気がした。
また、3人で遊びたかったな。皆で折り紙で鶴をつくって、そうして
お読み頂き、ありがとうございます。
ほんの少しでも、楽しめていただけたら幸いです。