後日談:報告2
話が前後しますが、
最終話の直後です。
昼が疾うに過ぎたのにも気付かず、三人は遊ぶだけ遊んだ。
ようやく空腹を覚え、美菜のマンションへとやって来た。
そのまま雅典の家に行きすぐにでも新たな生活をスタートさせたいところではあるが、現実には美典の育児に必要なものが何もない雅典の家に行くわけにはいかなかった。
「そっちに座ってて。」
それだけ言って忙しなくキッチンへと入った美菜の後姿を見送ってから、雅典は美典を抱いたまま腰を降ろした。
そして、美菜らしいシンプルな部屋の中を見回す。
「いい部屋だな。」
正直な感想を言った雅典に、美菜はカウンター越しに苦笑を漏らした。
「だけど、この広さで雅のとこよりも高いんだよね。」
ファミリー向けの雅典の家に比べ、ここは1LDK。だが都心という立地が、信じられないほど値段を上げている。
「え、もしかして分譲?」
さすがに雅典は驚いた。
雅典の家だってそれなりの値段するのに、それ以上のものを買ってしまうほど稼いでいるのかと。
またそれは美菜の心が完全に雅典と決別していた証のようで、悲しくなった。
「まさか!私は借りてるんだけど、分譲もしてるんだって。」
そんな雅典の心情を知ってか知らずか、美菜はあっけらかんと笑った。
「…ねえ、雅?」
しばらく冷蔵庫の中を物色し続けていた美菜が、困ったような声を出した。
「どうした?」
「冷蔵庫にろくなものなくて…炒飯ぐらいしか作れそうにないんだけど、いい?」
「十分だけど?何をそんなに困ってるんだよ。」
「だって…」
美菜の声の音量が、極端に下がる。
キッチンとリビングという微妙な距離感が厭わしくなった雅典はキッチンへと向かった。
近くに行くと、美菜が不貞腐れたような顔をしていることに気付いた。
しかし雅典にはそのわけが見当も付かない。
「だって、なんなんだ?」
「…せっかく何年かぶりに、雅に食べてもらうのに。もっとちゃんとしたもの作りたかった。」
それを聞いて、雅典はみるみるうちに顔を綻ばせた。
そして我慢できずに美菜を抱きしめた。
「え、雅?」
「これからは毎日食べられるんだから、凝ったものはまた作ってくれればいいよ。」
「でもさあ…」
それでも納得しない美菜。
しかし雅典の腕の中で、雅典の幸せそうな顔を見ると、考えを改めた。
「そうだよね。これからはいつでもチャンスはあるんだもんね!」
そして笑った。
無防備な笑顔を間近で見せられた雅典は、そのまま頬に口付けた。
「もお!邪魔だからあっち行ってて。」
照れているくせに。
眉間に皺を寄せながらそんなことを言う美菜は、雅典が知るいつもの美菜でなんだか安心してしまった。
リビングに再び腰を下ろした雅典は、隣を見て声をあげた。
「あ。」
「何?どうかした?」
炒め物の音がうるさいのか、美菜が心持ち大きな声で尋ねてくる。
「みのりが寝てる。」
雅典は美典を起こさないように小さな声で、代わりに美典を指差しながら美菜に伝えた。
それで気付いた美菜はカウンターから少し顔を出して覗き込んだ。
「あーあ。お昼ごはんまだなのに。」
そう言いながらも、あれだけはしゃいだ後なのだから仕方ないと思った美菜は雅典に頼んだ。
「隣の部屋にみのりのベッドがあるから運んでくれる?」
「わかった。」
雅典は美典をそっと抱き上げた。
美典を運ぶ雅典を見て、美菜は不思議な感覚に囚われた。
今まであれは自分だけの役目だったのに。
自分と美典二人きりの世界だった景色に、雅典がさも自然に溶け込んでいることに、美菜は素直に嬉しいと感じた。
「美菜、電話してもいいか?」
かなり遅い昼食を終えて、雅典がそんなことを言い出した。
「いいよ。仕事?」
一緒に居たころ休日出勤をすることも多かった雅典だから、きっと今も仕事が忙しいのだろうと美菜は深く考えずに言った。
「違うよ。美菜のこと、報告しないといけない人がたくさんいるから。」
「あ…そうだよね。ごめんなさい。」
きっと、心配をかけた人がたくさんいる。晴彦も、大学の友達も。
「なんで美菜が謝るんだよ。親にまで黙ってるの、辛かっただろ?ごめんな?」
そこで美菜は、場違いにも笑ってしまった。
「ううん。だってうちの親、そんなに心配してなかったでしょ?」
美菜の親は、少し変なのだ。
無事であることは手紙で伝えていたのだから、それ以上あの二人が気を揉んでいるはずもない。
「はは、まあな。でもな…」
それはそうなのだが、雅典が通い詰めたことでかなり迷惑をかけていたと思う。
そのときは必死で気付けなかったが。
「とりあえず、ハルに電話するな。」
「うん。」
雅典は携帯電話を操作して晴彦の電話番号を呼び出した。
「…。」
しかし発信ボタンを押す手前で、ふと手を止めて考えた。
「?電話しないの?」
美菜がそう言ったのとほぼ同時に通話ボタンを押した雅典は、そのまま電話を美菜に手渡した。
「え…えっ?」
あたふたする美菜を雅典は急かす。
「ほら、向こうが出ちゃうぞ。」
「え…」
美菜は心の準備ができないまま、受話器を耳に当てた。
―プルルル…プツッ
『もしもーし、ナベさん?』
懐かしい、晴彦の陽気な声が聞こえた。
「…。」
美菜は訴えるような目で雅典を見た。雅典は何も言わない。
『あれ?…もしもし?』
美菜は意を決して、口を開いた。
「あ…あの、」
『ミナ!ミナか!?』
「…うん。」
『え、これナベさんのケータイだよな?お前、戻ったのか?』
「…うん。」
口数の少ない美菜に、晴彦はもどかしげに促した。
『うんじゃなくてなんか言えよ。』
「えっと、ごめんねハル。」
『なにが?』
「心配かけて。」
晴彦は美菜に会えたら言いたかったことを、真っ先に言った。
『なんで俺に何も言わなかったんだよ。俺がナベさんにチクるとでも思ったのか?』
そもそも二人が別れるべきではないと思っている晴彦は、知っていたら雅典に話していたかもしれない。
勝手だがそれでも、美菜が自分に一言の相談もなく消えたことが不満だった。
「そういうわけじゃないんだけど…」
美菜が困惑しているのに気付いた晴彦は息を吐きながら漏らした。
『とりあえず、ようやく収まるべきところに収まってくれてよかったけど。ナベさんがどれだけ苦しんだか、お前わかってるのか?もう見てられないほどだった。お前はナベさんを苦しめたかったのか?』
「それは違う!でもごめん。」
『それはナベさんに言ってやれよ。ま、ナベさんのことだからミナは悪くないって言うだけだと思うけど。』
事実、もう既にそのやり取りはなされている。晴彦の鋭さに、美菜は相変わらずだなと一瞬だけ微笑んだ。
しかし晴彦の次の言葉で再び、辛そうな顔をした。
『それだけじゃない。俺と梢がどれだけ心配したかわかるか?』
「わかるよ。最初からわかってた。」
晴彦が心の底から心配してくれることはわかっていたが、心が痛んだが、それでも止められなかったのだ。
『わかってるならいい。とにかく、電話越しじゃあ気が済まないから、こっち来いよ。仕事忙しくはないんだろ?』
「うん。じゃあ来週にでも行くよ。」
そう言った途端、受話器以外の場所から声が聞こえた。
「無理。」
そして携帯電話が美菜の手から奪われた。
「え?あ、雅…」
それだけで雅典に代わったことに気付いた晴彦は笑った。
『あれ、ナベさん?よかったですね。ようやくですけど。』
「ああ。色々と、さんきゅーな。」
本当にそう思っているからこそ、親より誰よりも先に報告しているのだ。
晴彦がいつも通りのふざけた口調で言った。
『ミナに直接謝罪してもらわないと気が済まないんで、近いうちにうちに来させてください。』
本当はそんなの口実で、ただ美菜に会いたいのだ。
雅典もそれはわかっていたが、即答で断った。
「それは無理。」
『なんでですか?』
「勘弁してくれよ。やっと一緒にいられるようになったばっかりなのに。」
今は片時も離れてはいられない。そう言外に含ませる。
横目で見るとやっぱり美菜が眉をしかめていて、雅典は少し笑った。
『…しょうがないですね。じゃあナベさんも来れる時に、一緒に来てくださいよ。俺は出張があるからそっちで会えるけど、梢はそうもいかないので。』
「ああ、わかった。」
『じゃあ、今日はお邪魔でしょうからもう切りますよ。』
「悪いな。」
『…そんなことない、とか言うでしょ普通。』
「謙遜する余裕もないんだよ。」
申し訳ないけど本当に邪魔だと、雅典は失礼なことを思った。
礼儀として最低限の報告はしたから。
『はは。まあ、気持ちはわかります。じゃあごゆっくり!』
「じゃあな。」
電話を終える。
――他の電話は後回しにしよう。
そう決めた雅典は、電話を投げると美菜に振り向いた。
「どうしたの?」
突然の行動に驚く美菜。
「いや、なんでも?」
雅典は怪しげな笑みを向ける。
「…。」
嫌な予感を覚えた美菜が後ずさり。
「なんで逃げるんだよ。」
「え、…なんとなく?」
「…。」
「…。」
無言の攻防戦。
雅典が不意に噴き出した。
そして、怪しさなど微塵も感じられない自然な笑みで両腕を広げた。
「ははは。美菜、おいで?」
「…。」
「はやく。美菜?」
美菜が降参するのは、それから数分後。