第34話:2008年2月14日
「じゃあ、僕はそろそろ帰るよ。色々と仕事も溜まっているし。」
リビングでコーヒーを飲んでいた尾崎が腰を上げた。
尾崎の本職は、美菜のマネージャーではない。
本業のプロモーターとしても有能な尾崎は多忙を極める。
隣の部屋からその声を聞きつけた美菜は急いでリビングまで戻った。
「すみません。ろくにお構いできなくて。」
「いいんだよ。これ、もらっちゃったし。」
尾崎はチョコレートを持ち上げて、はにかんだあと。
「そっちは、僕からのバレンタインってことで。」
そう言って、色とりどりの封筒がはみ出したダンボール箱を指差した。
「一気に増えたけど、ちゃんと全部目を通すんだよ。」
それが、ファンの前に姿を現すことができない美菜にできる、精一杯のお返しだから。
「もちろんです。お忙しいのにわざわざありがとうございました。」
「ああ。じゃあ近いうちに6枚目のシングルの話もあるから、連絡するよ。お疲れ。」
「お疲れ様です。」
尾崎が出て行くと、美菜は玄関の鍵を閉めてリビングに戻った。
すっかり冷めてしまった自分用のコーヒーをシンクに捨ててもう一度作り直していると、美典が昼寝から目覚めたようで泣き声が聞こえた。
「はいはい、ちょっと待ってね!」
コーヒーをリビングに運んでから、美典を抱き上げてリビングに連れて行き、お気に入りのブロックを与えた。
最近の美典はこちらが取り上げるまでいつまででもこのブロック遊びをやっている。
子供の集中力は侮れない。
美典が遊びに夢中になっているのを確認すると、美菜はダンボールを引き寄せた。
ファンレターはデビューの時からもらっていたが、顔も知らない相手に好き好んで手紙を送る人などそう多くなかった。
それが、今回のこの量。
これが先日のライブの影響であることは間違いなかった。
覆面であるせいか、多くの人は伊吹のことをおとなしい人物と予想していたようだ。
そのため持ち前の明るさを発揮してのライブMCは、誰もがイメージとのギャップに驚いたという。
しかし最終的には、更なる好評価につながった。親しみやすさを感じたのか、ファンレターの数は急激に増えた。
加えて、何通か手紙を読み進めるうちに、フレンドリーなものが多くなったと美菜は感じた。
ライブに参加したファンからは勿論、参加できなかったファンからの手紙も多くあった。
ワイドショーで伊吹の話を聞いて、ますます好きになったと書いてあったりもした。
ふと時計を見ると、一時間以上が経過していた。
――相変わらず、飽きないのかな。
二杯目のコーヒーを入れて、ついでに美典のためにお茶を持ってきた美菜にも一切反応を示さない娘に半ば感心しつつ、残りのファンレターを読むべくソファにもたれた。
ようやく半分ほど減ったダンボールの中を覗き込む。
一通のシンプルな封筒に目が留まった。
それは、シンプルであるが故に、色とりどりの封筒の中にあると逆によく目立っていた。
それを手に取った美菜は、宛名の筆跡を見て息を呑んだ。
――この字…。
男の人だろうが、それにしては綺麗な、少し縦長の字。
封筒には、差出人が書かれていなかった。
――まさか、ね。字が似てる人なんて、いくらでもいるし。
そう思いながらも、高鳴る鼓動は正直だった。
美菜は手紙を開いた。
冒頭に書かれた名前を見て、ああ、と思った。
美菜の本名を、今原美菜の名前を書くなんて、ただのファンではない。
一旦目を離して、深呼吸をした。
もう一度深呼吸をして覚悟を決めてから、美菜はその手紙を読み始めた。
《 今原美菜 様
きっと数え切れないほどあるのだろうファンレターの中に埋もれることなく、美菜がこの手紙に目を通してくれることを願います。
なんで、何も言わずにいなくなったのか。
親にまで居場所を隠して、どうしてそこまでして隠れるのか。
聞きたいこと、言いたいことはたくさんあるけど、とりあえず一番大事なことだけを書きます。
ごめん。
美菜は、さっちゃんのお腹の中の子供を殺したくなかったんだよな?
だから、俺とさっちゃんが結婚できるように、美菜はいなくなったんだよな?
美菜の考えることなんて、お見通しだ。
だけど、ごめん。
俺は、まだ独身です。
確かに子供は好きだし欲しいと思っていたけど、美菜と出会ってからの俺がずっと望んでいたのは、自分の子供ではなくて、美菜と俺の子供でした。
だからさっちゃんには、頭を下げて、認知以上のことはできないと話しました。
結局、さっちゃんは中絶してしまいました。
美菜が中絶を嫌っているのは知っていたのに、美菜の気持ちを無駄にしてごめんな。
でもやっぱり、俺は自分の血を分けた子供を失ったことより、美菜を失ったことへの喪失感でいっぱいだった。
ずっと美菜を探し続けていて、くじけそうになった時に、美菜から手紙をもらって、美典のことを知って、絶対に美菜を見つけると誓いました。
そうやって、当てもなく美菜を探し続けていた俺にとっての唯一の癒しが、伊吹の歌でした。
俺がこのジャンルの音楽を聴くなんて、まして限定ライブに足を運んでしまうなんて、美菜は信じられないだろうけど自分でも驚いてるよ。
でもまさか、伊吹の正体が美菜だったなんてな。
ここで運命だなんて言葉を使ったら、どうせ美菜は馬鹿にするんだろうけど。
美菜、会いたい。
俺には今でも、美菜しかいないんだ。
家も電話も携帯も、何一つ変わってないから、どうか連絡ください。
雅典 》
美菜は読み終えるなり、声を上げて泣いた。
それまでブロック遊びに夢中になっていたはずの美典が、マーマー、と言いながらつられて大泣きしだした。
ここが壁の薄い安アパートなら、隣から苦情が来たかもしれない。それほどに、二人の泣き声がリビングに響き渡っていた。
罪のない命を奪ってしまったこと、どんなにか辛かっただろう佐喜子のことを思うと、美菜は罪悪感に押しつぶされそうになる。
しかしそれでも本音はうれしかった。
雅典が今も自分だけを想い続けてくれていることが。
美菜は自分の涙も止まらないまま、美典を抱き上げた。
「みのり、パパに会わせてあげられなくてごめんね?でも、パパはみのりのことちゃんと愛しているからね。これからもママと二人で生きて行こうね。」
美典が理解できるはずもないのだが、美菜は丁寧に言い聞かせた。
もちろん美菜だって、雅典だけ。
だが。
今更、雅典の前に姿を現すことはできなかった。そんな資格、自分にはない気がした。
美菜は手紙を、引き出しの中に大切にしまった。