第33話:2008年1月14日
ついに最終章に入りました。
第29話:現在(6)の続きです。
「えっ?それは…。」
晴彦は言葉を失った。電話の向こうの雅典にもその様子が伝わった。
「…間違い、ないんですか?」
『ああ。俺も最初は信じられなかったけどな。でも、あれは間違いなく美菜だった。』
晴彦は思いも寄らぬ話に頭がついていかず、とりあえずそれまで吸っていた煙草を消した。
今日のライブの感想を聞こうと電話しただけなのに、こんな展開になるとは。
キッチンで夕食の片付けをしている梢が、晴彦の深刻そうな様子に視線をよこした。
首を振ってなんでもないことを伝えると、聞かれてまずい話でもないがなんとなく声を潜めた。
「まさか、ミナが…。俺、ミナが歌うまいなんて知らなかった。」
『…俺も。』
「…。」
晴彦はかけるべき言葉が見つからなかった。自分も妻の梢について知らないことはたくさんあるのだと、そんなことを言っても慰みにならないのはわかっていた。
梢が隣に腰掛けて晴彦の顔を覗き込んできた。
あとで話すから、という意味を込めて晴彦は首を振った。
それが通じたわけではないだろうが、梢は黙ってテレビに集中した。
「それで、どうするんですか?まさか、事務所に押しかけるとか?」
『そんなことしたって、熱狂的なファンと間違えられるのがオチだろ。』
「ですよね…。電話で事情を話したら、連絡先とか教えてくれるんじゃないですか?」
『いや、それだって同じだろう。そう簡単に連絡先なんて教えてくれないよ。』
「じゃあ…どうするんですか?」
『…。』
雅典もこれと言った策はないようだった。
折角見つけたのに、また一層美菜が遠くなってしまった気がする。
「ミナは、どうして手紙をよこさないんだろう。もう、1年はとっくに過ぎてるのに。」
『…。』
雅典は答えなかった。
でもきっと、雅典の脳裏には歓迎せざる理由がよぎったに違いなかった。
それを敢えて、晴彦は口にした。
「…他に、好きな人が出来たとか。」
コブ付きの美菜を受け入れてくれるような男が現れたのなら、その相手に気を使って雅典への手紙をやめたのかもしれない。
『…。』
すっかり黙り込んでしまった雅典に、晴彦は悪ふざけが過ぎたと反省した。
「ナベさん、冗談ですから!それだけはないって、俺が断言します。」
『いや、ないとは言えないよ。美菜なら、惚れる男がいたって不思議じゃない。』
自嘲気味にそう言った。惚気でも自惚れでもなく、客観的に見て、美菜なら。
「そうじゃなくて!たとえそうだとしても、えっと、ミナに惚れる男が現れたとしても。ミナはそう簡単に心変わりしないですよ。まして、子供がいるのに。」
雅典との、子供がいるのに。
『じゃあ、なんで手紙が来ないんだよ。』
それは晴彦に対して言ったのではなく、雅典の心からの嘆きだった。
「すいませんナベさん、話を変な方向に持っていっちゃって。今はそれより、これからどうするか、ですよ。」
『そうだな。とりあえず、手紙を書くことぐらいしか出来ないと思ってる。』
「手紙?」
『ああ、事務所宛に。ファンレターとして送れば、本人に届くだろうし。』
「!その手があるじゃないですか!それなら、ミナも気付きますよ!」
『だといいけど。』
「あ。」
『どうした?』
「ミナの両親にはこのこと?」
『まだ話してない。』
「両親なら、さすがに事務所も連絡先教えてくれるんじゃないですかね?」
『どうだろうな。でも、とりあえず、美菜が黙ってるんなら、俺から言うこともしないつもりだ。』
「…そうですか。」
どこまでも、こんなことになっても美菜の意志を尊重する雅典に、晴彦は無性に悲しくなった。
『とりあえず、今できるのはこれくらいだから。その先は結果が出てから決めるよ。』
「そうですね。返事が来ることを祈ってます。」
『サンキュ。じゃあまたな。』
「はい。おやすみなさい。」
晴彦は相手が切ったのを確認してから、終話ボタンを押した。
とにかくこの高揚した気持ちを落ち着けようと、晴彦は煙草に火をつけ大きく一吸いした。
そして隣でテレビを見ていた梢に唐突に言った。
「ミナが、見つかった。」
「え!?…よかったじゃない!どこで?」
「それがさ。信じられないけど、伊吹がミナだったんだって。」
「伊吹って、渡辺さんが好きなあの伊吹?」
「そう、その伊吹。今日ライブだったろ?あれにナベさん行ったんだよ。そしたら、ミナだったんだって。」
「そうなの…。でもそれじゃあ、見つかっても連絡取れないわよね。」
「うん。」
「それで悩んでたのね。」
内容はわからなくとも、二人が何かに頭を悩ませていたのは晴彦の様子から読み取れた。
「そうなんだよ。」
「で、どうすることになったの?」
梢は頭の回転が速いので、話が早くていつも助かっている。
「ファンレターを送るんだって。勿論、ファンレターではないんだけど。」
「そう。まあ、それが妥当よね。」
「だな。」
「ミナちゃん、返事くれるかしら?」
「…祈るしかないだろ。」
「…そうね。」
なんとなく、返事は来ないのではないかと思った梢だったが、それを口に出すことはしなかった。
僅かにではあるが、ようやく見えた、希望の光。
闇雲に走り続けてきた雅典に射した、天使の梯子。
今はただ、ハッピーエンドを信じるだけ。




