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第32話:2006年10月27日


美菜はシンプルな便箋を前に、ペンを持つ手を動かせずにいた。


退院してから3週間。

慣れない子育てもようやくリズムをつかんで、なんとか落ち着いた。


後回しにしているうちにここまできてしまったが、そろそろ書かなくてはいけない。


ドアが開けられたままの隣の部屋では先月生まれたばかりの我が子が、気持ち良さそうに眠っている。


それを確認して微笑むと、美菜は意を決して筆を取った。




《 渡辺雅典 様

 

  お久しぶりです。元気にしていますか?

  今日は雅に報告しなければいけない事があって、手紙を書きました。

  先月、私は女の子を出産しました。正確には9月29日の午後7時21分。

  もちろん雅の子です。父親のあなたにこうして事後報告になってしまってごめんなさい。

  美菜と雅典から一字ずつとって、「美典(みのり)」と名付けました。

  父親のあなたにも権利はあるだろうから、年に1度はこうして手紙を書いて美典の成長を伝えます。

  私は仕事もしてるし、元気に暮らしているから心配しないでください。認知もいりません。

  ではまた来年。仕事しすぎて体壊さないようにね。


   今原美菜より 》




そこまで一気に書いて、ろくに読み直しもせずに折りたたんだ。

一度気にしてしまえば、いつまで経っても納得がいかなくなるのは目に見えていたから。


丁寧に折りたたんだ手紙を同色の封筒に入れると、しっかりと封をした。









8月2日、水曜日。


ついに、伊吹のファーストシングルが発売された。


発売の何ヶ月も前から、有線やラジオでは大量オンエアーがされ、問い合わせが殺到した。


主題歌となったドラマが始まると同時にテレビCMも、そこら中のチャンネルで流れだした。


その段階になると、これは意図したことではなかったが、伊吹が覆面アーティストであることがワイドショーでさかんに騒がれた。


ウィークリーランキングでは2位にダブルスコア以上の差をつけ、デビュー曲としては異例の大ヒットを記録した。




というのは、全て尾崎から聞いた話だ。

鵜飼も嬉しそうに報告に来たし、亜梨も興奮気味に話していた。


しかし美菜は入院生活のおかげで、そのどれもが別世界での出来事にしか感じられなかった。




そして相変わらず美菜本人が流れについていけないまま、翌月にはセカンドシングルが発売されると。


その二日後の9月29日金曜日、美菜は第一子となる長女を出産した。





結局、誰も美菜を説得することはできなかった。


亜梨はもどかしくて、雅典を探し出して勝手に話してしまおうかとも思った。

雅典のことは名前しか知らないが、美菜の実家を伝えばそれは可能に思われた。


しかし、最終的には美菜の意志を尊重することにした。


美菜の怖がり方は尋常ではなく、無事に出産するまではあまり負担を掛けない方がよいと思ったのだ。


尾崎も同様に思ったのか、出産後に雅典宛に手紙を書くことで折れた。





そんな周囲の気遣いを受けて無事に出産を終えた美菜は、早々に出生届を完成させた。

予め性別を聞いて、既に名前を決めていたのだ。



翌日にお祝いにやって来た鵜飼と尾崎に、早速それを見せた。


美菜と雅典から一字ずつ取った名前を見ても、二人は何も気付かなかった。

父親の欄が空欄の、妙に寂しいそれに眉を顰めたぐらい。



さらにその翌日、同じ出生届を見せられた亜梨は何か言いたそうにしていた。


でも最終的には、いい名前だね、と言って笑った。



そして一週間ののち、美菜は美典とともに退院した。









朝食の後片付けを終えると、家中の戸締りをした。


時計を見て、ちょうどいい時間であること確認。未だ夢の中にいる美典を抱き上げて、真新しいベビーカーに乗せる。


最後に、書いたばかりの手紙を手に取ると、家を出た。





マンションの前に停まっていた車の運転席から、尾崎が降りてくる。


「おはよう、伊吹。」


「おはようございます。」


美菜は美典を抱き上げて、これまた真新しいチャイルドシートに寝かせる。


その間に尾崎がベビーカーをたたんでトランクに入れてくれたので、美菜はそのまま後部座席に座った。



「今日、みのりちゃんはシッターさんが見てくれることになってるから。」


運転席に乗り込んだ尾崎がそう説明した。


「はい。」


「3枚目が勝負だから、頼むよ?」


尾崎は後ろを向いて、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。


美菜はひやりと冷たい汗が流れるのを感じたが、気を取り直して満面の笑みで返した。


「出来る限り、頑張ります!」


その答えに満足すると、尾崎はエンジンをかけ、車をスタートさせた。





「着いたよ。」


尾崎がシートベルトを外しながら言う。

しかし美菜は車を降りようせず、ドアに手を掛けた尾崎を呼び止めた。


不思議そうな顔をした尾崎に、頼みがあるんです、と言った。



「どうした?」


「いつでもいいんですけど、この手紙をここに書いてある住所のポストに入れてきてもらえませんか?」


そう言って美菜は宛名のない一通の封筒と、住所の書かれたメモを渡した。


そのメモに書かれた雅典という名前を見て、尾崎はようやく美典の名前の由来に気付いた。



「これ…みのりちゃんの父親だよな?」


「はい。」


「でも、ここには住んでなかったらどうするんだ?」


「あのマンションは分譲なので、たぶん引越しはしていないと思うんです。」


「そうか。…伊吹の連絡先は書かなくていいのか?」


「いいんです。お願いします。」



手紙を書いたのは、尾崎に言われたからでもある。


しかし美典の存在を雅典にも知っていて欲しいという理由が一番大きかった。


それでもまだ雅典に会って平気でいられる自信はなかったし、逆に連絡先を書いたにもかかわらず、雅典から返事が来ないのも怖かった。


だから、こちらの連絡先は書けない。書かないのではなく、書けない。



「…。」


尾崎はため息をつきながら無言で頷き、了承の意を示した。


そしてなんとなくどちらとも声を発さぬままベビーカーを降ろして二人、いや美典も入れて三人、スタジオの中へと入っていった。







その日録った3枚目のシングルは、前作よりも更に力強い歌声で、翌年2月に発売されるなり人々を惹きつけた。


話題だけという一部で囁かれた批判を、見事に跳ね除ける結果となった。





そうして収入が安定した美菜は数ヶ月に一度仕事をするだけで、あとは美典と二人きりという平穏な日々を過ごした。




その裏では、雅典が自分を探し続けていたなど、露知らず。



平和で、幸せで、どこか寂しい、そんな日々を。







このあと、冒頭の現在(1)につながっていきます。

過去の話はこれで終わりです。



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