第31話:2006年2月20日
「うーん。
もう一回だけ同じとこいこう。気持ちテンポ良く歌って。」
ガラスの向こうにいる鵜飼がそう言ったのが、マイクを通して聞こえた。
「はい、わかりました。」
――テンポ良く、テンポ良く。
美菜は心の中で言い聞かせながら目を閉じた。
ヘッドフォンから音楽が流れ出す。
美菜は大きく、でもブレス音がうるさくないように息を吸って、歌いだした。
「…うん。よし、オッケー!お疲れさん。」
鵜飼が満足げに頷いた。
最小限に抑えられたわずか数人のスタッフが、美菜の初仕事を称え拍手をする。
尾崎がブース内に入ってきた。
「お疲れ様、伊吹。」
「…なんだか、やっぱり慣れないですね、その名前。」
「ははっ。そのうち慣れるさ。とりあえずみんなの方へ行こう。」
「はい。」
美菜は尾崎に促され、ブースを出た。
6日前に始まったレコーディングの最終日。
数週間のボイストレーニングを受けはしたが、所詮素人の美菜には戸惑いの連続で。
それでもなんとか四曲全てを録り終えた。
「こっちがデビューシングルで、7月クールのドラマ主題歌になる。で、こっちがセカンド用。あとの二曲はカップリングな。最初は8月と9月に連続リリースして勢いつけるってことで。ちなみに一年で6曲出す予定だから、頑張ってくれよ。」
意気揚々とビジョンを語る鵜飼の目はまるで少年のようにきらきらと輝いている。
それこそが、この胡散臭い男がこの業界のトップたる所以なのかもしれない。
「えーっと…突っ込みどころが多すぎて。とりあえず、主題歌ってもう決まってるんですか?今録り終えたばかりですよね?しかも今、2月ですけど。」
「そういうもんなんだよ。俺が手を回せばそれくらい易いぞ。
発売まではプレス用配りまくって業界内に浸透させる。ミナがPR活動できない分、そこら中でタイアップ取ってくるから期待してろ。」
鵜飼は大げさに、自分の胸を叩く仕草をした。その場にいたスタッフが笑い声を上げる。
「そうそう。伊吹は歌ってくれればいいから、あとは僕たちに任せて。必ず、一流アーティストにしてあげるから。」
尾崎が先ほどの笑いを引きずりながらも、頼りがいのある言葉で美菜の肩に右手を乗せた。
その軽く置かれたはずの手の重みを、そこに込められた思いを感じながら、美菜は遠慮がちな笑みを返した。
顔も出せない厄介な自分のために労力を惜しまないスタッフたちに、美菜は感謝してもしきれない。
だがそれも、裏を返せばかなりのプレッシャー。それだけ金になると踏まれているからこその待遇なのだろうから。
こんなに尽くしてくれる二人に返せる恩と言えば、期待に応える結果を出すことぐらい。
美菜はデビューが待ち遠しいような、でも永遠にやってきて欲しくないような複雑な気分だった。
そんな気持ちがあったせいか、レコーディングでは余計に気持ちが張り詰めていたようだ。
無事に終えたことで気が抜けたのか、美菜は急にフラっとよろけた。
「おっと。大丈夫か?」
尾崎がそれを支える。
「はい、大丈夫です。すいません。」
「そういえばちょっと顔色悪いんじゃない?」
スタッフも心配そうな顔をしたが、とりわけ鵜飼は深刻だった。
「ミナ、ちゃんと食べてないだろ。」
美菜は気まずげに視線をずらして、黙り込んだ。
「歌には影響がないようだったから黙ってたけど、ミナこの1ヶ月で随分やつれてるぞ?」
美菜の精神的につらい事情を知っているからこそ、心配していた。
しかし美菜はわざと軽く笑って、見当違いな返事をした。
「鵜飼さん、伊吹って呼ぶって決めたじゃないですか。いいんですか?」
いつ誰に聞かれるかわからないと、普段からスタッフ内でも伊吹と呼ぶことに決めたのは他でもない鵜飼なのに、当の本人は一向に呼び名を変える様子がない。
「話を逸らすな!お前が大変なのはわかってる。でも、自分で選んだことだろう?これから歌で食っていくつもりなら、プロ意識を持て。いくら見た目が関係なくたって、体調が悪ければ歌にも影響するんだ!」
鵜飼の初めて見せる激しい剣幕に、美菜は驚いた。
スタッフにとっても滅多に見ない姿なのか、呆然としていた。
そのとき。
――…ッ!
美菜は急激な腹痛を覚え、その場にうずくまった。
眉間に皺が寄る。
「すい…ませんっ。」
声を出すのも困難なほどの激痛に、段々と意識が遠のいていく。
「伊吹?」
はじめは泣いているのだと思っていたが、それにしては苦しそうな美菜の様子に尾崎は声をかけた。
「おい、ミナっ!」
鵜飼が傍にしゃがみこんだ。他のスタッフも慌てだす。
「お…なかがっ…ッ」
次の瞬間。
「ミナ!」
「伊吹!?」
「おいっ!救急車!」
美菜は意識を手放した。
目を開くと、真っ白な天井。
美菜は一瞬で全てを思い出し、ここが病院であることを悟った。
レコーディングが終わって、急にお腹が痛み出して倒れた。
そのときは腹痛でそれどころではなかったが、今思えば鵜飼も尾崎もスタッフもみんなかなり焦っていた。
「伊吹、わかるか?」
左側から尾崎の声が聞こえた。顔をそちらに動かすと、心配そうな表情の尾崎と目が合う。
「わかります。倒れたんですよね?」
美菜が起き上がろうすると、慌てて尾崎が制した。
「起きたらだめだよ。絶対安静なんだから。」
「すいません…みなさんにもご迷惑おかけして。」
「それは気にしなくていいよ。ついさっきまで鵜飼さんもいたんだけど、別の仕事があるみたいだから帰ってもらった。」
「はい。あの、今何時ですか?」
「ん?えっと、5時20分。」
「そうですか。」
4時間以上も眠っていたことになる。
レコーディングが終わったのは昼過ぎだった。
「伊吹。あの、今後の予定のことなんだけど…」
尾崎が言いづらそうにするので、美菜は首をかしげた。
「どうしました?」
「うん。
伊吹はこのまま長期入院になるから、3枚目のシングルのレコーディングが間に合わない。だから一年で6曲リリースの予定だったけど、5曲になった。」
「えっ、ちょっと待ってください!長期入院って、私…どこか悪いんですか?」
「…伊吹、本当に知らなかったのか?」
尾崎が探るような視線を送ってくるが、美菜にはなんのことだかわからなかった。
「何を、ですか?」
「伊吹が今回倒れたのは、…切迫流産だ。」
「ッ!…りゅう、ざん?」
美菜は無意識に、両手をお腹に当てていた。
それを見た尾崎が、わずかに口元を緩ませて言う。
「心配しなくても、子供は無事だよ。」
「そうですか。…妊娠、してたなんて。」
「おかしいと思わなかったのか?医者の話じゃ、もう3ヶ月くらいにはなるそうだぞ。」
確かに、もう何ヶ月か生理が来ていなかった。
「てっきり、精神的なものからきてるんだと。」
尾崎が痛々しそうに顔をしかめ、大きく息を吐いた。
「ふぅ。とにかく、このまま出産まで入院。しばらくは絶対安静だそうだ。次のレコーディングは、退院してからにするから。」
「はい。本当にすいません。」
「気にするな。念のため確認しておくけど、産むよな?」
尾崎の問いかけに美菜はもう一度、お腹に手をやった。
ろくな食生活をしていなかったせいか、それとも3ヶ月とはそんなものなのかそこに膨らみは全くなかった。
それでもなんとなく、自分とは別のもうひとつの鼓動が感じられる気がした。
じわじわと喜びが湧き上がる。
「もちろんです!産みたいです。」
「うん。じゃあ僕らも協力するから、産もう。」
尾崎がにかっと効果音が聞こえてきそうなほど、無邪気に笑った。
それは演技でもなんでもなく、心からの笑みだった。
「ありがとうございま…すッ」
美菜は堪え切れず涙を流した。命を宿した嬉しさと、尾崎の温かさに。
尾崎はまた笑って、しかしすぐに真顔に戻った。
「ただ、さ?
こうなったからには、事情も変わってくると思うんだ。伊吹にも子供ができたんだとわかれば、伊吹が彼と別れる必要はどこにもないだろ?」
「…。」
――だんまり、か。
美菜の頑なな態度に内心呆れながらも、尾崎は辛抱強く言い聞かせる。
「鵜飼さんから伝言だよ。相手には絶対に話せ、父親にも知る権利がある、だって。」
「わかっています。でも、今更なんです。」
――今更ってなんだよ…
そう思っても、決して顔には出さない。
「今更ってことはないだろう?まだ向こうは結婚してないかもしれないし。まだあれから1ヶ月なんだから、その可能性のほうが高い。そしたら伊吹が予定通り結婚して、相手の子は…認知するとか。それが一番妥当だろう。」
「できません。」
美菜は何かに怯えているような顔をしていた。
「…?どうして?」
「連絡して、雅がさっちゃんと結婚したっていう事実を知るのが怖いんです。そんな事実を目の当たりにするくらいなら、知らないままがいいんです。」
――そんな馬鹿な話あるかよ…
「伊吹、」
「できません。絶対に、できません。」
美菜は再び泣き出した。
妊娠を自覚した途端、情緒不安定になってしまったのかもしれない。
尾崎は、今はこれ以上何も言うべきではないと判断した。ちょうど、面会時間も終わりだ。
「わかったよ。今日は疲れただろうから、もう寝な?」
宥めるように頭をひと撫ですると、尾崎は部屋を出るために立ち上がった。
一歩踏み出してから、大事な用件を思い出した。
まだ泣いている美菜を見て一瞬ためらったが、後回しに出来る話ではないので切り出した。
「あと、ひとつだけごめん。着替えを持ってこなきゃならないんだけど、僕が行ってもいい?伊吹、誰とも連絡とってないんだよね?」
美菜は顔を覆っていた手をのけて、涙声のまま小さな声で言った。
「ひとりだけ、います。鵜飼さんにスカウトされたとき一緒にいた子とは、連絡取ってるので。私の携帯のメモリにアリっていう子がいるので、電話してもらってもいいですか?」
「わかった。じゃあその子に頼んでおくよ。」
尾崎はその子が美菜の説得をしてくれるのではないかと、密かに期待を抱いた。
「お願いします。」
「ああ。お大事にな。」
尾崎は病室を出た。
――鵜飼さん、怒るだろうな。
しかし表立って言わないだけで、美菜の選択に納得がいかないのは尾崎とて同じ。
あの頑固な歌姫を、どうやって説得しようか。
事務所に戻る道すがら、尾崎はそればかりを考えていた。