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第30話:2006年1月14日

第28話と同日の、美菜サイドになります。


―バタン


玄関の扉が完全に閉まると、美菜はその場で泣き崩れた。



「すぐ帰ってくるよ。」


そう言って笑った雅典の顔がもう見れなくなるのだと思うと、どうしても涙は止められなかった。



しかし、のんびりしている場合ではない。


この部屋には美菜のための食器も歯ブラシも化粧品も置いてある。

そのすべてをまとめている時間はないが、洋服だけは全て持っていくつもりだった。


美菜は涙をぬぐって、立ち上がった。









三日前。


佐喜子と別れた美菜は、尾崎に電話を掛けた。



「もしもし、今原美菜です。ええ。ちょっと、お願いがあるんですけど、今からそちらに伺ってもよろしいですか?」


『どうした?今からなら大丈夫だけど、鵜飼さんもいたほうがいい話?』


「はい、できれば鵜飼さんも同席していただきたいです。」


『そうか。よくわからないけど、とりあえず鵜飼さんにもう一回来てもらうよう連絡しておくよ。』


「すみません。お願いします。私はあと5分ほどで着きますので。」


『わかった。じゃあ待ってる。』


「はい。失礼します。」


美菜は電話を切った。





数分して、1時間ほど前に出たばかりのビルの前へと再び到着した美菜は迷うことなく、自動ドアをくぐり抜けた。



「今原と申します。尾崎洋二さんと約束があるんですが。」


「少々お待ちください。」


受付嬢が内線電話を掛け、尾崎と少しの会話をしてから受話器を置いた。


「お待たせいたしました。先ほどの部屋でお待ちしている、とのことです。」


「ありがとうございます。」



美菜はエレベーターで3階まで上がり、廊下を進んだ。


そして尾崎の待つ会議室の前まで来ると、立ち止まって深呼吸をひとつした。




―コンコン



「はい、どうぞ。」


「失礼します。」



ドアを開けて中に入ると、そこには既に鵜飼もいて、美菜に向かって陽気に片手を挙げながら言った。


「よう、ミナ。さっきぶりだな。」


「鵜飼さん!早いですね。」


「うちの社員と世間話してたみたいだよ。ようするに、暇なんだよ。」


「おっ、尾崎も言うようになったなあ。」


「事実じゃないですか。」


「まあな。」


そんな二人のおどけたやり取りにも、美菜はうまく笑えなかった。


すると尾崎が美菜の様子に目敏く気付き、おやっと片眉をあげる。



尾崎はすぐに真面目な表情に戻すと、美菜に声をかけた。


「とにかく、ミナちゃんも座って。話を聞こうか。」


「…はい。」



美菜は二人の向かい側に腰を下ろし、尾崎と鵜飼は話を聞く姿勢を見せた。


そんな二人に少し口を開いた美菜だったが、やはりためらわれたのか言いよどむ。



「どうした?話があるんだろ?」


しかし鵜飼に優しく促され、ゆっくりと話し出した。







「…そうか。」


尾崎が難しそうな顔をして腕を組んだ。


鵜飼も考え込んでいるようで、何も言わなかった。



「これは、うちで判断する問題じゃないな。鵜飼さんがそれでもいけるとおっしゃるんなら、うちは構わないですが。」


尾崎はちらりと横を見たが、鵜飼は眉をしかめ、唸るような表情でまだ考え込んでいた。



美菜はそんな鵜飼の反応にほとんど諦めながら、言い添えた。


「それでだめなら、今回のお話はなかったことにしていただいて結構です。」





「待て待て!たとえミナが言うような条件でも、お前を売り出したい気持ちに変わりはない。」


諦めかけている美菜に気付いた鵜飼は、慌てて言った。


「そうですね。私も彼女なら、大丈夫だと思います。」


尾崎も笑顔でそれに同調する。



「…ありがとうございます!」


美菜の顔から、ようやく微かな微笑みがもれた。





「ただ、な。ミナは、本当にそれでいいのか?婚約までしてるんだろ?」


鵜飼が考え込んでいたのはこのことだった。

本人から別れを告げられたわけでもないのに自分から逃げ出すなんて、鵜飼には賛同しかねるものがある。



「いいんです。もう決めたことですから。」


「でもなあ。」


鵜飼は納得がいかないようだった。

しかし美菜とて、容易に出した結論ではないのだ。


「鵜飼さん、私かなり頑固ですから、もう気持ちは変わりません。」



「…わかった。じゃあ、契約書の作り直しだな。」


結局、鵜飼が折れることで話は決着した。


尾崎も何か言いたそうにはしていたが、鵜飼の言葉ですぐに頭をビジネスモードに切り替えた。



「そういうことでしたら、うちもスタッフも最小限に抑えた方がいいですよね。僕がマネージャーをやりますよ。」


「尾崎がマネージャー?お前、もうマネージャーはやってないんだろ?」


尾崎はプロモーターであったが、新入社員のときには3年間ほど付き人業務を経験している。



「そうですけど、経験はありますし。それに、マネージャーと言ってもあまり仕事は多くないでしょう。

重要なのはマネージメントよりプロモーションですが、そちらは僕の得意分野ですから。」


「まあ、こうなるとレコーディングだけだしな。プロモーターと兼ねて尾崎一人で十分だな。

で、名前はどうする?なにか希望はあるのか?」



「いいえ。本名でなければなんでもいいです。」


反射的にそう答えながらも、美菜は二人があまり深刻そうでないことに驚いていた。

美菜が出している条件は、決して簡単に容認できそうなものではないはずなのだが。



「じゃあ、名前は追々決めていくことにしましょう。いくつか候補を挙げておきますので。」


「そうだな。候補が出たら、俺にも見せてくれ。」


「もちろんです。えっと、あとは何かあったかな?」


むしろ新たな課題を出されて意欲に燃えているような、そんな表情を二人ともしていた。




美菜はそこで、最も重要な頼みごとをまだしていなかったことに気付いた。


「あの、できればすぐにでも引越しをしたいんですが。」


「あ、そっか。いつまで?」


これもまた、尾崎は何でもないことのように受け入れた。



「今週の金曜日か、土曜日の昼過ぎまでには今の家を出たいです。」


「じゃあこの近くで物件を探しておくから、荷造りしておいて。引越しは金曜日でいいかな。

って、明後日だけど。」


「…はい。」


あっさりと事が運んでしまったことに拍子抜けする気持ちはあったが、これで準備は全て整った。


美菜はもう後戻りが出来ないことを、ひしひしと感じていた。



「じゃあ契約書は作り直しておくから、とりあえずは引越しに専念して。今日中には業者の手配も済ませておくよ。」


「ありがとうございます。じゃあ、今日は失礼します。」



美菜は帰ろうと立ち上がった。


すると鵜飼が美菜を呼び止めた。


「ミナ!…本当に、いいのか?」



厳しい顔で尋ねる鵜飼に、美菜は一瞬暗い表情をしたかと思えば。


「鵜飼さん、…しつこいですよ?」



笑って冗談めかすことでごまかし、逃げるように会議室を出ていった。


そのまま電車を乗り継ぎアパートに戻ると、新生活へ心踊らせるようなこともなく黙々と荷造りを開始した。









それから昨日の昼に無事引越しを完了させた美菜は、その後はいつも通り雅典と過ごした。


そして今朝、佐喜子の元へと雅典を送り出したのだった。





美菜は用意しておいた鞄に洋服を全て詰め終えると、玄関に向かった。


靴を履いてから後ろを振り返り、最後にもう一度雅典の家の中を見渡す。




――さようなら、雅。



心の中でそうつぶやいて、美菜は部屋を去った。


ポストに合鍵を入れるときにも一瞬ためらったが、目をつぶり、思いを振り切るように手を離した。





そして、あらかじめ呼んでおいたタクシーに無言で乗り込む美菜。


もう、後ろは振り返らなかった。





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