第29話:現在(6)
ハッピーマンデー制度によって、1月の第2月曜が休日になって8年。
例年ならば年末年始の休み疲れを引きずったまま、家でのんびりと過ごしていた雅典。
今年は家にいるのも落ち着かなくて、朝から会社に顔を出した。
しかし。
「今日の課長、おかしいですよ?」
「本当。時計ばっかり見て、なにかあるんですか?」
同じく休日出勤していた熱心な部下達から不審な態度を指摘されてしまい、結局昼ごろには会社を出た。
渋滞気味の道路に苛立つこともなく、のんびり車を走らせる。
どうせ用事は夕方からだ。
ところどころで窓の外に、振袖を着た華やかな集団が見えた。
そのたびに雅典の脳裏には、青の振袖に身を包んだ美菜の姿が浮かぶ。
4年前の美菜の成人式。
雅典は次の日が仕事なことにも構わず、美菜の地元までついて行った。
振袖の色も柄も正統派とは言えず、あまり長く使い回せそうなものではなかったが、これには理由があった。
「どうせ、数年後には着れなくなっちゃってるかもしれないものね。振袖は独身の女の子しか着れないんだし。ね?雅典くん。」
美菜の母親である朝子が本気か冗談かわからないような笑顔で雅典にそう言い、振袖はレンタルで済ませることになった。
そしてどうせその日限りならば、思い切りイマドキの柄にすればよいと、そんな流れを経て決まった振袖がそれだったのだ。
しかしだからこそそのときの、二十歳の美菜に最も映える振袖だったと思う。
着付けが終わったとの連絡を受けて迎えに行った雅典が、美容室から出てきた美菜に見惚れたのは言うまでもなく。
成人式という絶好の出会いの場に送り出すのを雅典が渋って、美菜が呆れながら笑っていたのも、今では切ないほどに幸せな思い出だった。
「お待たせしましたー!只今より入場を開始しまーす!」
予定より10分遅れで開場となり、ようやく列が動き出した。
―ガヤガヤ…
その様子を幾つものテレビカメラが追い、中には朝の情報番組でよく見るアナウンサーもいた。
ここから先にカメラは入れないが、アナウンサーはチケットを入手しているようだ。
「今、入場が始まりました。果たして伊吹とはどんな人物なのか!?しっかりリポートしてきたいと思います!」
カメラに向かって、そう元気よく宣言しているのが見えた。
晴彦をわざわざ東京まで呼び寄せるわけにもいかない雅典は一人で来ていた。
チケットは二人一組だったので、一人分は無駄になってしまうがやむを得ない。
晴彦以外の人間は、雅典が伊吹のファンであることすら知らないのだ。
荷物検査が厳しく、はじめこそだいぶ動いた列もその後は僅かずつしか進んでいない。
開場と開演の間が2時間半もあることに疑問を感じていた雅典も、この調子ではそれでも足りないかもしれないと思った。
それでも割りと早めに会場に来ていた雅典が入場したのは、開演の1時間も前だった。
――はあ。やっと入れた。…まだ17時半、か。
グッズ販売があるわけでもないロビーでは特にすることもなく、雅典は真っ直ぐに席へと向かった。
2階14列。
3000人強を収容するこの会場の中では良いとも悪いとも言えない席だが、歌を聞くことが出来ればそれで十分だ。
雅典は腰を下ろすと、ホールの中を見渡した。
まず目に付くのは、黒いスーツを着た監視スタッフの数の多さ。
入場といいこのホールの中といい、やりすぎではないかと思うほどの厳戒態勢が敷かれているようだ。
雅典はじっと席に座ったまま、ただ開演の時を待った。
18時45分。
ホールの照明が全て消え、待ちに待った限定ライブの幕が上がった。
誰もが期待と緊張に息を呑み、会場中が異様な雰囲気に包まれる。
そんな静寂を破ったのは、伊吹のデビュー曲。
聞き慣れた伴奏に、客は一気に興奮しだす。
イントロが終わりに近づき、伊吹らしき人物が照明の落とされた舞台をセンターへと歩くのが見えると、更に大きな歓声が上がった。
そして。
スポットライトが伊吹を捉えると同時に、はじめて姿を現した歌姫が声を張り上げた。
その瞬間、雅典は、はっとした。
――美菜に、似てる…?
しかしこんなに遠い席からでは顔がはっきりと見えない。
だいたい、雅典は街中で同じような背丈の女性を見かけるたび、美菜と間違えてしまうのだ。
まさかという気持ちともしかしたらという気持ちの狭間で揺れながら、半ば呆然と歌を聞いていた。
ひとつの曲が終わる毎に、「かわいくない?」「すごいキレイ!」などと囁きあう周囲の声も、雅典の耳に入らない。
そうするうちにセットリストはあと1曲を残すのみとなり、ついに伊吹が歌以外ではじめてその声を発した。
「はじめまして、伊吹です!…」
――美菜っ!
その声を聞いた瞬間、雅典は確信した。
堅苦しい挨拶で始まったトークも次第に砕けた話題になり、時々観客から笑い声が上がったが、雅典の表情だけは決して変わらなかった。
時に獲物を見つけた猛獣のように、時に親鳥を見つけた雛鳥のように、雅典は一心に美菜を見つめ続けた。