第27話:2006年1月11日
美菜が鵜飼に会うのは、今日で四回目だった。
二回目には鵜飼からの熱烈な誘いにのせられ、デモテープを作った。
すると三度目には、芸能事務所の人間を紹介された。
鵜飼はレコード会社の人間であり、マネジメントを担当する事務所に別で所属する必要があると言った。
そして今日。
前回紹介された芸能事務所の尾崎、そして鵜飼と美菜の三人で契約内容についての最終的な確認をすることになった。
「前回聞いた希望がこれで全部盛り込んであるはずだけど、他に特別につけたい条件だとかはもうないかな?」
「はい、大丈夫です。」
「じゃあ、これまでのことが全部この契約書に書いてあるから。契約書を交換した時点で契約成立だ。
そしたら、もう逃げられないよ。」
最後だけ少し冗談っぽく、尾崎が笑った。
「契約書は、もう少し待っていただけますか?結婚相手に了承を取ってからでないと。」
「なんだミナ、まだ話してないのか。」
それまで満足げにコーヒーを啜っていた鵜飼が、信じられないという顔をした。
「ええ。本決まりになるまでは恥ずかしかったので。」
「本決まりもなにも、最初からミナ次第だって言ってるだろう。」
表情が呆れたそれに変わる。
「そうなんですけど…」
「まあまあ、いいじゃないですか。じゃあ、最終的に意思が決まったら連絡ください。いい返事しか受け付けるつもりはないけどね。」
「はい、それは大丈夫だと思います。2、3日中にはご連絡します。」
美菜は尾崎の目を見てはっきりと、告げた。
「よーし!これで決まったも同然だな。このあと、飯でも食いにいくか?前祝いで奢ってやるぞ。」
鵜飼は、久しぶりに手ごたえのある新人を確保できたも同然なことにすっかりご機嫌だった。必然的に財布の紐も緩んでしまう。
「すみません。私このあとちょっと人と会う予定が入ってるんです。ごちそうのチャンスの逃すのはとっても残念ですけど。」
「なんだよ。じゃあ、またそのうちだな。あ、じゃあ契約書持ってくるとき、俺も呼んでくれよ。」
鵜飼が尾崎に向けて言った。
鵜飼はその肩書きから察するに、比較的時間の自由が利くようだった。
「わかりました。」
「本当にすいません!じゃあ失礼します。」
丁寧にお辞儀をして、美菜は部屋を出た。
事務所の正面玄関を抜けると、大通りに出た。
次の目的地まで電車に乗る必要はない。相手が美菜に合わせてこの駅まで出てくるという。
美菜は足早に向かっていた。
決して、弾みはしない心で。
――さっちゃん、何の話だろう。
約束の店は、事務所とは駅を挟んでちょうど反対側にあった。
鵜飼たちとの話し合いがどれほどかかるのかわからなかった美菜は、四十分も前に着いてしまった。
駅前だからなのだろうか、平日の午後にもかかわらず店は混雑していた。
店員が忙しなく動く雑音と、営業途中らしいサラリーマンや若者たちの声で、やたらと騒がしい。
席にはついたが、店員はまだやってこない。
全てが美菜の気持ちを逆撫でしているようで、周りから見放された気がした美菜は無意識に体を震わせた。
ようやく、人が近づいてくる気配がした。
「ミナちゃん。」
「えっ?」
気配の正体は店員ではなく佐喜子だった。
しかし佐喜子のうしろには、ようやくオーダーを取りにきた店員もいた。
佐喜子を見て困惑顔で立っている。
「ここ、いいかな?」
「あっ、どうぞ!さっちゃん早いね。」
「うん。1時間前には来て、そこの本屋さんで時間つぶしてたの。そしたらミナちゃんが見えたから。」
「そうなんだ。あ、さっちゃん何頼む?私は、えーっと…アップルジュースで。」
まだ予定よりだいぶ早く、心の準備が出来ていなかった美菜は少し挙動不審だった。
「私は野菜ジュースを。」
対して佐喜子は少しやつれた印象はあるが、いつも通り落ち着いていた。
いつも、というのは「あの合宿よりも前までの」いつも、という意味であるが。
「さっちゃん、あったかいもの飲まないんだね。外寒くなかった?」
「うん…。そういうミナちゃんも、飲まないの?」
「私はさっきコーヒー飲んだばっかりだから。」
「そうなんだ。」
「うん。」
お互い頼んだドリンクが運ばれてくるまでは本題に入ることができないと思ったのか、たいして意味のない会話ばかりが続いた。
「それにしても、さっちゃん久しぶりだね!」
「うん。いきなり呼び出して、ごめんね。」
もともと大人しい佐喜子の声のトーンが、さらに落ち始めた。
昨日。
それまでまるで音沙汰のなかった佐喜子から、突然連絡が入った。
話があるから美菜と二人で会えないかと言った。
そういうわけで、こうして合宿の日以来の対面をしているのだった。
「気にしないでよ!最近暇してるの。それより、マッキーたちもみんな心配してたよ?」
「う、ん…ごめん。」
ちょうど佐喜子がそう口を開いたとき、二人の頼んだ飲み物が一緒に運ばれてきた。
ここに来てからずっと、水以外の味のついた飲み物が飲みたいと感じていた美菜は早速ストローに口をつけた。
「私じゃなくて、マッキーたちに言ってあげなよ。メールも返してなかったんでしょ?」
「うん。でも、そうじゃなくて!ミナちゃんに。」
「それは…合宿のときのこと?」
「うん。本当にごめんなさい!私、あのときは頭がどうかしてたの。なにをやってもミナちゃんに勝てないのが悔しくて、それでミナちゃんの振りをし」
「ちょっと待って!悔しい、って?さっちゃんは、雅のことが好きで、諦めきれなかったんじゃないの?」
「もちろん。ナベさんがいつまでたってもミナちゃんしか見てないのが悔しかった。それに、ミナちゃんにはナベさんがいるのに、私からしたらそれだけで十分なのに、ミナちゃんばっかり周りからキレイってちやほやされるのも、みんなから好かれるのも、全部、悔しかった。だから一回ぐらい、私がミナちゃんになったって許されるって。」
「そんな…」
「ごめんなさい。今ならそれがどんなに馬鹿な考えだったかわかるの。でもそのときは、ナベさんに会う最後のチャンスだっていうのもあって、焦ってたの。それで、あの。計画を、立てたの。」
「言わないで。」
「え?」
「その計画は、たぶん全部聞いたから、もう言わないで。あまり何度も聞きたい話じゃないの。」
「そうだよね、ごめん。あの、…ナベさんとは?」
「今回のことで、私も雅もかなり傷ついた。でも、別れたりとかはしてないし、今はもう元通りだから安心して。」
佐喜子は安心したようにそっか、と言いながら何かを諦めたような、そんな笑い方をした。
「それに、怒ってないから。」
「どうして…?」
「そりゃあ、どうしてそんな手段をとったんだろうっていう気持ちはあるけど。
でもだからって、さっちゃんだけが悪いわけじゃないよ。
だって、さっちゃんにとってうちのサークルでの四年間は、かなり苦しかったと思う。
雅の態度も、事情を知らない男の子達が私と雅のことひやかすのも。」
「ミナちゃん…」
「雅にOB会やめてもらうとか、もっと何かしてあげられることがあったはずなのに。
私は、さっちゃんの気持ちをずっと知ってたのに、結局何もしなかった。」
「そんなの!ミナちゃんのせいじゃないよ。私が勝手に好きなだけだったんだし、それに女の子達はみんなすっごく気使ってくれてたでしょ。それはすごく感謝してる。」
「うん。だから、誰も悪くないってことで、この話はもう終わりにしようよ。これ以上続けても、楽しくないでしょ?」
「うん。本当に、ごめんなさい。ありがとう。」
佐喜子が弱弱しく微笑んだ。
「どういたしまして。」
美菜はそんな佐喜子を元気付けるかのように、満面に笑みを浮かべて返した。
「今日したかった話って、このことだったの?」
既に問題は解決済みだと思った美菜は、気軽にそう尋ねた。
しかしそんな思いとは裏腹に、佐喜子は再び泣きそうな顔をした。
「実は、違うの。」
先ほどの笑顔が弱弱しかった原因が、どうやらまだ存在したようだ。
「なにか、あるの?」
「うん。実は、あの、相談があるの。ミナちゃんにしか、話せなくて。」
「どうしたの?なんでも話して?」
「うん。」
佐喜子はそう言うものの、ぬるくなってしまった野菜ジュースを飲むばかりで、一向に話し出す様子がない。
仕方がないので美菜も、氷が溶けて薄くなったアップルジュースをストローで混ぜ、口に入れる作業を繰り返す。
「あのね。私…妊娠したの。」
ついに口を開いた佐喜子だったが、その口から遠慮がちに発せられた言葉は、美菜の思考能力を根こそぎ奪ってしまうほどの威力があった。
「え…」
「私どうしていいかわからなくて。それにこんなこと、相手を騙して抱いてもらった時の子だなんて、親にも友達にも言えなくて。」
早口で捲くし立てる佐喜子に、美菜は落ち着けと促すことさえ出来ない。
「…」
「ほんとにどうしよう。どうしたらいいのかわからないのに、どんどん気分は悪くなるし、好きな食べ物も食べられなくなっちゃうし!」
佐喜子はかなり追い詰められているようだった。
しかしその異常さで言えば、美菜も負けてはいない。
美菜の目線は定まっておらず、先ほどから微動だにしなかった。
店内は相変わらず混雑しており、さまざまな音でざわめいていた。
それでも美菜の耳には佐喜子のすすり泣く声だけが、入ってくる。
「…病院には行ったの?」
「うん、間違いないって。今9週目らしいの。」
「そう…」
9週目。
堕ろすのであれば、もう時間に余裕はない。
でも佐喜子がそれを望んでいないのならば、美菜は中絶して欲しいだなんて言えないし、言いたくなかった。
美菜は人工中絶という行為に嫌悪感を持っている。
よほど止むを得ない事情がない限り堕胎はすべきでないと思っているからこそ、普段から避妊には気をつけていたのだ。
それでも避妊をし忘れた雅典を責めることはできない。
記憶を無くすほど酔っていたあの夜に、そんなことまで頭がまわったはずがない。
佐喜子はどうしたらいいかわからないと言っているが、それでも美菜に相談してくるあたり、無意識に中絶はしたくないと感じているのだろう。
しかしそんなことを相談されても、美菜には何も言うことができなかった。
――私に、どうしろというの。
そこで美菜は、昔に雅典から聞いた話を思い出した。
離婚の原因が、子供を欲しがる雅典とそうではない相手との考えの違いによるものだったという話。
その後の長い付き合いでも雅典が子供好きなのは知っているし、美菜との結婚の話をするときも必ず子供の話題は出ていた。
自分がもっと早くに生まれていれば、年の差が10もなければ、今頃は雅典の子供を生んであげられていたのに。
美菜がそう考えることもしばしばだった。
――雅典は産ませてあげたいと思うだろうな。
それどころか、妊娠を知った途端、美菜のことなどどうでもよくなってしまうかもしれない。
雅典から、別れを告げられる。
そんなこと、想像するのも恐ろしかった。
それならば。
雅典の気持ちが離れてしまう瞬間を、この目で、見るくらいなら。
雅典から、別れを告げられる、前に。
――私がいなくなれば、全てが丸くおさまる。
佐喜子は中絶しなくて済むし、雅典は待望の我が子をその手に抱くことができる。
でも美菜には、そんな幸せそうな二人を見るのは辛すぎる。
だから、私が離れるしかないのだ。
そこで我を取り戻した美菜は脳をフル回転させて、今後の自分の動向をはじきだした。
そして素早く心を決めると、佐喜子に向かって口早に話し出した。
「とりあえず、雅と話し合ったほうがいいと思う。私が言っておいてあげるから。今週の土曜はさっちゃん大丈夫?」
「う、うん。」
突然様子が変わった美菜に、佐喜子は戸惑いながら答えた。
「えーっと、じゃあどこにしようか。さっちゃんって家は学校の近くだっけ?」
「うん。でも、家の近くはちょっと。」
「…だよね。じゃあ、ここでいっか。ここに土曜の午後一時。いい?」
「大丈夫。」
「これに関しては、私がどうのこうの言える問題じゃないよ。雅とさっちゃんで話し合って?」
「わかった。ミナちゃん、ありがとう。」
「ううん。じゃあ、土曜日ね?私は来ないからね?」
そう念を押して、美菜は急いで店を出た。
駅を通り過ぎたあたりで美菜は携帯電話を取り出し、一本の電話をかけた。
「もしもし、今原美菜です。ええ。ちょっと、お願いがあるんですけど…」