第25話:現在(5)
現在のお話です。
晴彦と雅典が飲んだ日から、およそ2週間後。
「一旦昼休憩挟みまーす!」
その声を聞くなり美菜は安堵のため息をついて、ミネラルウォーターを一口飲んだ。
バンドのメンバーはそれぞれに凝った体を解しながら、次々にスタジオを出て行く。
「伊吹お疲れ。あっちの部屋に全員分の弁当用意してあるから。」
スタジオ内に入ってきた尾崎がそう声をかける。
「はい。」
「疲れただろう。生バンドの前で歌うのも初めてだし。」
「そうですね。まだどきどきしてます。」
美菜は苦笑いで返した。
いつも利用している会社近くのレコーディングスタジオとはまた別の某スタジオにて、今日から限定ライブのリハーサルが始まった。
美菜は生バンドをバックにして歌うのも初めてなら、こんなに大人数を前に歌を披露するのも初めて。
そのため歌うことに関しては心臓が縮む思いだった。
しかし持ち前の社交性で初対面のバンドメンバーやスタッフとはすっかり打ち解けてしまい、仲良く弁当を食べ始めた。
「まさかあの伊吹のバックやることになるなんて思わなかったぜ。」
「だよなあ。でも正直CDで聞いてたときは生歌向いてなさそうって思ってたけど、実際かなり声量あるんだな。伊吹はもっとライブやるべきだよ。」
「そもそもなんで表出ないんだ?そのルックスは生かすべきだろ。トークもいけそうだし。」
今回のバックバンドは、ドラムにベースにツインギターの全部で4人。
それぞれその道の大御所と呼ばれるベテラン揃いだった。
一番年長のギタリスト雑賀は、下手すれば美菜と親子でも通じるほどの年齢だ。
「プライベートでちょっと事情がありまして。事務所の方たちには本当にご迷惑おかけしていて申し訳ないと思っているんですが。」
「へー。事務所の戦略説が最有力だったけど違うんだな。」
「あと、ルックスがどうがんばっても受けそうにないからっていう説もあったな。」
「あったあった。整形なんかじゃどうにもならないほどひどいだとか言ってたわ。」
ギタリスト二人は、可笑しくて仕方がないというように笑い合った。
実のところそのルックス説を信じていた雑賀は、怖いもの見たさでその絶望的らしい顔を拝むのを楽しみにしていた。
今朝になって実際に美菜を目にして、その説が根も葉もない噂であることを理解した今では、とんだ笑い話だ。
「そういうわけではないですよ。ただ私のわがままです。」
「よく事務所が許したな。」
「ええ本当に。感謝してもしきれないです。」
「つーことは、これからもずっと露出なしでいくのか?今回のライブも1回限りなんだろ?」
「…そうなると思います。」
つまりは、雅典から逃げ隠れるような生活をこれからも続けていくということ。
雅典は美菜のことなど疾うに忘れているのかもしれないが、それを確認するのは怖い。
もしかしたら手紙なんて待っていないかもしれない、読まずに破って捨てられるのかもしれない、そう思うと約束したはずの手紙すら送ることが出来ずにいるのだ。
美菜はそんな考えで少し暗い気持ちになったが、かろうじて顔には出さなかった。
「もったいないな。伊吹ならタレントでもいけそうなのに。」
美菜の沈んだ気持ちはうまくごまかせたようだ。
話が変わりそうなことに安堵しながら答えた。
「興味ないですよ。」
そんなそっけない美菜の一言に、誰もが納得のいかなそうな表情をしながらも口には出さなかった。
そして思い至ったというような顔をして雑賀が尋ねてきた。
「そもそもどうやって今の事務所入ったわけ?」
「スカウトです。」
「スカウト?どこでだよ?」
「それがすごいんですよ!」
「え、どこなの?」
美菜は間をあけて、皆がこちらを向いているのを確認してから、言った。
「カラオケです。」
「はっ?」
その場にいた全員が一斉に目を見開いた。
期待通りの反応に満足した美菜は、得意げに話し出した。
「私が行きつけのカラオケって、古いお店だから防音もそんなにされてないんですよ。
で、平日の昼間だったんですけど、私たちしか客がいないところにレコード会社の方が偶然来たみたいで、急に部屋に男の人が入ってきたときは驚きました。」
今だからこんな風に笑い話にできるが、寂れたカラオケ店での闖入客は、恐怖以外のなにものでもなかった。
「…すげーな。」
「ま、そいつの気持ちわからなくもないけどな。」
「鵜飼さんですよ。」
尾崎が横から口を挟んだ。
その名前を聞いたメンバーたちは、途端に納得したような顔になる。
「鵜飼ちゃんならやりかねないな。」
「さすが鵜飼だな。」
しばらくそれぞれが持っている鵜飼のネタで盛り上がっていると、以前から美菜のスタッフをしている一番年の若い雑用スタッフが、急に扉を開けるなり声を張り上げた。
「えー、速報です!伊吹ファーストアルバム「IBUKI〜息吹〜」、12月17日付けオリコン第1位確定しましたー!」
おーっ、というどよめきと共に拍手が沸きあがる。
美菜は他人と一緒のときに発表を聞いたのは初めてだったので、照れながらも深くお辞儀した。
いつもは尾崎から電話で報告を受けており、美典と二人で喜び合うだけ。
尤も、美典はなにが起こったのか理解してはいないだろうが。
「なんか、すごいですね。」
「なにが?」
「この雰囲気が。歌手って感じがします。」
「ははっ、今更なに言ってるんだよ?伊吹はもう1年以上前から立派なアーティストじゃないか。」
「いいえ。私なんて、ただ歌ってきただけですもん。ただの自己満足ですよ。」
「それは確かにそうだな。だからこそ今回のライブが、大きな一歩になるんだろう。」
「そんな記念すべきライブのバックをやらせてもらえるなんて、光栄だねえ。」
「なに言ってるんですか。こちらこそ、こんな素晴らしいプレイヤーさんたちに演奏していただけるなんて身に余る思いですよ。本当に、よろしくお願いします。」
美菜は改めて、バンドメンバーの4人に頭を下げた。
そんな美菜に、メンバーたちはまるで娘を見るかのように目を細めて、優しく微笑んだ。