第24話:2005年11月27日
前回の翌日の話です。
雅典は困っていた。珍しく困り果てていた。
言うべきことは十分承知しているのに、切り出し方がわからず、ただひたすら目の前のコーヒーを口につけては下ろす、その動作を繰り返していた。
正面に座る美菜の様子も明らかにおかしいのだが、自分のことで精一杯の雅典がそれに気づくことはない。
二人は合宿最終日をほとんど上の空のまま、なんとか終えて帰宅したところだ。
いつもそうであったように、美菜は帰りのバスには乗らず、雅典の車に乗り込んだ。
どこか余所余所しい雰囲気のその車中で、雅典は美菜に話したいことがある、と言った。
美菜はいつもならどんな話かその場で聞いてくるのに、そのときにはうん、と返すだけだった。
そんな美菜の異変にやはり気づかない雅典。
そして美菜の異変に気づかない、という雅典の異変をどこか冷めた目で見る美菜。
車は美菜のアパートには寄らずに、そのまま雅典のマンションへ到着した。
荷物の整理も着替えもそのままに、美菜は黙ってダイニングテーブルのいつもの席に腰掛けた。
すぐに帰るつもりだ、といわんばかりに荷物は玄関先に置いたまま。
雅典も荷物を寝室に置くだけして、すぐにキッチンでコーヒーを用意し、美菜の向かいに座った。
そして、どちらも声を発さぬまま、コーヒーだけが空しく消費されていくのだった。
雅典は、自分で自分が信じられなかった。
しかし正直なところ、何が起こったのかわからないという気持ちが一番強い。
昨夜は後輩達に散々飲まされ、不覚にも酔ってしまったのだ。
飲み会の途中、じゃんけんで3回連続負けたあたりまでしか覚えていない。
それこそ雅典が今まさに頭を悩ませている問題のきっかけについては、全く思い出せなかった。
ただなんとなく、いつもの美菜の匂いに包まれて、心地よい気分でいた記憶だけはある。
雅典が思い出せるのは情けないことに、全てが終わってしまったあとからだ。
事を終えた瞬間、雅典は違和感に気付いた。
それまで靄がかかっていたようだった頭が急に晴れた。
そして慌てて部屋のあかりを点けた雅典の前にいた裸の女は、美菜の同期の、「さっちゃん」だった。
訳が分からず、とりあえず謝った。ごめん、とだけ言って素早く服を着た。
どのような経緯でこうなったのかはわからないが、雅典にとってこれが「過ち」であることは揺るぎようのない事実だったからだ。
しかし未だ状況が把握しきれない雅典に、佐喜子は矢継ぎ早に話し出した。
ずっと思いを寄せていたこと。
諦めきれずに、最後に一度だけ思い出を作りたかったということ。
頼んでも雅典は応えてくれないだろうから、強硬手段に出たこと。
達哉たちと協力して雅典を酔わせたこと。
美菜と同じ香水をつけて、熟睡する雅典の部屋に忍び込んだこと。
真っ暗な部屋で、声は出さないようにして、佐喜子から誘ったこと。
正確な名前すら思い出せないような女から、いきなり予想もしないことを言われ、まさに呆気にとられていた雅典は。
しかし数分の後、ようやく我を取り戻した。
そして、佐喜子にはっきりと告げたのだ。
今回のことを佐喜子だけのせいにするつもりはないこと。
それでも佐喜子の気持ちには応えることはできないし、これからも何もしてやるつもりもないこと。
美菜には自分から話すから、黙っていて欲しいということ。
そして最後に言った。
「わかったなら、さっさと出て行ってくれないか。」
冷たいようだったが、美菜以外の女に優しくするつもりもない。
それに、どうせ気持ちに応えることができないのだから、余計な優しさはかえってよくないと思った。
佐喜子もあからさまに傷ついた様子はなく、少し悲しそうにしながらも、どこかすっきりとした表情で静かに部屋をあとにした。
「雅。話ってなんなの?」
雅典が考えに耽っているのをいい事に、その滅多に見られない動揺ぶりをつぶさに観察していた美菜だったが、これでは夜が明けてしまうと思い話を促した。
できれば聞きたくないが、いつまでも逃げているわけにはいかない。
「うん。あのさ…」
しかしいつまで経っても口を開かない雅典。
仕方がないので、美菜は自分から話すことにした。
「さっちゃんのことだよね。」
「えっ、…なんで…」
雅典は驚きで目を見開いて、危うくコーヒーのマグカップを落としそうになった。
「実は、さっちゃんから聞いてたの。」
昨夜のうちから「あらかじめ」聞いていたという意味で言ったが、雅典はそうは取らなかったようだ。
今日、佐喜子から「事後報告」されたのだと認識した雅典は、少し眉をひそめた。
「そっか。俺から話すって言ってあったんだけど。」
「いや、…あー、うん。」
雅典の勘違いを訂正しようとした美菜は少し考えて、そのままにしておいた。
今更佐喜子の罪を増やしたって何の意味もないし、あのとき美菜が廊下で聞き耳を立てていたという事実は、たぶん雅典にとって重過ぎる。
言わない方がいい、美菜はそう思った。
「美菜、ごめん!どこまで聞いたのか分からないけど、自分の口から全部話すよ。」
「うん。私もあまり詳しくは聞いてないから、ちゃんと聞きたい。」
それまで互いに意味もなく持ち続けていたマグカップから同時に手を離し、無意識のうちに背筋を伸ばした。
雅典はもう覚悟を決めて、美菜をしっかりと見据えた。
その雅典の瞳があまりにも辛そうで、美菜はもう話さなくていいよと言ってしまいそうになる。
それでもこれは、二人にとって目を背けてはいけない問題なのだ。
「まず、これだけは言っておきたい。
俺、5年前から変わらず美菜のことだけが好きだし、たとえ美菜が許せないって言っても、俺は美菜と別れたくない。」
そう前置きして、雅典は自分が語ることの出来る全てについて話し出した。
しかし雅典から語られる内容は美菜も既に知っていることばかりで、ただひとつ、佐喜子が美菜のふりをした方法だけが新たな情報だった。
「そっか。香水を…」
美菜はそれほど香水に興味があるわけではなかったし、使っているのも香水というよりはコロンに近く、よほど接近しない限り香らないものだ。
しかしそれは雅典から付き合ってから初めてのクリスマスにもらい、それ以来流行にあわせて変えるようなこともなく、ずっと身に纏い続けてきたものだった。
体からはわからなくても、ハンカチにいつも染み込ませていたので、知っている人は知っていたと思う。
あまり耳にすることのないその商品の名前も、何人かに聞かれて教えたことがある。
「いくらさっちゃんが仕組んだことだからって、俺に落ち度がなかったとは言えない。
でも、俺は美菜しか好きじゃないから、あの子に何をしてやることも出来ないし、それは本人にもわかってもらった。
許して欲しいとは言わないけど、でもこれからも俺といて欲しい。」
そう言うなり、雅典はテーブルにぶつかりそうなほどすれすれまで頭を下げた。
美菜はそのつむじを見ながら、なんと答えたらよいか悩んだ。
「とりあえず、頭上げて?」
頭を下げたまま微動だにしない雅典に、そう声をかけた。
雅典は頭を上げたが、目線はまだ迷うように下を向いている。
「あのね、私…最初から怒ってないの。仕方のないことだと思ってる。
さっちゃんが雅のこと好きで苦しんでたのは、ずっと前から知ってたから。だからさっちゃんを怒る気持ちはないんだ。
それに、雅が自分の意志で私を裏切ったわけじゃないこともわかってるから、雅を怒るつもりもないし、嫌いになんて絶対ならないよ。
だから誰も悪くないし、これからも何も変わらない。」
雅典は美菜を見た。
嬉しいけど信じられない、という気持ちが顔にありありと出ている。
美菜は心からそう思っていた。
最初から雅典を責める気持ちはなかったし、今日の雅典の狼狽振りを見ていたら、もう自分の中にあったわだかまりもとけてなくなった。
「ただ、ね?
ただ、…仕方のないことだってわかってるけど、やっぱりどうしても、悲しいと思っちゃうの。
誰のせいでもない。ただ、すごく悲しい。それだけだよ。」
責めることもなく、それどころか下を向いて申し訳なさそうに、消え入りそうな声でそう言った。
言ってから深呼吸をひとつして、心を落ち着けてから顔を上げると、はっとした。
正面に座る雅典が辛いのを通り越して、今にも泣き出しそうな表情をしていたのだ。
美菜は、きっと自分も同じような表情をしているのだろうと思った。
だって、美菜と雅典の気持ちは同じのはずだから。
美菜が悲しんでいるように、雅典も、同じくらい悲しいのだ。
「雅。今回のことは、事故に遭ったと思って忘れよう?
何もなかったことにはできないけど、私と雅は、運の悪い事故に遭っただけなんだよ。」
「美菜…」
雅典の右目から、一筋の涙が静かにこぼれた。
ちょうど、美菜の両目から涙が流れたのと、同じタイミングだった。