第21話:2005年6月21日
前回からいきなり半年後です。
学生の街に密集する居酒屋の中にあるお気に入りの一軒で、乾杯を交わしたあと。
「はー。それにしても、みんな無事決まってよかったよね。」
麻衣子がビールのジョッキを一気に3分の1ほど空にしてからドン、とテーブルに置き、しみじみ言った。
「そうだね。公務員志望の子たちはこれから大変みたいだけど、私たちはみんな一般企業だもんね。」
いつまで経ってもアルコールに強くなる気配のない朱美が、カシスオレンジを一口飲んで答える。
「いや、ひとり違う人いるから。」
あくまで冷静な沙織が、朱美に突っ込みを入れる。
素早く麻衣子が口を挟んだ。
「ほんとほんと!永久就職の人がここに約一名いますけどー。」
「はは。一人だけのんびりしちゃってごめんね。」
美菜は苦笑いした。
大学生活もあと1年を切った。
美菜は1年生の時から、ずっと変わらずこの4人でつるんできた。
同じクラスで仲良くなった麻衣子と朱美。
朱美と共に入ったサークルで仲良くなった沙織。
そういうわけで、麻衣子と沙織は美菜を介して知り合った。
どちらかといえばギャルのようでうるさいタイプの麻衣子と、クールでどこか冷めたところのある沙織。
お互いに嫌いなタイプと言い合いながらも仲良くやっているようだった。
そんな美菜たち4人がよく利用するこの店は、この界隈ではやや高めの価格帯だが、何より個室になっているところが気に入っていた。
お酒が入るとあまりおおっぴらには言えない話題に発展することも度々あり、そんな時でも個室なので他の客に聞かれる心配がないのだ。
「ミナちゃんミナちゃん!結婚式のこととかってもう決めてるの?」
結婚を決めてすぐにこの3人には報告してあったものの、就職活動本番に向けて各々忙しくしていたため、こうして面と向かって話すのは今日が初めてだった。
そのため麻衣子と朱美は聞きたいことがたくさんあるといった興味津々の表情を隠そうともしない。
いつもどおりそれを達観している様子の沙織も、心の中では気になっているに違いなかった。
「えっとね、来年中にはしようって話してるけどまだ決まってるわけではないんだ。」
「遅くない?結婚決めたのってなんだかんだ言ってもう半年前とかだよね?そういうものなの?」
沙織は身近に結婚をした友人がいないためわからなかったが、それでも結婚を決めてから行動に移るまでが長すぎるのではないかと感じた。
「早くしたい人はもっと急ぐんだと思うけど。私たちは別に急いでるわけじゃないし、とりあえず私が卒業するまでは具体的な話はしないようにしてるの。」
それを聞いて、早くもジョッキを空にした麻衣子が呆れたように言った。
「はあ?ここまで来てまだ焦らすわけー?彼氏まじかわいそうなんだけど。
ミナが急いでなくたって、向こうは今すぐ結婚したいに決まってんじゃん!31でしょ?」
「いや、ついこないだ32歳になったけど…」
「だったらなおさらじゃん!ねえアケミン?」
「うーん。本人達の問題だからどうとも言えないけど…ミナちゃんはどうしてそんなに学生の間は、ってこだわるの?」
「そうそう!なんかミナって、変なとこで頑固だよねー。」
朱美も麻衣子も、出会った頃から美菜の結婚に対するスタンスには賛同しかねるところがあった。
そんな二人とは対照に、沙織は何も言わず静かにチューハイを飲んでいた。
「なんていうのかさ…」
美菜は、この自分の気持ちをうまく表す言葉を探そうとしたがなかなか出てこなかった。
そんな美菜に、麻衣子たちも口を挟まず待っていてくれる。
「学生の間くらい、純粋に学生でいたいっていうか。」
的を得ない美菜の話に麻衣子と沙織は口を開かず続きを促したが、朱美が思わず疑問を投げかけた。
「どういうこと?」
「こういう言い方もちょっと違うんだけどね?
でも、私はこれから就職して社会に出て行くみんなとは違って、そのまま結婚しちゃうわけでしょ?だから今ぐらいは伸び伸びしていたいっていうか…」
「…」
「…」
「…」
3人が3人とも、思いも寄らなかった美菜の言葉に驚きを隠せないようだった。
リアクションの薄い沙織でさえも、マイペースに飲んでいたチューハイを持つ手を止めて美菜を凝視している。
「…意外―!美菜もそんなこと思ったりするんだ!?」
いち早く立ち直った麻衣子が、いつもより真面目なトーンで言った。
「ミナ、ほんとうは結婚したくないの?」
沙織も、聞かずにはいられない。
朱美は心配げな目を美菜に向けていた。
「まさか!私、雅のことすっごく好きなの。私の運命の相手だって確信できるもん。
ただね、私自分がこんなに早く運命の人に出会うなんて思ってなかったんだ。だから普通に就職して、仕事してって色々将来のビジョンがあったわけ。それが全部なくなるかと思うと、なんかちょっとだけ寂しいかなって。」
言ってから、すぐに後悔したような顔をする美菜を見て沙織が素っ気無く言った。
「ま、たしかにミナってキャリアウーマンになってバリバリ仕事してそうなイメージあるよね。このまま大人しく家庭に入るっていうのはもったいない気がする。」
そんな沙織の言い方に美菜も少し救われた。
しかしまだこれだけでは自分の気持ちの半分も伝えられていない。美菜は気を持ち直して更に話し出した。
「でも、結婚するなら雅じゃなきゃ嫌なの。それに雅は子供好きだから、早く子供が欲しいって言う望みも叶えてあげたいの。
ほんとはもっと早く叶えてあげたかったけど、私はまだ学生で、雅と10も年の差があるのがずっともどかしくて、だからこれ以上は余分なことしてる場合じゃないの。」
「…つまりあれだね!仕事もしたいけど、それを諦められるくらいに彼氏のことが好きだってことだね!」
麻衣子が美菜の気持ちを軽くするように、ふざけたテンションでそうまとめた。
「そうそう!そういうこと。」
美菜もそれに乗じて、この話を終えることにした。
そんな美菜の気持ちを読み取って、朱美と沙織も何も言わなかった。
本当の美菜の気持ちをわかってもらうのは難しい。
美菜が雅典と同じ年か、せめてあと5年でも早く生まれていれば。
そうすればもっと早く雅典を父親にしてあげられただろうし、美菜だって一度くらいは社会に出られたかもしれないのに。
しかしそんなことを考えてもそれは詮のないこと。22年前、今原誠と朝子の娘として生まれてきたからこそ、雅典と出会えたのだから。
「でも1年生のときから、そのうち結婚するだろうって思い続けてたけど、いざ結婚が決まるとなんか緊張するねえ。」
朱美が、先ほどまでのシリアスな空気をすっかり忘れてのほほんと言った。
「なんでアケミンが緊張するのよ?関係ないでしょ。」
沙織もすっかりいつもの調子を取り戻した。
「でもほんと人それぞれだよねー。ミナはずーっと続いてるし、アケミンはついに去年彼氏できたし、サオリンは入学してから一回も彼氏できないしねー!」
麻衣子は最後のところが言いたかったようで、沙織の方を叩きながら笑った。
「そうだね。マイコはとっかえひっかえだしね。」
その程度のからかいには動じない沙織も、負けじと言い返した。
「ひどーい!とかっえひっかえじゃないし!」
「あ、すぐ捨てられるのね。」
「サオリンこわーいー!」
こんな二人のやり取りはいつものことだったので放っておいた。
その後はしばらく互いの就職先の話などで盛り上がり、美菜もだいぶ酔いがまわってきた。
すると沙織が、あまりらしくない大声で話し出した。
「ねえ!ミナとナベさんはさー、付き合って5年目になるんでしょ?」
「うん。」
珍しく酔っているのかもしれない。
沙織がこんなしゃべり方をするのを聞いたことがなかった。
既につぶれた麻衣子はすっかり夢の中だが、2杯目以降はウーロン茶に切り替えた朱美も、沙織の様子に首をかしげた。
「しかも、美菜がこっち来てからは毎日会ってるんでしょ?」
「…うん。ほぼ、ね?」
それっきり下を向いて急に勢いをなくした沙織に、美菜と朱美が目を見合わせていると、沙織がばっと顔をあげた。
そしてすっかり正気に戻ったような真顔で、聞いた。
「…避妊に失敗したこと、一度もないの?」
いつものような酔った状態ではなく、素面のままそんな話題を振られたことに戸惑いを隠せない。
それでも沙織のその表情に、何かを感じた美菜はちゃんと答えた。
「ないよ。私、それだけはかなり念入りに気をつけてるから。」
「具体的には?」
「私ずっとピル飲んでるし、向こうもちゃんと避妊してくれてた。だから限りなく100%に近いと思う。」
「すごいね、ミナちゃん。私恥ずかしくて彼氏とそういう話できないんだ。」
朱美が少し照れながら言った言葉に、美菜は厳しい顔で説く。
「恥ずかしいで済ませちゃだめだよ!ちゃんとしないと。
私さあ、無責任に避妊しないで、それで妊娠したからって言って簡単に中絶しちゃうようなのって許せないんだよね。
もちろん、簡単じゃなくて泣く泣く中絶してる人もいるだろうけどさ。
でも、自分が育てることができないのなら、避妊は絶対にしなきゃいけないと思う。
私はもし妊娠したら絶対に生むし、でも今はまだその段階じゃないと思ってたから避妊はかなり気をつけてた。これは男だけの責任じゃないよ。」
「う、うん。気をつける。」
いきなり熱弁しだした美菜に、朱美はそう返すのがやっとだった。
「ミナ偉いね。そんなにちゃんと考えてたんだ。」
言葉の内容とは裏腹に沈んだ表情の沙織を、少し不審に感じた。
「サオ、どうしたの?」
「私さー、彼氏できなかったってさっきマイコに言われたけど。」
何を言おうとしているのかわからないが、大事な告白をしようとしているということだけは感じ取った美菜と朱美は、沙織をじっと見た。
「できなかったんじゃなくて、つくれなかったんだ。」
「…なにかあったの?」
美菜が先を促す。
「私、高校の時に妊娠中絶してるんだよね。」
「えっ!?」
思わず声を出す朱美。
「…。」
美菜は黙って続きを待った。
「そのとき付き合ってたのが別の高校のタメの男で、妊娠したって言った途端逃げられてさー。
…だからなんか、男の人が信用できないっていうか。要するに、怖いんだよね。
付き合うまではいいにしても、そこから先は絶対にセックスすることになるでしょ?妊娠したらどうしようとか、妊娠したらこいつも逃げていくのかなとか考えちゃって、踏み出せないんだ。」
「…。」
あまりに深刻な内容に、誰も声を発することが出来なかった。
あまりに場違いな麻衣子のいびきにも、笑う余裕すらない。
「そうだったんだ。じゃあさっき私が言った言葉で、サオのこと傷つけてたね。ごめん。」
美菜は自分が熱弁した内容を思い出し、はっとした。
「大丈夫だよ。ミナが言ってたことはまったくの正論だし、私が幼くて無知で無責任だったのは本当だから。それに、中絶したこと自体はそんなに引きずってるわけじゃないんだ。」
「そっか。」
「うん。むしろうれしかったよ。ちゃんと真剣に考えてる人がいて。」
そう言って、沙織は笑った。
いつも見ているどこか冷めた笑いではなく、どことなく温かさのこもるそれに、美菜と朱美もようやく心から微笑みを返した。
それから、すっかりいつものように戻った沙織が聞いてきた。
「でもミナ、いつまでピル飲むつもりなの?」
「うーん。雅とも話して、とりあえず今年の10月か11月まででやめることにした。その後なら、万が一妊娠しても大学の卒業には問題なさそうだし。」
「結婚式前に妊娠したらめんどくさいじゃん。」
「たしかに面倒だけど、無理なことではないから。でも一刻も早く子供が欲しいからピルはやめるけど、やっぱり結婚式のことも考えて避妊はするよ。」
「あんたたち、とことん意味不明なカップルだよね。」
「そう?ありがと。」
「いや、褒めてないから。」
そんないつもどおりのやりとりを見て、朱美は嬉しそうににこにこしながら言った。
「でも、ミナちゃんとナベさんの子供早く見てみたいな。絶対かわいいよね!」
「実はミナがピルやめた途端ナベさんがこっそり避妊しなくなるとかありそうじゃない?」
「ナベさんならやりそうだね!ミナちゃんのこと大好きだし!」
二人の勝手な盛り上がりに、美菜は苦笑しながら割り込んだ。
「さすがにそれはないよ。でも、私がピル飲んでるせいだと思うけど実は酔うとたまに忘れるんだよね。」
「ナベさんって酔っ払うの?なんか想像つかないね!」
「酔っ払うって言っても、そんなべろんべろんとかはないよ?」
「べろんべろんって、これ?」
そう言って沙織が指差したのは、相変わらずいびきをかく麻衣子だった。
「そうそう!さすがにこれはないなー。百年の恋もさめる。」
そう言って、3人は大笑いした。
その笑い声でようやく目を覚ました麻衣子を引きずって店を出たときには、もう日付も変わろうとしていた。
次回から、物語の「転」に入っていきます。