向日葵の咲くころに
筋肉は麻薬だ。腕や胸、背中、脚、薄い皮膚の下で蠢く筋肉はヒトを王様のように振る舞わせる。たとえば、私の目の前にいるこいつみたいに。
「あんだよぉ」
コースケは髪を弄りながら興味なさそうに言った。
「なんでもないよ」
私がそういうと、コースケは大げさに鼻息を吐き出して手元の雑誌に目を落とした。
朝の教室は薄暗くて、ざわざわしていて、まるで阿片窟にいる様で息が詰まる。外はどす黒い夏の雲が空を覆っていて、陰鬱な気分が学校中に蔓延している。私は座席に後ろ向きに座っていて、背もたれに顎を乗せていた。後ろの席はコースケだ。コースケは登校してからずっと漫画雑誌を眺めている。こんな指が汚くなるようなものどこがいいんだろう。いつまで待っても雑誌から顔を上げる様子がないので前を向くことにした。
朝の教室はやりきれない。なんだかみんなそわそわしていて、落ち着きがなく、間合いを取りかねているようだ。これがお昼休み頃になると地に足がついてちょうどいい距離感で話ができるようになる。要はまだ目が覚めていないのだろう。考えてみれば朝7時に起きなければ学校に間に合わない。これが大学になると10時11時に起きる人も珍しくないとか。うらやましい話だ。小学校までは朝起きるのも苦労じゃなかったんだけど。
机に肩肘をついてうとうとしながらいつかの光景を思い出していた。
「こーちゃん、なにやってんの!」
「まってよ、まこちゃん」
子どもの頃のコースケはとろかった。私が走ってる後ろをぽてぽてと音がするような走り方で追っかけてくる。
「あー、もうっ」
私はそのたびに待ってあげなきゃいけなくて、かくれんぼとか、缶けりとか、サッカーとか、何をやっていても足を引っ張られてた。でも、内心それが自慢だった。弟分を守る兄貴分みたいでカッコイイと思ってた。中学に上がってからは男子を引き回してるのが自慢になった。コースケは何時も後ろをついてきていた。
それが今では、白くて丸かった首は筋張って血管が浮き、肩や二の腕には筋肉がついて角ばって見える。何時の間にか足も速くなって駆けっこしても勝てなくなった。一方、私は角ばったところに肉がついて丸くなっていった。同じ一年を過ごしていてもコースケは大きくなって、私は小さくなった。その差が、最近、なんだか大きい。
周囲で歓声が上がった。顔を上げると、一人の女子生徒が入ってきたところだった。それを見てため息をつく。その女生徒は顔中に笑みを浮かべると教室の真ん中で待つ女子生徒の集団に飛び込んだ。ひときわ大きな笑顔が咲いた。クラスの人気者というのはこんなものだ。いるだけで周りを喜ばせる。その女子生徒の一団は連れ立って外に出て行った。それを見てぺっと唾を吐きたいような気持に駆られた。なぜ自分と同世代の女子はトイレに行くにも連れ立っていこうとするのだろう。人が周りにいるとふつう落ち着かないもんじゃないのか?
そんなことを考えていると、肩をトントンとたたかれた。振り返るとコースケが雑誌から顔を上げていた。
「なにぃ?」
「マコト、今日放課後どうする? 用事あるか?」
「ないけど……」
「じゃあ今日も遊ぼう。いつものとこ集合な」
うんわかった、と言ってにししと笑う。眼の端でさっきの集団にいた女の子たちが興味津々といった顔でこっちを見ているのに気付いたけど、気にならなかった。私は机の上に肘をついて、顔をうずめた。ちょうど担任が入ってきて、ホームルームの始まりを告げたところだった。
「マコトー、おっせーぞ」
「ごめんごめーん」
自転車を急いで止めて、フェンスをくぐる。自転車はおんぼろだし、鍵はかけなくても大丈夫だろう。公園の真ん中ではコースケがバットを持って暇そうに佇んでいた。コースケが手に持っていたボールを投げてくる。何度かバウンドして速度が緩まったそれを手の平に当てて救い上げた。投げ返す。コースケはバットを持ち直すと器用にも真上にボールを打ち上げた。私は、落ちてくるまでの間ふらふらと漂うように体を揺らして、そしてボールを捕った。
私とコースケは毎日のようにこの公園に来ていた。ここは学校からもそれほど離れてなくて、だけど不良がだべっているようなとこでもなくて、あたしたちが体を動かすにはちょうどよかったのだ。いつも二人で遊んでいるあたしたちのことを、クラスの女の子たちは噂してくすくす笑ってたけどそんなこと私にはどうでもよかった。体を動かしているだけでほかのことを忘れられたし、それにこういう遊びに付き合ってくれるのはもう、コースケしかいなくなっていたのだ。
しばらくの間私たちは野球をして遊んだ。私がグローブをはめて、コースケが打ち返すボールを追いかける。間のぬけた球音を上げて左右に跳ねるボールを追いかけるうちに首筋や背中の汗腺から汗が吹き出し、それと一緒にどろりとした膿のようなものも流れていく気がした。
「ちょっとー、つかれた。そろそろ代わってよ」
「えー、もうギブアップかよ。だらしねーの」
私がカチンとくるのはこんなところだ。人を走り回らせておいて自分ひとり涼しい顔でこんなことを言う。コースケは切ったばかりの前髪を気にしながらバットに凭れかかっている。半袖のカッターシャツから覗く、盛り上がってごつごつした二の腕が目に入った。胸の奥で何かがざわざわした。
「ほら、攻守交代! 走った走った」
コースケはへいへいと言うと走って位置についた。私が構えるのを確認して、ボールを握った腕を風車のように回して、ボールを投げる。タイミングを合わせて金属製のバットを振った。腕にかかる微かな重さは一瞬で弾け、コキン、と間のぬけた音を残して白球は青空に舞った。
「おわっ」
コースケが慌てて球を追いかけた。ボールはコースケの頭上を飛び越えて公園の端まで転がった。ヒーヒー言いながら走るコースケを見て少しだけ胸のつかえが下りた気がする。この公園は試合ができるほど広くて、端まで走ったコースケは親指くらいに小さく見えた。その小さなコースケが大きく手を挙げた。あげた手を下ろすと、ゆっくりと振りかぶり、そして次の瞬間、白くて大きなものが視界いっぱいに広がり、私は昏倒した。
目覚めた時、私の周りにはだれもいなかった。真っ白な壁に囲まれてしばらくぼうっとしていると次第に輪郭がはっきりと見分けられるようになって、黄ばんだカーテンとか、チューブがぶら下がった点滴とか、枕元のごちゃごちゃした機械に囲まれているのが分かった。つまり、あれだ。ここは病院だ。痛む頭を押さえながら記憶をたどってみる。とすると私はボールを受け損なって気を失ったのか。起き上がってみると自分のほかにはだれもいなかった。大部屋のようだがその他のベッドは空で、窓の外から車が通り過ぎる音が聞こえるばかりだった。
しばらくして、扉が滑る音がして、小柄な女性が入ってきた。一瞬身を固くして、それが母だとわかり、息を吐く。
「母さん」
お母さんは険しい表情をしていた。傍らに置いてある丸椅子にポーチを置くと、体を乗り出して手を伸ばした。母の指はおでこにヒンヤリと当たり、気持ちいいなと思った。母は探るようにおでこを触ると力を入れて腫れて膨らんだ部分を強く押した。
「ちょっと、痛いじゃん!」
「あんたはほんとに馬鹿なんだから! ホントにもう! もう子供じゃないってのにいつまでも心配ばかりかけて」
「ちょっと当たっただけだよ」
「何言ってるの! あんた気を失ったんだよ! 浩介くんが救急車呼んでくれたんだから!」
「ぶつけたのもコースケじゃん」
「あんたねえ、いい加減に……」
その時、廊下で話し声がして、看護師さんと一緒にコースケが入ってきた。コースケはお見舞いだと言って果物がいっぱい詰まった籠を母に渡した。
「よっ、気が付いた?」
「おう」
「お前凄かったんだぜ。その場でバッタリ倒れちゃってさ」
私はへへへと笑って頭をかいた。お母さんは籠をキャビネットにおいて病室を出て行ってしまった。私がコースケと遊び歩いているのが気に入らないのだ。今回のこともきっと後で怒られるに違いない。そのことを思うと、今からうんざりする。
コースケは30分ほど世間話をすると「また来るわ」と言って帰ってしまった。急に話し声が絶えた病室は大部屋なこともあって、寒々として、世界から隔離されてしまったような気がする。私はベッドに体を横たえると窓の外からかすかに聞こえる自動車が走り去る音に耳を傾けた。
昼下がりの太陽は穏やかさを増し、ふわふわの雲は暑さを紛らわせてくれる。ゆったりと波に揺蕩う時間が、穏やかに頬を撫でてくれる。腕を持ち上げて額に触れると、鈍い痛みが額からじんわり広がった。コースケがいるうちは努めて思い出さないようにしていた最後の光景が持ち上がってきた。きっとコースケも呆れただろうなあ。あんな遠くから投げられたボールに反応できなかったなんて。コースケの太い腕を思い出す。それに比べて私の腕ときたら……。昔は私の方が足も速くて、球技だってうまかったのに今じゃご覧のありさまだ。見ようとしてこなかった現実を突きつけられたような気分だ。つまり、私は女で、コースケは男だ。女は男にどうやっても勝てない。少なくとも運動に関しては。
重たい石を飲み込んだような気分だ。昔、コースケは運動が下手だった。走るのも追いかけっこもどんくさくてどうしようもなかった。でも、今はなんだってできる。サッカーもバスケも野球も、私よりずっとうまい。昔、私は運動が得意だった。かけっこも鉄棒もなんでもできた。今、私がコースケよりも得意なものはひとつもない。実を言うと、家に帰ってから筋トレをしたり、走ったりしてるのだ。でも、特に体を鍛えてる風でもなく、最近髪を弄りだしたコースケより五秒も遅い。私にはこれが大問題に思えるのだ。
ため息が自然ともれた。筋肉の量でどう生きるか決めなくちゃいけないのか。私は女だから連れ立ってトイレに行くようなみっともないことしなきゃいけなくて、コースケは男だからかっこつけて雑誌を読んでいていいのだろうか。まぶたの裏に、かつて輝いた日の面影がちらつく。私が主人公だった栄光の日々。そうだ。このままじゃだめだ。幼いころは行動で周りを引っ張ってきたんだった。行動しなければ何も変わらない。女でもやれるんだってことを見せてやろう。次にコースケが来たとき、思い知らせてやろう。そう考えたら、なんだか胸のつかえが下りて楽しい気分になった。こんなに天気がいいんだもん。悩んでる時間がもったいないよね。
古い家にはカミサマが住んでいるんだよ。昔おばあちゃんが言っていた。こうして古い木材の匂いを嗅いでいるとなんだかそれもそうかと思ってしまいそうになる。軽い検査と診察を受けて退院したわたしはおばあちゃんの家にお見舞いのお礼に来ているのだった。台所では母とふたりが世間話をしている。おばあちゃんの家は広くて古い。客間には台所の声も届かなくて、時折涼しい風が通り抜けるほかは静かすぎて怖いくらいだ。私はごろんと横になった。天井の染みが懐かしい。子供の頃、おばあちゃんの家に泊まるときはいつも客間に布団を敷いて雑魚寝したものだ。
天井の染みを数えていると、おばあちゃんがスイカを切ってもってきてくれた。おばあちゃんはいつも変わらずにこにこしていて、優しい。
母がひとしきり私のことで愚痴り始めても、笑顔を崩さずに、真は男勝りだで、大事ない大事ない、と額をなでながら言ってくれる。わたしはそういうおばあちゃんの筋張った手が大好きだった。
母が台所で片づけをしている間に聞いてみた。
「あのね、女の子が男の子に勝つのって無理なのかな」
おばあちゃんは優しい目をして答えた。
「真は何で男の子に勝ちたいんだい」
「なんでってわけじゃないけど。子供のころは男も女も同じくらいだったのに大きくなるにつれて女じゃ男に勝てなくなるのってなんかずるいじゃん」
「真、あんたそれはね、男の子と女の子は役割が違うからだよ。男の子は外で……」
「それはわかってるけど!」
なんだかもどかしくて大声が出た。それはわかってる。だけど……。私はコースケに負けたくない。
おばあちゃんは私の髪をなでながら、静かな口調で言った。
「もし真に本当にやりたいことがあるんなら、おやんなさい。真には物事をやりぬく力がある。ばあちゃんにはそれがわかるの。どんなにつらくても信念を貫いた人間だけが後で笑えるんだよ」
「でもばあちゃん、何をすればいいかわからないよ」
「いいかい、真。自分の思うところをするの。自分の思った道をいけばいいのよ」
おばあちゃんはそういって両手をぎゅっと握ってくれた。おばあちゃんの掌は暖かくて、それが次第に自分の手に移ってくる感覚がとてもうれしかった。
「ばあちゃん、私、やってみる」
何をやるかも定かでないまま、私は宣言した。こうして、私の挑戦が始まった、
まずは目的が大事だ。私は自分に言い聞かせる。何のだめに努力するのかわからなくちゃ話にならないからね。目的はなに? ただひとつ! コースケに勝つこと。何の種目で勝つ? かけっこ? 勝ち目がない。バスケ? それも無理。じゃあテニスはどうだ。やったことない。数え上げてみるとどれも勝負しても勝てそうにないものばかりだ。私はお風呂につかりながら考えをめぐらせていた。しかしどれも決め手に欠ける。私は額の傷をなでながら熟慮した。やるからには絶対に勝たなければいけない。失敗は許されないのだ。額をなでるうちに事故を思い出して気分が悪くなって来たのでそっとお湯から出た。しばらく腰かけに座って涼んでいると突如名案が思い浮かんだ。野球があるじゃないか! 野球なら私も得意だし、コースケにも勝つ可能性がある。野球だ! 私はうれしくて、浴室を飛び出してびしょぬれのままベッドに飛び込んだ。野球があるじゃないか。
一週間ぶりの教室はなんだかぎこちなくて、みんな無理やり笑顔を作っているような、そんな違和感があった。何にも気づかないふりをして、いつも通り、突っ伏して寝ているコースケの前に立つ。
「こら、起きろ!」
おわっと言ってコースケが飛び起きた。
「なんだよ、普通に起こせよな。ていうか、もう学校これんのかよ」
「おう」
「心配ねえのか」
「おう」
「ならよかった。いややっぱり俺もわりいとおもっててさ。何つーか、もうちっと加減しとけばよかったかなー、なんて」
「何ともないよ」
「そっか、それならよかったよ」
「コースケ、話があるんだ」
私がそういうと、遠巻きにこちらをうかがっていた教室がざわめいた。
「な、なんだよマコト、改まった声出しちゃって。やっぱ怒ってるんじゃねーだろうな」
「ちがうよ。だけどコースケには責任とってもらうからね!」
「責任!?」
ざわめきが大きくなった。あたしは深呼吸してあたふたしてるコースケをまっすぐ見つめて、そして言った。
「あたしと勝負するのよ!」
授業が終わって人気が少なくなった教室で、私は人を待っていた。目的の人物は案外早くやってきた。
「ごめんね河野くん。突然呼び出しちゃって」
「いや、今日は練習が早く終わったからさ。それより用事って何かな」
走ってきたのか顔を赤くほてらせた河野くんは、そう言って、人目を気にするかのようにきょろきょろと落ち着きがなくあたりを見回した。河野くんは野球部のキャプテンだ。私のお願いにこれほどぴったりの相手はいないだろう。
河野くんはなぜか私を教室から連れ出した。グラウンドに向かいながらお願いについて説明する。
「あのね、実はとある人と勝負することになったんだけど……」
「知ってるよ。本田との決闘だろ? 噂になってるよ」
河野くんは苦笑してそう言った。その顔は夕日に照らされて見えなかった。勢い込んで話そうとする私を押しとどめるように河野くんはしゃべった。
「三球勝負だっけ? なんでそんなことすんのかは聞かないけどさ、本気なのか?」
「もちろん、私は本気だよ!」
「そっか、それならいいんだけどさ、それで、俺への頼みってなに」
私は河野くんに向き直ると両手を合わせた。
「お願い! わたしにピッチング教えてくれない? コースケをぎゃふんと言わせられるようにさ!」
「やっぱりそんな頼みか」
なぜだか河野くんはがっかりしたように肩を落とし、それでも毅然と顔を上げ、
「よしわかった。おれがお前を女子ナンバーワンのピッチャーにしてやる。絶対逃げるなよ!」
この時の河野くんは妙にハツラツとしていて怖かった。
その日から私と河野くんの特訓が始まった。河野くんは言う。
「ピッチングは全身の力を利用するんだよ。まず振りかぶって勢いをつけたら軸足に体重を乗せて、前足に体重移動しながらボールをリリースする」
河野くんの投げたボールは矢のように緑のバックネットに突き刺さった。
おまえもやってみ、と言われた私はとりあえず見よう見まねで白球を放る。なぜだか私の投げたボールは歪な軌道を描いてバックネットにボスンとぶつかった。
「その女投げやめな。朝山は腕だけで投げてるんだよ。そうじゃなくて腰から下も使って……」
このように私と河野くんの特訓は一か月先まで続いた。途中、わかったことがある。河野くんは見た目通りの好青年だということだ。おまけに好きな女子までいるらしい。校舎とグラウンドを結ぶ階段に腰かけてしゃべっているとき、そのことをからかったら顔を真っ赤にして怒ってきた。そういううぶなところにも好感を持った。何事にも真剣なんだなあ、とうらやましく思った。素直にそう言うと、彼は驚いたように「朝山には何にも打ち込むものがないわけ」と言った。
「うーん、私って成績もほどほどだし運動もさして得意じゃないし何もないんだよね。今はコースケとの勝負で精一杯」
私はなぜだか恥ずかしかった。コースケとの勝負に執着する自分がひどく幼く思えた。河野くんはちょっと拗ねた様な顔をして、話し始めた。
「朝山ってさ、なんか本田と二人だけの世界に閉じこもってるって感じがするんだよな。付き合ってるってわけじゃないみたいだし、なんかすごい閉鎖的な空間にいて息苦しくないのかなって思う」
私には周囲からそう思われていることが驚きだった。
「息苦しいなんて全然! 今度河野くんもおいでよ、コースケと三人で野球やると楽しいよ、ぜったい!」
河野くんは苦笑した。
「俺が行っても邪魔者になるだけだっつうの。女子ってそこらへん鈍感だよな」
「えーなになに。私は親切で誘ってるってのにさ」
「わり。でも俺は二人の間には入りこめねえよ」
河野くんはそういうと、立ち上った。
「じゃあ今日の特訓は終わり! 以上!」
「ありがとうございました!」
私は勢いよく頭を下げる。
こうして月日は過ぎて行った。
翌月。勝負の日。私は朝から気合十分、絶好調でこの日を迎えた。勝負の場所はいつもの公園だ。立会人兼審判として河野くんにも来てもらった。河野くんはマスクと防具をつけ、ミットを持ってホームベースにしゃがみ込む。不本意そうな顔のコースケが野球部から借りてきたヘルメットをかぶって打席に入った。
「なあ、マコト、本気でやんなきゃダメか?」
「駄目に決まってるでしょ!」
コースケはため息をついて構える。私はひとつ深呼吸した。脳裏に河野くんのアドバイスが甦る。
「あのな、素人はまず真っ直ぐしか打てない。曲げたり落としたりすれば十中八九空振りするよ。だからこれだけ覚えておけばいいよ」
軟式ボールの縫い目に引っかけるように指を添わせる。そして大きく振りかぶった。軸足に体重を乗せ、スムーズに軸足から踏み出した足へ移行させ、そして腕を大きく振って、ボールをリリースする。ボールは手を離れ、一直線にコースケに向かって行った。
「おわっ」
コースケは驚いて体をねじって避けようとする。するとストンとボールは曲がった。
ストライク! という河野くんのコールが三人だけの公園に響く。これぞ私が修得した魔球、カーブだ。私は会心の笑みを浮かべていた。勝てる! これなら打たれる気がしない。続く第二球でも空振りをとった。私は抑えきれない笑みをグローブで隠しながらコースケが再びボックスに入るのを待った。これで私は、元の私に戻れる。自分が主人公だった、輝かしい栄光の日々に戻れる。
ラスト一球、大きく振りかぶって、投げた。
「あんまりなめんなよォ!」
コースケがバットを振った。
そして耳に残る金属音を残して、ボールは高々と舞い上がり、フェンスの向こうに消えた。
ホームラン、と河野くんが宣告し、コースケはうおおとはしゃぎながらダイヤモンドを一周する真似をした。私は、先ほどまでの誇らしさも一緒に飛ばされたような気がして、目の前が真っ暗になってしまう。人の力で、どうしてもできないことが、この世の中にたくさんあるのだという絶望の壁の存在を、生まれて初めて知ったような気がした。
気が付くと、河野くんが傍らに立って、手を優しく添えてくれていた。コースケはまだはしゃいでいる。私は無性に泣きたくなって、天を見上げて、涙をこらえた。そして精一杯涙声にならないように注意して、怒鳴った。
「これで終わったわけじゃないからな! 覚悟してろ!」
「ええ! まだやるのかよマコト」
「まだやるよ! 勝つまでやるよ!」
あんまりだぜ、というコースケの声を無視して、私は帰り支度を始めた。ひどく惨めで、傍らの河野くんの顔を正視できなかった。筋肉が、私を打ちのめした。
衝撃はこれで終わりじゃなかった。決闘が終わっても、私たちの関係は元のままで、翌週、いつものように公園でキャッチボールをしていた。突然コースケが、何の脈絡もなく言い出した。
「俺、彼女ができたかもしんねえ」
「うそ! だれだれ?」思わずボールを取り落す。慌てて取りに走った。
「下級生の子。先輩のことが好きなんです、だってさ」
コースケはやにさがった顔でそういった。正直言ってショックだった。コースケと私はずっと一番の友達で、コースケは誰とも付き合わずに卒業して、そして私の知らない人と結婚するんだと思っていた。コースケにとって私は一番で、私にとってもコースケは一番だった。そのはずだった。
そうではないと告げられた哀れなピエロ。
「よかったじゃーん!」
動揺を悟られたくなくて、ボールを強く投げ返す。ボールはコースケの頭上を越えて彼方へ飛んで行った。ぼやきながらボールを取りに行くコースケの背中を眺めながらつぶやいた。
「そんなことになったら私がひとりになっちゃうじゃん」
コースケが息を切らせて戻ってきた。
「そういうわけだからさ、わりいんだけど……」
「わかってるよ! 彼女さんに悪いもんね!」
「怒んなよ、マコト」
「怒ってない」
「嘘つけ」
「ほんとだってば!」
私は泣きたくなる気持ちを押し殺してボールを投げ続けた。それは私にとって二人で見えない糸を織るかのような清潔な営みだった。
その日から、私は授業が終わってすぐコースケが嬉しそうに、いそいそと教室を出ていくのを黙ってみているようになった。あの日から、私は一度もコースケと遊んでない。一球のキャッチボールもしていなかった。コースケのいない教室はなんだか薄暗くて、自分が居ることが間違いであるかのような違和感が混じっていて、なんだかひどく落ち着かなかった。もうコースケと遊ぶことはできないのだろうか。いつもみたいに気軽に声をかけて、キャッチボールをしたり、ノックをしたりするような気の置けない関係には戻れないのだろうか。そう考えると、無性に泣けてきて、慌ててサマーセーターの袖で拭った。教室はよそよそしかった。
コースケと遊ばなくなってからしばらくたったある日、私は河野くんに呼び出された。廊下の窓から見る空は橙色に澄んで遠く、秋が始まろうとしていた。私の格好も半袖から長袖のシャツになり、上着を羽織るようになっていた。人気の少ない側の校舎の三階の踊り場に、河野くんはいた。夕焼け空を背景にした彼はどこか、神秘的な雰囲気をまとっていた。
「河野くん」
「朝山、来てくれたのか」
「うん? そりゃあ呼ばれたら行くよ―。それで、何の話?」
ユニフォーム姿の河野くんは呆れたような顔をした。そしてなぜか私の腕をぐっとつかんで引き寄せた。私はこらえきれずにたたらを踏んで彼の胸に寄り掛かった。
「河野くん!?」
「朝山! 聞いてくれ」
私は夏服を通して脈動する熱い筋肉を感じていた。熱い胸板は私をすっぽりと覆ってしまい、私はその熱とむせ返るような匂いにくらくらしてしまった。河野くんはハッと我に返ったように私の身体を離した。
彼は私の眼をまっすぐに見つめてきた。茶色い瞳に私の姿が映るのを、私はどこか夢見心地にみる。
「朝山、俺と付き合ってくれ」
私が河野くんをしっかり見ようとすると河野くんも私をじっと見る。たまらなくなって目を反らした。急に頬が赤くなるのを感じた。
「そんなこと思ってたなんて知らなかった」
「誰にも言わなかったから」
そういって河野くんは寂しげに目をそらす。
「朝山は本田のことが好きなんだと思ってたし」
「そんなこと、ないよ」
河野くんもそんなこと言うんだ。私はなぜだか悲しくて、寂しくて、無性に腹が立った。
河野くんは優しい瞳をしていた。その瞳に吸い込まれたくなくて、私はわざとそっぽを向いたままでいた。気まずい沈黙の帳がおりた。私は何か答えようとして、それでも何も答える資格がないような気がして、答えられずにいた。河野くんは、優しく黙っていた。私は何と答えればいいんだろう。河野くんのことは嫌いじゃない。だけど、突然告白なんてされると、困ってしまう。私はようよう決心して、彼の瞳と向き合った。彼の瞳は夕焼けの赤い光を映して、暖かな光をたたえていた。
「河野くん」
「なに」
「ごめん、私はあなたと付き合えない」
「それは、本田のことが好きだからなの」
「違う。あいつは関係ない」
「じゃあ、なんで」
「私、そういうの興味ないから。ごめん」
「そうか、そうだよな。なんか、わり、ははは、いや良いんだ、気にしなくて」
私は、河野くんが嫌いじゃなかった。優しいし、顔も悪くないし、スポーツもできるし。でも、女子に告白する彼はどこか卑屈で、強引で、そしていつもの潔癖さに欠けていているように思えて変に悲しかった。
河野くんはそれきり黙ってしまった。私も言う言葉がなくて黙っていた。窓の外から弱弱しい蝉の声が校舎に流れ込んでくる。私たちはしばらく立ち尽くしたままだった。
後期の中間試験が終わると、試験休みが待っている。世間もシルバーウィークと言って、なにやら華やかな、それでいて弛緩した空気に包まれていた。
私は学校が終わるとすぐに自転車に飛び乗った。そのころにはもう公園へ足が向くこともなくなってしまっていた。まっすぐ家に戻ると、ちょうど父が帰ってきたところだった。父と一緒に野球中継の話をしながら玄関をくぐると、いい匂いがしてくる。私は先刻の嫌な気分が少しだけ風に乗って吹き攫われてしまったように思えた。
ご飯を食べて風呂に入ると、ようやく人心地がつけた。頭が空っぽになると、今日の出来事が甦ってくる。河野くんは必死だったんだろうな。今になってそう思えた。私はひどい女だろうか。彼を傷つけてしまっただろうか。今更ながらもうすこし言い方があったのではないかと自分で思う。ひょっとしたら彼の見せた生臭さというか下心のようなものは誰もが持っているもので批判するのはお門違いのものなのかもしれない。それでも私は彼の発した蟲が肌の下で蠢くような人間の生の匂いに耐えられなかったのだ。
ざぶんと頭まで湯船につかる。
ふと、おばあちゃんの言葉を思い出す。
「真、自分の思った道を行きなさい」
私はおばあちゃんの言葉に勇気づけられた。コースケとの勝負も後悔してない。彼はどうだろう。河野くんも誰かに勇気づけられたりしたんだろうか。
でも、河野くんの瞳は澄んでいたな。そう思うと、なんだか自分が取り返しのつかないことをしたようで、胸が苦しく、とんでもないことをしでかした時のような焦燥感にも似た感情で胸がいっぱいになる。考えれば、私はいつもコースケとの関係ばかり気にしてきた。いや、依存してきたとも言っていいくらいだ。コースケとばかり遊んで、周りを下にみてそれでコースケとの関係性の中だけに自分を見出してきたんだ。コースケ以外と最初から心を開こうとしなかった。誰も入れない代わりにどこにも入れなかった。だから私は病的なまでに外の世界に対して潔癖になってしまったのかもしれない。河野くんは私にとって外の世界の象徴だった。私は河野くんに外の世界を映し見ていたのだ。だから河野くんに告白されたとき、あれほど激しく拒否感がおきて、あんなに冷たい態度をとってしまったんだ。
まだ間に合うだろうか。私に外の世界を教えてくれた河野くんに会ってお礼を言わなきゃ。そして外の世界へ出てみよう。知らない場所に身を置くのは怖いけれど、それをしなければ私は前に進めない。
気が付くと私はゆでだこのようになっていて、慌ててお風呂から上がった。
その日、私はよく眠れなかった。
あくる日、私は河野君を呼びだした。人がいない側の校舎の踊り場。河野くんは静かにやってきた。河野くんは、私のところまで来ると、なに、と聞いた。その声は優しかった。
私はその声に背中を押されて、頭を下げた。
「昨日はごめんなさい」
河野くんが慌てるのが気配で分かった。
「何言ってるんだよ。お前はただ、その、こ、告白を断っただけで、ただ」
「そうじゃないんだ。私、気付いてなかったの。私はコースケとの関係に甘えてるだけで狭い世界に閉じこもってた。河野くんは私にそれを気付かせてくれた。なのに私は河野くんを傷つけちゃった。だから謝りたいの」
「朝山……」
「私は河野くんを傷つけてしまったけど、あなたは私に外の世界を教えてくれた。だから、今度はお礼を言いたい」
秋の空を映した瞳に向かって、私は囁いた。
「ありがとう、河野くん」
秋の朝は憂鬱だ。空は曇っていてどんよりした雲が、切れ目なく空を覆っている。教室もなんだかしんみりとした雰囲気を漂わせている。私はそこに心持胸を張るようにして入っていった。
「おっはよー!」
教室のあちらこちらに固まる小集団に挨拶していく。みんなぽかんと口を開けていた。周囲の視線を浴びて少し頬が熱い。気恥ずかしさに、心がくじけそうになる。それでもひとしきり、声をかけてから自分の席に着く。背中にコースケの驚いたような視線を感じたけれど、振り向かなかった。これでいいんだ。私は今まであまりにも閉じた世界に安住しすぎていた。私のコースケへの感情は友情でも愛情でもなかった。ただの依存だった。これから私は安住の地を捨て歩き出さなければならない。外の、広くて汚くて、そして少しだけ美しい世界に。それが、私の成長だ。