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【長月 悠】
俺はこの日、朝から厨房にいた。
目の前には鍋がある。店で使うような大きな鍋ではなく、一人用の小さな鍋。
その中では、茶色い液体が複数の具材と一緒に煮込まれている。
もちろんカレー。
昨日何もできなかった俺は焦っていた。
匠と約束した、新しい具材もさることながら、自分の作るカレーの味に納得がいかない。
朝から何時間も作り続けているのはこういうわけだ。
作ったカレーは一口味見し、残りをタッパーに詰める。こんな作業を何度しただろうか。
(しばらくは食卓がカレー一食だな………)
そんなことを思いながら鍋をかき回す。
時折泡を浮かべ沸騰する鍋の中ではジャガイモ、人参、玉ねぎ、牛肉といったいたってオーソドックスな具材が踊っていた。
ジャガイモは煮込まれることによって角が取れ、丸くなってきているし、牛肉や玉ねぎには十分に味が染み込んだように見える。
「もうちょい、かな………」
カレーは煮込みすぎてもいけないのだ。
水分が飛んで味が濃くなったり、肉は加熱しすぎると硬くなる。更にはじゃがいもが消失する危険などもあるため、ほどほどで火を止め、余熱で煮込む。
ここぞというタイミングで火を止め、カレーを小皿によそうと、口をつける。
「違うなぁ……」
このカレーも、自分の作りたいものではなかった。
カレーをタッパーに詰めると鍋を洗う。
「次は玉ねぎを刻んでみるか……」
俺は額の汗を拭い、再び鍋と向き合う。
ふたりが来る午後までが勝負なのだ。
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【神無 匠】
俺は悩んでいた。
昨日、水月に言ったことは、後悔してない。
俺は、宇佐木が好きだから。
そう、問題は宇佐木のことなのだ。
カレーに入れる具材がどうしても思いつかない。
「うっぐぅぅ!」
何度目かわからない呻き声を上げる。
(なんだ?宇佐木は何が好きなんだ?)
考えてもわからないことが堂々巡り。
一瞬だけ俺の部屋を覗いてきた母が言った一言は
「あんた、病院沙汰にはならないでおくれよ…?」
母よ、そんなに恋に悩む息子が心配ならおいしいカレーの具材でも教えてくれ。
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【霜月 純斗】
今日も一人、本を開いていた。
先日図書館で借りた「スパイスとはなんぞや」題名こそふざけているが、内容はなかなか……
スーパーや輸入ショップで売っているような基本的なスパイスの料理における役回りや、正しい使い方など、図を用いてわかりやすく書かれている。
「なるほど…香りはクミンやカルダモン、色はターメリック、辛味はチリーペッパー……それぞれ役回りがあるのか……」
これなら自分で調合できそうだ……などと考えていると
---ピンポーン…
玄関のチャイムが鳴った。
俺が玄関を開けると、そこに立っていたのは昨日の少女だった。
「えっと…えっと…!公園にいたおばちゃんにおうちを教えてもらいました!おれいをいいにきました!」
おそらくは準備してきた言葉なのだろう。
少女は時折つかえながらもそう言った。
「昨日は猫ちゃんを守ってくれてありがとう!これお兄ちゃんにあげる!」
少女が差し出したのは小さなキーホルダー。
カラフルな留め紐の先には手作りの猫の人形がついていた。
「お母さんと一緒に作ったの!これはしーちゃんなんだよ!」
少女はキーホルダーの先についている猫を指差す。
確かにその猫は昨日見た猫に似ていなくもなかった。
「………ありがとう。しーちゃんもきっと喜んでる」
俺は少女の頭をぎこちなく撫でる。どうも小さい子を可愛がるのは苦手だ。
「うん!しーちゃんは天国で元気だもんね!じゃあ私おうちかえる!」
少女は来た時と同じく、突然帰っていた。
俺は手のひらに乗ったキーホルダーをつまむと、スマートフォンへとつけた。
ガラじゃないなんて言われるかもしれないが、関係ない。
俺は、俺なのだから。
俺は財布とスマホをポケットに入れると、自転車にまたがった。
走りなれた街中、輸入ショップはどこにあったかな、と考えながらペダルを踏み込む。
ポケットからでた猫のキーホルダーが風に煽られ小さく揺れていた。




