水もしたたるイイ男 ※ただし生臭い。
ああ、ヤダ。
「……佐奈?」
爽やかと形容するに相応しい黒眸を丸めて呟く青年。
地味だが、趣味の良い浴衣を着た立ち姿を見て、わたしは思わず顔を逸らした。
「その人、だれ?」
問われて、わたしは慌ててしまう。ロッドへの突っ込みはいくらでも浮かぶのに、この人に対する言葉が全く見つからないのだ。
「新しい彼氏ですが、なにか?」
苦し紛れに出てきた言葉。
わたしは精一杯誤魔化そうと、ロッドの腕に自慢げに飛びついてやった。
ロッドはなにか言いたそうに口を開いたが、わたしはそれを遮るように言葉を続ける。
「いいじゃない。そっちだって、楽しそうだし」
元カレ――佐久間博也は気まずそうに、連れていた女の子を見た。
同じ大学の人かな?
清楚な黒髪と朝顔の浴衣がよく似合う、大人しそうな人だった。博也が好みそうなタイプで、昨日までわたしが演じようとしていたタイプ。
昨日、わたしと別れたくせにもう祭りに誘っているのか。
そんな博也への呆れと怒りを露わにしないよう、わたしはロッドの手を引く。
「あのさ、佐奈」
「別にいいじゃない。好きな人と一緒にいれば。そうしたいから、別れたんじゃないの?」
ここから一秒でも早く去ってしまいたい。わたしはロッドを引きずるように、大股で踏み出した。
「ごめん、佐奈」
背中ではっきりと、聞きたくもない言葉が投げられる。
わたしが聞きたいのは、そんな言葉じゃないのに。
「あれはサナのカレシか?」
「正確には過去形。元カレ」
ロッドの問いに苛々と答えながら、わたしは先を急ぐ。
そろそろ、委員長と約束した時間も近い。このまま、イベントステージに向かってしまってもいいかもしれない。
「この世界の恋人は、女を平気で泣かせるものなのか?」
言われて、初めてわたしは自分の頬に流れる涙の存在に気づいた。
別れを告げられたときですら流れなかったのに、どうして今更? わけがわからなくて、急いでハンカチを取り出す。
せっかく施した化粧も台無しだ。手鏡を覗き込むと、案の定、涙でボロボロに崩れた顔が映り込んでいた。
大学生の彼氏と釣り合うように背伸びして、一生懸命勉強したナチュラルなアイメイク。
博也が好きだと言うから、髪も染めずに美容室で縮毛矯正をかけてもらった。
服だって、本当はズボンやサロペットの方が好みだけど、がんばって短い丈のスカートを穿いた。
今まで作りあげてきた自分が化粧と一緒に馬鹿みたいに崩れていく気がして、なんだか余計に涙が止まらなくなる。
「サナ」
「ほっといて! 今、酷い顔してる。見ないで」
ロッドがわたしの肩に手を置く。
けれども、わたしはその手を煩わしく振り払う。
事情を知らないくせに、気休めの慰めなんて欲しくない。そんなもの、虚しくなるだけだ。
こんな顔で、イベントステージになど行けない。もう逃げだしてしまいたかった。
「ちょっと、お兄ちゃん。そんなことしちゃダメだよ!」
楽しそうな祭りの風景と、賑やかな声。ほど近いところで、小学生の兄妹が戯れていた。
兄らしき少年が金魚すくいの袋を振り回している。その隣で、妹らしい少女が困った表情を浮かべていた。
遠心力のおかげで金魚の水がこぼれることはないが、ビニール製の紐が伸びきってしまっている。あれでは、そのうち切れてしまうかもしれない。
「あ!」
そう思っていた矢先に、少年が持っていた金魚の紐が切れ、袋がぽ~んと勢いよく宙に舞った。
遅れて、すぐ近くでベシャッと爆ぜる音がする。
見上げると、……お約束というか、案の定というか、なんでそういうポイントばかり心得ているのかわからないけど、金魚の袋はロッドの頭にクリティカルヒットしていた。
頭のてっぺんで赤い金魚がピチピチと跳ねるなんて、滅多なことがないとあり得ないと思うんですが。
このイケメンさんは本当に、頭の上に何かを乗せるのが好きらしい。
「大丈夫?」
一応聞くと、ロッドは頭で跳ねる金魚をつかんで「赤い魚が降ってきたぞ! なんだ、これは。魔物の子供か?」とか叫んでいる。
通常運転ですね、わかります。
その様子に、わたしは思わず笑みを噴き出してしまう。
「お兄さん、ごめんなさい!」
ふざけていた小学生が駆け寄り、平謝りする。
「大したことはない。これが魔物の体液であったら危ないが、幸い、普通の水だからな」
「そんな意味不明なもの、お祭りの金魚に使わないから」
わたしは呆れながら、子供たちに「大丈夫だからね」と言ってその場を後にした。親でも呼ばれて、なんだか面倒になっても困る。
わたしは、頭から金魚臭い水を被ってしまったロッドにハンカチを手渡した。
ロッドは濡れた顔を拭ったが、毛先から水がしたたるハニーブロンドや、しっとりとした服はそのままだ。
濡れた髪を掻きあげると、切れ長の視線をわたしに向ける。
麺もしたたるイイ男、ではなく、正真正銘の水もしたたるイイ男っぷりを見せつけられて、なんだか別の意味で気まずくなる。
ちょっと生臭いけど。
「やっと泣き止んだか」
「え?」
指摘され、いつの間にか涙が止まっていたことに気づく。
「私の世界では、恋人を泣かせるようなことは絶対しない。泣かせてしまうのは、その男の力が及ばぬ証拠だ」
いや、単に金魚がロッドの頭にヒットしたせいで、それどころじゃなくなっただけだと思うんだけど。
と、突っ込もうとしたが、何故か言葉が出なかった。
暗くなり、吊り下げられた提灯に灯った淡い光。
それに照らされるロッドの青い瞳が橙の光を照り返す。
水に濡れた髪が白い肌に貼りつき、彼の表情をいっそう煽情的で艶やかに魅せている気がした。
吸い込まれそうな視線に魅入られて、わたしはぼんやりと立ち尽くしてしまう。
「さあ、行くぞ。イーンチョ殿との約束に遅れるのではないか?」
言われて、わたしはハッと我に返る。
もうイベントステージに行かなくてはならない。
「でも……わたし」
先ほど泣いてしまったせいで、化粧が崩れて顔が酷いことになってしまっている。
「酷い顔なのは、私もおそろいだろう?」
「いや、アンタのそれは逆にカッコイイから。金魚臭いけど」
わたしの想いも知らず、ロッドはおもむろに手を引いた。
「私の世界では、約束を違える者は報いを受ける。だが、約束を守ろうとする者は、なによりも尊いとされている。なにかを守り、正直に在れる者は美しいと、私は思うぞ」
正直に在る、か。
わたしは視線を下げ、唇をかんだ。
手鏡を覗き込むと、すっかりと化粧の剥がれた自分が映っていた。
わたしはロッドから返された金魚臭いハンカチでゴシゴシと顔を擦り、中途半端に残っていたシャドウとマスカラを目立たなくする。
「ごめん、行こうか」