piece3-2*【炎熱界】
火焔の破壊で鎧形態から籠手の状態を維持するしかなくなった。
至近距離で攻撃を受けたからか、アイリスの体は温度の低い炎心に在り、それで死なずに済んだ。衣服を犠牲にすることで首元と右肩の火傷だけで済んだが、そうしていなければ全身に重度の火傷を負っていただろう。
(火系魔術を得意とする相手なら、敵ではないと侮っていた……)
アイリスが身を潜めたのは廃墟となったマンションで、傷を癒しながら外の様子を窺っていた。
(熱を基礎にして炎に応用し、攻撃している。 かつ自分の回りは熱の操作で常に常温に保っているんだ、つまりあいつの体にはそこまで熱への耐性はない。 至近距離に詰めれば炎熱の操作はより精密性が要求される、きっと私に分があるはず。)
「オイオイッ、尻尾巻いて逃げちまったのかァ!? 仲間を殺しちまうぜ!」
外からリリィの声が響く。そう、マンションの外ではアイリスの仲間二人がリリィと戦闘している。休んでいる暇などない。
(あの女……、この辺りの気温が上がってきている──)
リリィの炎熱のせいだろう、気温は40℃にもなろうとしている。常識的な6月の気温ではない。外は日も落ちて暗く、しかしリリィの火炎が辺りだけを真っ赤に照らしている。
「ハッ、建物ごと火葬しちまうぞ!!」
(敵の分析ができるくらいには、私の精神も安定しているみたいね……)
アイリスは天井を仰いで、自嘲気味な笑いを浮かべる。
(仲間を3人も失った──もうこれ以上失うわけにはいかない)
魔術機関は滅びなければならない、世界の古い錆び付いた機関なのだから。何より、彼女の全てを焼き払ったのが機関だ。
「テメェらの大将は泣き寝入りしてるみたいだな」
やれやれ、とリリィは自分を挟む様にして両脇に立つ女たちを交互に見た。
「だいたい、女だらけでよく私らを殺そうなんて考えたな、機関の暗殺役の私らをさ」
「そうやって虐殺ばかりするお前たちが許せないんだよっ!」
「ハ、テメェらがやってることも立派な殺しだろうがよ」
「違う、私たちは大衆の正義のために悪を討つのだっ!」
「あぁそうか、なら争う必要はなかったみたいだな。 私も平和のために殺しているのさ」
「違う! 街や村、罪のない人々の命を奪うことのどこが平和なんだ!!」
「必要悪というやつさ」
「どこが、……」
「ハ、人殺しに正義も何もねェんだよ、そうやって──」
リリィが跳躍して距離を取る。同時に女二人もさらに意識をリリィに向けた。
リリィの周りから熱が生まれ、収束する────。
「──殺しを正当化しようと必死になっている様はまるで、殺人犯だな!」
「なにを、──黙れッ、」
中空から炎がうねりながら女へ向かう。女は右腕の裾を捲り上げ、腕に印された魔術式に魔力を注ぐ。
『聖霊よ、我が肉を依代とし、降臨したまえ── Advent!!』
後退しながら炎を躱し、次いで──。
「チィッ、召喚魔術なんて使えやがったのか」
女の右腕が光を放って姿を変える。右腕は体を離れ、女の前に白い巨大なモノが現れた。人形を成すその頭上には光る純白の輪、背には翼の如く広がる白い扇。全身白色のそれは人と言うよりは物質的で、ロボットよりは生身という不気味な印象を与える。
「天使、それは神の使い、そしてお前たち機関を裁くものだ──」
天使が腕を上げ、炎へと降り下ろす。炎は打たれ、薙ぎ払われ、消滅する。
「ふざけた神様だな、そりゃ……」
リリィは眼鏡を外し、黒い手袋を外して新しいものに付け替えた。
──空気の震動と共に、目の前に居た巨大天使が頭上に移動して尖った拳を振り上げる。
「メリエル!」
右腕を失った女が、二刀使いの女に攻撃の合図を送る。
『■■■■──』
続けて詠唱し、言葉は魔術を起動させてリリィの周りに水流を発生させるが、それは一瞬の内に蒸気となった。
「チッ──」
天使の拳が蒸気を貫き、蒸気は拡散する。白煙からリリィは飛び退いて拳を躱すが、そこへ二刀使いの女がすかさず刀を構え、斬りにかかった。
「ッッッ、!?────」
リリィは左側へ炎を放射しながら右側へ体をひねる。炎は攻撃力ではなく推進力を重視したもので、リリィは初撃を躱した。女とリリィは向かい合う──。
「ン、──アァァァッッ!!!!」
女は咆哮しながら振りきった刀の刃を再びリリィに向ける。
「メリエル、退いて!!」
仲間の声も届かない。彼女の何もかもを奪った機関への復讐心だけが、今彼女を動かしていた。女の目の前が光に包まれる。
「くだらねェ、」
「ン゛あ゛ッーーー」
熱と炎が閃光となって女の脇腹を貫いた。衝撃と熱風が女を仰け反らせ、そして女は地に伏した。
「き、さまァ──!!」
「手加減はしてるつもりだぜ?」
天使の腕が地面を抉りながらリリィへと矛先を走らせる。
『De la misma manera !』
ボコッボコッと、リリィの周囲に水が湧き水流を生んだ。しかし、また蒸気となって水流は失われる。
「!?……はなっから目眩ましが狙いか」
威力より量、多量の水は蒸気となり、天使が抉り巻き上げた砂塵と共にリリィの視界を遮った。
「ハッ、視界なんか関係無ェ……最大熱量をぶちまければ────な、んだ!?」
リリィの体を何かが拘束する。女も、巨大天使も、攻撃してこない……ただ、きつく何かが体を締め付けるだけ。
「鎖? ……まさか」
「エルダ、メリエルの傷を!! 貴女が死んだら誰もあんな傷を癒せない!」
「アイリス……」
砂塵と蒸気が散り、リリィの体を拘束する鎖の先にアイリスが立っているのが見えた。
「エヴァンズ、貴女は私が殺すわ」
「しつこい女だな……」
アイリスの左腕の先から、腕の太さ位の鎖が伸びてリリィへと繋がっている。
「エルダ、どう?」
血の泡を吐きながら、まだ炎の点いている傷口を押さえているメリエルの側に天使とエルダが寄り添っている。
「まだ、なんとかなる……」
「絶対に死なせないで、テーゼとニコルも回収しておいて」
「死体収集がご趣味とは恐れ入るね」
「黙りなさい、その減らず口が貴女の死に様をより無惨なものにするのよ」
「ハハ、このまま私を嬲る気かよ」
リリィは手首から先で鎖を手繰り寄せ、熱を注ぐ。
「ッ、!?」
パキリ、とリリィは鎖をへし折った。
「私が操れる熱量はまだまだこんなもんじゃない──」
鎖をほどいて腰から何かを取り出した。警戒からかアイリスは鎖を籠手へと引き戻し、顔を鋼鉄で包む。
「試験管?」
リリィは試験管三本の栓を引き抜き、中身を振り出した。瞬間に、中に入っていた液体は気化して空気に溶け込んでいく────。
「熱素、とは厳密には違うが、多量の灼熱を精製するものだ。 二人の奇跡使いと五人の魔術師、一人の科学者が生み出した──」
「架空物質……やはり」
「そう…… その一つさ、こいつは」
「その戦い方、まるで焔の魔術師ね」
「ハ、あぁ、あの辛気臭いオヤジは私の師でもある」
「そう……それは愉快ね」
アイリスは駆け出した。両の掌から鎧を伸ばし、剣を形作る。
「そんなこともできんのかよっ」
二本の剣は投擲され、だがリリィは剣が自身を貫く前に灼熱によって融かし切る。
(本当に、温度は上がっている様ね……)
辺りはもう薄暗い、お互いの視界は目眩ましなどしなくても闇が遮っていた。煌々と燃えるリリィの周囲と、治癒をしている天使の周りだけが明るい。異常な熱量が空気を歪ませ、地面や建物を焦げ付かせていた。
「その鎧を、もう一度剥がしてやるよ!」
「炎は私には利かない──」
空気が沸き立つ──温度が急上昇して熱がアイリスに放射される。
「なんて、温度」
鎧は黒ずんでひび割れていく。
「ハ、的だな──」
リリィの右手が赤く光り、刹那、掌に集まった炎と熱の光線が放たれた。
「脱皮!?」
黒く固まった鎧の下に新たに鎧を形成して、アイリスは光線の軌道から逃れる。
「く、らえ、──」
もう一度、熱を収束して放つ。
アイリスが完全に鎧を脱ぎ捨てる前に。
「ン────」
熱光線が命中し、鎧が赤熱する。鎧が溶け出して半身から熔解した鎧が流れ出る。だが、光線はアイリスを貫いてはいない。熔解した部位は鎧から切り離され流れ落ちたのだ。
「熱を、逃がしやがった、のか──クソッ」
溶かしきれないだけの量まで質量を増加させればいい。
(これで、熱を殺しきる方法もできた。 もうあいつの攻撃は完全に通用しない──)
「貴女の炎では、私は殺せない」
「く──」
リリィは炎を放つ、次々に千数百度という火焔を生んではがむしゃらにアイリスへ目がけて放つ。
アイリスはワイヤーを伸ばしてビルや建物に仕掛けて飛んで炎を躱す。巨大な炎の渦はその鎧で破壊し、リリィを挑発する。状況は均衡に落ち着いただけ、だが確実にリリィの方が分が悪い、それは変わらない。
「ハ、クソが……スパイダーマンごっこなんか始めやがってクソ──」
(同じ、けれど次に決めるのは私、──)
アイリスが剣を、創り投擲する。
「燃えろォ!!」
剣を融解し、それでもアイリスを追う炎は止めない。
「なめんじゃねェ、」
両手から周囲の熱を収束して光線を放つ。
「────!!」
両肩を掠めながら熱を逃がしてアイリスがリリィへ接近し、刃の腕を頸動脈めがけて降り下ろす。
「ァァァァァッ、」
リリィは残りの熱で熱波を放ち衝撃でアイリスを離す。
「しまっ────」
刃は灰となって消えるが、アイリスの狙いは違った。
(熱生成が追いつかない──)
空中で回転してリリィの後方に降り立つ。その一瞬に、アイリスの左腕から出されたワイヤーがリリィの右腕を捉え、二の腕から下を切断した。
「ぬ゛■■※■※※※ァ゛ァァァッッーーーー!!!!!」
リリィが叫喚して、膝を着く。
「ハッ、ああぁ……」
熱さが傷口を覆って、何千何万何億もの痛みが腕を襲う。
傷口から流れる血が、地面を赤く染めていく。
意識が、視界が霞んで、朦朧とする。
だが、それらを怒りが吹き飛ばす。
「────ッ、」
腕を、切断されたことに対してか、敗北を意識した自分に対してか、リリィの怒りが彼女の生を突き動かした。
「Goddam !!」
そう叫びながら立ち上がる。そこへアイリスが間髪入れずに仕掛ける。
「レーザーは周囲から熱を集める、だからその後は貴女の周りに熱は無い!」
右腕の籠手が変形して刃を成す。リリィの背中へ一気に刃を突き立てる。
「なあ゛っ゛──」
しかし、突如リリィを守る様に業火がリリィを包み、アイリスの右手は焼き切られる。直ぐに距離を取って右手をかばう。
「Soot ! damn you !!」
怒りを叫びながら、リリィが振り返りアイリスと対峙する。
アイリスの右手の指数本が骨まで焼け焦げ、剥き出しになっていた。
「ううっ……籠手ごと、焼かれた!?……」
「ハッ、クソが、……私の腕を、」
二の腕から下が綺麗に切断され、ただ骨だけは歪に斬れていた。
(さっきまでより熱量が上がっている!? ……溶かされたのは収束された熱光線くらいだったのに、あの一瞬の炎で3000℃以上!?……)
リリィの周囲を彼女自身から出る炎が包んでいる。
(何故、彼女は炎の影響を受けないでいるの?──)
リリィがアイリスを左手を構えて睨む。アイリスの周りの温度が上昇して、炎が吹き出てアイリスを襲う。直ぐ様、横に飛び退いて躱すが、炎が後を追うように次々に中空から吹き出てアイリスを狙う。
(やはり手で大半を操作してる──)
魔術師が魔術を遠隔操作する際に用いるのは主に、手で示すか、発音、視線、意思や思考、文字などの方法がある。
リリィは手先で熱や火炎を操るタイプ。右腕の切断は魔術の精密な操作を損なわせるため。もちろんそれでリリィが死へ至れば戦闘は終了したが、逆に彼女の魔術のセーブを解いてしまったのだろうか。
「ハッ、逃げ回りやがって……」
炎が吹き出てアイリスへ向かう。籠手で炎を御しきるが、衝撃に後退させられる。
(温度が上昇してる……常に炎を破壊していなければ──仲間は耐えられない、場所を離すしか……)
アイリスは背を向けて、大橋の方へ移動する。
「逃げるなよ……テメェはぶち殺す、くっ」
腕を失ったからか、上手く足を運べない。それでもリリィはアイリスを追って橋に入る。途中で自分の右腕を拾い上げて、左手で右手首を持ってズルズルと追っていく。
「燃えろよ、」
(うまくいった──、でもさっきは周りの熱量が失われていたから上手く鉄で斬れたけど、もうそんな好機は来ないか、今は常に炎が覆っている)
まるでリリィの体が火種となっているかのように、体が炎を纏って燃えている。しかしリリィにはその炎のダメージが無いようで、しかも衣服などにも炎の影響はない。
「ハッ、……」
(なんて熱量なの……これ以上は破壊しきれない)
この炎熱はアイリスだけをその効果の対象としている。だからリリィも、リリィが立っている場所も影響はない。だがアイリスへは一千度を超える熱量が常に襲い、アイリスの周りの大気も熱され、立っている橋も赤熱している。
「火葬して、灰はそこの海に捨ててやるよ……ハハッ…………」
(寒い……熱を破壊し過ぎてる──)
「我が肉と魂を喰らえ、契りを交わした化物よ。 炎熱界、私の声を聞き入れな……勝手に出てきて、私を守るくらいならな」
(呪文を唱えてる!? させない──)
アイリスが前に跳ぶ。右指を鉄で補って、掌に刃を形勢する。
『Intense heat Kingdom』
リリィは口を歪ませて、右腕を空中、アイリスの目前へと放り投げた。
「あ゛ぅ──っ」
投げられた腕は餌。
顔の様な貌をした炎が、餌を喰う様に大口を開けてリリィとアイリスの間に現れた。その熱量に危険を感じてアイリスはワイヤーを後方に放って地に着け、今度はワイヤーを腕に巻き取る様にして自分を地面へ引っ張った。
それは悪魔。
炎熱の原初。
その平常時の最高温度は百万度。
腕を飲み込んだ炎の顔は上空に昇る。後に現れた炎の体と腕をみて、それがうつ伏せで首を伸ばした状態から体を起こした動作だったのだと気付く。
個体でもなく、気体でもない。もちろん液体ではない。気液か液晶なのか、それは確かに巨大な人形の炎。
「使い魔? そんな情報は……」
はっきりと見える上半身はリリィを覆う炎から出現している様にも見える。リリィの周りは6000℃にまで達していた。
「右ぃ、ストレぇぇぇート!!」
大気を叩く轟音がして、巨大な炎の塊が自分に接近しているのだと気付いた。
(────゛)
その炎、右拳はアイリスを殴り飛ばす。
アイリスは両腕から何本ものワイヤーで編み込まれた紐を数本飛ばして橋と自分を繋ぎ止め様とするが、万度の高温はすぐにそれらを溶かす。鎧と体を焼かれながら、アイリスは空中に投げ出された。
「────」
視界の端に捉えたリリィは橋の上に倒れていた。
炎の巨人は両拳を組んでアイリスに叩き付け、そのままアイリスは高熱に蒸発させられながら海へ落ちる。
もう何も無い。復讐への後悔が精神をも焼いていた。アイリスは海に沈む中、はじめて空が積乱雲で覆われていた事を知った。
炎は叫びながら消失し、後には雨粒が降るだけだった。
◇
「リリィ!」
倒れているリリィの姿を見つけて、雨に打たれながらクリフは駆け寄った。
「ッ、…………」
右腕が無い。
それを見て、クリフは未来の夢を思い出す。ボロボロのリリィの姿を。
「あの女は始末したのか?」
返答はないと思いながらリリィに問いかけ抱き寄せる。生きているか、と聞きたいはずだった。体は冷たく、意識は無い。そして周りを見渡して敵の気配が無いことを確認した。
(治療が必要か、一旦どこかへ……)
リリィを抱えてクリフは戦闘の跡の残る橋を去り、戦闘の始まった旧市街へ入っていく。黒くひび割れた辺りを見ながら、敵の気配が無いかを確認する。
(全員始末したのか、何人か居たはずだが……こいつは敵の思惑通りに動かされる時があるが、……)
周りを警戒しながらクリフは今は誰も居ない集合団地に入り、何階か上がって廊下の隅にリリィを下ろした。そこは夢と同じ暗く冷たい場所。
(人が居るのはもう少し先の区画のはず、一応人避けを使っておくか?)
「リリィ、まだ死ぬな……」
床に楕円を描いてその中にリリィを寝かせる。右腕に手をかざし、魔力が発光して術を成す。
「傷を癒して、血圧を上げるしかないな」
リリィの右腕の傷がふさがっていき、顔色が明るくなる。
「ぅ……」
「リリィ!」
「すまねェ、クリフ……」
「あぁ、あいつを出したんだな?」
「そうさ、殺してやったぜあのクソを」
目は閉じたまま、弱々しくゆっくりとリリィは言葉を紡ぐ。
「あの時も……出さなかったのではなく、出せなかったはずだろう?」
「さあな、あのじゃじゃ馬の気持ちなんか知ったことかよ……」
「そうか……腕は、どうする──」
「ハ、片腕無くしちまったな、ちきしょう……ぅ」
横目で自分の腕を見ながら、リリィは震えていた。誰だって、身体をなくせばその姿に恐怖し、怯えるものだ。
「とりあえず、義肢を寄越してもらうさ」
「そうか、……敵はどうした」
「……あの女以外は多分まだ生きてる、医療魔術師が一人いたからな……」
「わかった、他を寄越す。 俺は生死を確認して他を始末してくる」
「……頼んだぜ」
「リリィ……、今お前を支配しているのは痛みでも恐怖でも、孤独でもない────熱だ」
「ハハ、ありがとよクリフ」
医療魔術を施したままクリフはリリィを残して団地から出た。
「────あんたは今何をやってる」
「──、日本の一派で良い、機関の人間を何人が頼む」
「あぁ、リリィを回収してくれ────? 使い魔? 出したみたいだが」
「あんたもさっさと動いてくれ、事は裏じゃ収まりきらない」
耳から端末を外して、クリフは橋の高欄に立って海を覗き込んだ。
◇
籠手の炎の破壊速度を遥かに上回り、自らを侵食していく炎熱。鎧は砕けて剥がれ落ち、皮膚と肉が炎に焼かれる。結局、この炎に死ぬのなら、あの時死んでいても同じではなかったのか。
「────」
左腕はまだ原形を留めていて、籠手が肉に絡み付いていた。
(この炎に──殺されはしないっ)
海にありったけで編み出したワイヤーを射出し、岩か海底にワイヤーを繋ぐ。
ジリジリと体が焼け焦げていく。
また上から炎塊が近づいてくる。それから逃げるため、アイリスは一気にワイヤーで自分を海に引き付ける。
(──これで……これで死体は残せる……見つからないだろうけど)
間一髪、アイリスは炎から逃げ果せた。
しかし生きた訳ではない。もう彼女は死の瀬戸際にいて、しかもそこへ進むしかないのだ。
海の水が身体を冷やすより先に、海水の塩が身体を痛める熱に冒される。
(あいつを殺せなかった……あの男の弟子も──これなら本当に、父と一緒に死んだ方が)
海に沈み行く中、彼女の頭は後悔でいっぱいだった。
髪も瞳も体も、焼かれて失われた。今尚、自分の魔力を喰う鉄塊。
「っ……」
何かが、海に入ったのが彼女に伝わる──。
(逃げ切れ、なかった……)
『アイリスっ!!』
「!?──っっ、エルダ」
仲間──、私を助けにきたのか。
正直、彼女達とは特別親交が深いという訳ではない。
今回の事に関して必要な人材を騎士団から集めたにすぎない。
私は騎士団の中では有名で、それで親しく接してくる者もいる。
『アイリス、貴女は生きるべき人よ』
右腕が消えて、天使が現れる。
(無駄よ、もう死んでいるのに……生きているのはこの意思だけ)
彼女に事前に施された術がなければ、アイリスの身体は人だと判別が付くほど形を留めていなかっただろう。
『私の命を、使って』
「っ!?──だ、」
(ダメよ、そんなこと)
アイリスは理解した。今から彼女が自分に何をするかを。どうやって自分を生かすかを。
『貴女は必要よ、聖騎士団にとっても、今の状況にも……きっとね』
彼女が苦しい顔をする。息がもう持たないのだろう。
『私は死に、貴女を生かすためにここにいる』
「え、るだ」
(ダメよ、絶対に……あなたの魔術は)
『生きて、機関の人間がこの世界から消えるまで──』
◇
高欄に立って海を覗く。周りを見渡して、旧市街の方に視線をやる。
「なんだ────」
海の底から突然光が溢れ、暗い辺りを照らし出す。
「あれは……」
海へ眼を向ける。光でよく見えないが、それでも海の中を観察する。何かの、頭部が海底に見えた。
(──人造魔像か? 人形の様に見えるが)
しかし、それは直ぐ様姿を消した。
「まさか、転移したのか──逃げ──」
海の底からワイヤーが出で、高欄にワイヤーが巻き付いて、そして海から何かを引き上げる。
「生きて、──馬鹿な」
アイリス。長いブロンドの髪を靡かせて、左腕に侵食する籠手が、白い肌に広がって鎧となる。
青緑の瞳が、クリフを睨む。それすら黒い何かが侵食して面を成す。髪は甲冑の飾りの様に後ろに流れ、重く鎧が弧を描くように跳躍し、地に降り立った。
「少し、待っていて」
肩に乗せていた女を橋の脇に降ろす。
彼女は死体だ。
「貴様、仲間の命を吸って生き長らえたのか」
「そうよ────貴方達を殺すためにね」
クリフが下へ直進し、上空から右足の踵落しを放つ。それをアイリスは両腕で受け止めた。
踵落しの勢いを反動にして、クリフは後ろ向きに飛んで地に手を着いて逆立ちのまま蹴りを放つ。
アイリスは右手で払い、続く連撃は左手でいなした。両の籠手を長い刃に変えて、踏み込んで凪ぎ払う。
クリフは後方に飛んでそれを回避した。
「ふッ────ん」
アイリスは二刀の刃を降りながら接近し、クリフは素手で躱しながら後退する。
「便利だ、な──!?」
一方の刃が伸び、紐となってクリフの足をすくった。そこへもう片方の刃でアイリスが攻撃する。
「くっ」
クリフの左手の指が何本か飛んだ。
(なんて切れ味……)
そのまま刃を戻して串刺そうとするが、クリフは左腕に刃をあえて刺し軌道を反らず。
(まだ、いける!!)
右手の刃を腕から切り離し、左腕のワイヤーを刃に変形してさらに踏み込み、下から腹へその刃を押し込む。
「──ッ、」
4㎝ほど刺さった時だった。
「な────!?」
何かが、アイリスの左腕と頭を掴み、後ろへ跳ね飛ばしてクリフから離す。
その瞬間に右腕からワイヤーを飛ばしてクリフの左腕を捉え距離は離されなかったが、何かが上に乗ったままアイリスを地面に押し倒した。
「俺の腕はそう簡単には斬らせない」
「がぁ゛゛」
見えない何かがアイリスの頭を押さえたまま、体を殴り付ける。
(な、に、人……これは人だわ)
クリフとのワイヤーを切断し、今度は馬乗りになっている何かを捕らえる様に両腕からワイヤーを放つ。
しかし、捕らえるまえにその何かはアイリスの上から跳び跳ねた。
「……」
クリフは腕のワイヤーを外して捨てている。
「貫通より、切断する方が治りは遅いようね」
「……」
アイリスは起き上がり、クリフと視線を交える。
クリフの傷は癒え、指もほぼ再生されていた。
(もう一人、何かいる……)
「怖いか? 見えないものは」
「う゛っ」
クリフの言葉の直後、アイリスは横から殴打され弾き飛ばされる。見えぬ何かによって。
雨に滑りながら体勢を立て直し、周囲の気配に気を配る。
「貴方の情報は、経歴くらいしか分からなかったから」
「他人に自分の経歴を探られるのは良い気分ではない」
「……、現場でもあまり術を使用していない貴方がこれほど驚異になるとは思っていなかったわ」
水溜まりの水面が動く──。アイリスは何かが近づいていると思い、横に跳躍して距離を取る。
「まぁ、魔術師相手ではあまり役にたたないのは確かだな。 俺は支援や事後処理担当でな」
「元軍人が魔術師に加担してるなんて、オカルト好きでも信じない話ね」
アイリスがクリフへ接近する。鎧では雨のせいであまり速度が出せない。
「──゛」
また、見えない何かがアイリスの行く手を遮る。
アイリスは二刀の剣で辺りを凪ぎ払うが、当たっている感触はない。
「……どうだろうな、その手の話を好む軍人もいる」
「そう、……軍人の父と、魔術師の母を持つ貴方は何をみて機関にいるの?」
「────」
「魔術をもって魔術を知らない人間を甚振るのはさぞ愉しかったでしょうね」
「──やはり他人に人生をみられるのは良い気分ではないな」
「ぁ゛」
背中に殴打を受ける。倒れ込む前に、姿勢を反転させ後ろへ蹴りを放つ。それは何かに簡単に受け止められ、押さえ込まれる。
「うぅ゛」
「見えないものに人は恐怖する」
「!!──」
月明かりが射した。ほんの数秒だったが確かに、見えない何かを月光は写し出した。
「そして、得体の知れぬものにも……人は恐怖する」
それは気味の悪いものだった。
気色の悪いものだった。
血走って飛び出そうな眼をして、かなり大柄な体付きをしていて、何か金具の様なものが口に付いている。きっとそれは本来口を閉じさせておくためのもので、なのにそれが外れている。身体中に鎖が巻かれていて、まるで拘束された狗だ。
月明かりが雲の移動によって動き、その鎖の先を照らし続ける。
「これ、は……」
鎖はクリフまで続いていた。月明かりで照らされたクリフの体にも、同じように鎖が巻かれている。二人は、繋がっているのだ。
「そいつは月に弱くてな、素顔を晒してしまう」
化け物を上に蹴り上げて、アイリスは拘束から脱した。
「使い魔?」
「……」
一気に距離を縮めた。
クリフが急速にアイリスへ接近し、右腕を打ち込む。
アイリスは両腕でガードしたが、それでもはるか後方へぶっ飛んだ。その先で、背後から殴打を受ける。
「がぁ゛゛」
使い魔だ。
「く、」
振り払って、アイリスは距離を取る。
(何か腕に──!?)
右腕の、鎧が、正確には右肩の鎧が朽ちて剥がれ落ちた。
「驚いている暇はない──」
もう目の前にはクリフがいて、蹴りを頭に受けていた。雨で滑って橋の端まで転がっていく。
(何かある、あの怪物には何か)
頭がはっきりとしない。視界がブレる。雨のお陰か、飛ばされた距離が長く、クリフが側へ来る頃にはそれは回復した。
「だッ、」
未だ横たわるアイリスの腹に蹴りが入り、体が空中に浮く。
瞬間に左腕から剣を形成しながら射出して、それはクリフに突き刺さる。それは銃から矢が出る様なもので、クリフは痛みに少し怯む。だが、そんな傷で彼は死なない。そしてアイリスへ見えないものがまた横から突っぱねて、しかし今度はアスファルトと土の地面であったためそこまで飛ばされはしなかった。
(あれには刃を全身から射出する──)
「────」
鎧を全力で殴るクリフの拳は血が出て骨が折れる度に修復された。
(鎧をもう一度、再形成する)
アイリスは先ほど両腕から剣を放つつもりだった。しかし右腕の籠手が反応しなかったのだ。
(よし──あの見えないもの……魔力を断ち切る類いの力を持ち合わせている……)
口に留め具があったから、恐らく噛まれることで魔術を断たれる。
(呪術系魔術師の子息なら、納得のいく仮説……なら、接近時に噛まれる前に串刺しにする──)
鎧は元に戻り、魔力も行き渡っていた。
「呪術人形ね?」
「────さあな」
「貴方も呪術を使ってる、だから私のこの力のことも理解した」
「……」
腕から剣を引き抜いて、それを片手にクリフは跳躍する。一瞬にして距離は縮み、空中で右脚を引き、脚は撓る鞭の如くアイリスを狙う。
(く──)
アイリスは左腕から背後にワイヤーを放ち、建物へ貫通させて固定し、瞬時にワイヤーを籠手に引き戻して自分を引っ張る。
「っ────」
脚を躱した。が、その足先には先ほど引き抜いた剣が掴まれていた。
(!?──)
しかし剣先はアイリスの鎧を削ったのみで彼女自身へはダメージを与えられなかった。
「ちッ、」
クリフは折れた剣を遠心力で捨てるように、回転して衝撃を和らげながら着地する。
アイリスはクリフに背を向ける形で建物へ一直線に飛んで行く。
「う゛」
建物の──リリィが焼き黒く煤け、壁に登っていた蔦も、古臭さも、それらはどこにもなく、──壁面に体当たりする様に、粉砕しながらもアイリスは建物へ回避した。
「くっ、うぅ……」
瓦礫を跳ね除けて、アイリスは様子を伺いながら外へ出る。
「無茶な真似を──」
雨でアスファルトの無い地面が泥濘んでいる。だんだんと激しさを増す雨と夜の暗闇で視界は悪いが、クリフにはほぼはっきりと見えている。
(状況は不利、魔力の燃費の悪さも目立ってきた……、)
「……ハァハァ」
(、炎熱破壊の必要の無い今、身体能力を強化できているのに──それでもあいつの方が強い!?)
アイリスは腕を前で交叉し、両腕からワイヤーを背後の壁面に仕掛ける。
「んん、……」
ワイヤーが籠手へと変換され、ゆっくりと徐々にそのスピードは上がり、ワイヤーの長さが短くなり建物の壁が引っ張られていく。炎で朽ちた壁面は簡単に罅割れ剥がれた。
「っやああァァァ!!!──」
ゆっくりと近付くクリフへ、ワイヤーを腕で引っ張り、投擲する。
「──それが、なんだ」
勢い良く外壁は飛ばされ、その一片はクリフの頭上へ、もう一片は間に落ちる。
「ん────」
クリフは外壁を砕き、後方へ跳ね除けた。崩れた二片の外壁は粉砕し、雨で濡れた粉塵が舞う。
「──」
「──」
両者共に走っていた。一秒と経たず、両者は粉塵の中に互いを目前に見つけ、構える。
(来る!!────)
水面、泥沼、雨、粉塵の不自然な動き、それらでもってアイリスは見えぬ使い魔の動きを読み取った。
右側後方。
『ぷしゃああああああああああッッ』
極限の中でアイリスの体感時間が圧縮された。
アイリスは左腕から前方のクリフへ剣を射出。しかしクリフは至近距離にも関わらず片手ではね除ける。その刹那、──剣と籠手がワイヤーで結ばれていた。直接アイリスと繋がっている場所は操作も変形も可能──片手と剣がまだ触れ合っているその一瞬。硬質だった剣が柔らかく曲がり、そして勢い良くクリフの右手首に巻き付いた。そしてアイリスはまた剣を前方へ射出する。しかし今度は段違いに速い。剣が赤熱するほどの、蒸気を上げるほどの速度でアイリスは剣を射出した。しかしそれはクリフを逸れ、ずっと後方へ翔ぶ。
「な、に────」
射出された剣と、クリフの手首に巻き付く剣とが硬質なワイヤーで結ばれていた。風切り音と共に、クリフは後方へ剣に引っ張られた。それらとほぼ同時にアイリスは振り返り、その勢いに任せて右腕で裏拳を放つ。
『ぎゅるるるるるるるるる──』
その裏拳を右腕へ噛み付き、使い魔は受けた。そして、ここでようやくアイリスは体感時間の圧縮から解き放たれた。
「が、ぁ゛っ──」
右手首の骨が折れる音がした。それと同時に、魔力魔術が断裂される。右の籠手は朽ち、崩れ、そしてその崩壊は伝染していく。
「捉えた、わ……」
使い魔は魔力を喰い、その久しい味に酔い痴れる。
崩壊が訪れる前に、アイリスは左掌から刃を形成し、一気に化物を貫いた。刃は胸から刺さり、喉を通って頭蓋を貫いた。
『──────────』
魔力を喰む力が緩まり、使い魔は口から手を離した。そして力無く、刃を抜かれると同時に地に崩れ落ちる。
「そいつと相討ちとは、正気を失ったか? 気付いていただろう、魔力を破壊する呪術だと」
背後にクリフが立っていた。
「あの程度の行為で魔力が失われるのは数時間、最大でも数日……それにまだこっちは生きている」
髪が素肌を隠してはいたが、それでも今のアイリスは鎧を失っている。
背中でクリフを見据えたままアイリスは答えた。
確かに全てを封印される前に倒したことで左腕にはまだ籠手が残っている。だがそれも肘上から下の部分だけだ。パワードスーツとも呼べる鎧の機能を失い、正常に魔術が作動するかさえわからない残りの籠手だけでは到底クリフに及ばない。
「バカにするな、確かに読みは当たっている……だがその状態で」
アイリスは敗北を考えていない。それどころか彼女の眼にはまだ、力が灯っている。素肌を伝う激しい雨に体温が下がっていく。
(──冷たいのは好き)
「っ、」
クリフの初速より速く、アイリスはワイヤーを崩れかけの建物へ、そして円を描くように空中を飛び建物の中へ入った。
「時間稼ぎか、」
クリフが振り替える。
「まだよ──」
「!?──」
クリフの眼は、脳は視えている。先ほど壁を破って入ったそこに、二本の剣があった。
「さっきそこに? フ、剣二本で俺が殺せると?」
そうしてクリフは駆ける。剣を構えたアイリスへ向かって。
(少し、少しの魔力で良い──ほんの少し体内の魔力を発せられさえすれば……)
クリフの蹴りに一本の剣を弾き飛ばされる。
「、──」
クリフの指が腹を抉り、手が腕を折る。
「ぁぁっ」
振るった剣も虚しくまた空を舞う。掌で頭蓋を鷲掴み、建物の奥へ投げる。
「裸の女を甚振るのは、気が引ける」
そう言いながらクリフの口は笑っていた。これほどまでの戦力差。それを────。
「ほん゛のっ゛、ずごし、──」
アイリスが吐血し、身をひしゃげる。
「──無理に魔力を行使すればそれで死ぬ」
クリフは瓦礫を退けながらアイリスへ近付く。
「く──がぁ゛っ゛……」
「!!──」
アイリスの左腕と地面が突然発光する。
「これは──」
その地には、ワイヤーが張り巡らされていた。いや単に張り巡らされているのではない、それは何か文字やら絵柄やらを形作っている。
「──魔術式!?」
「ぁぁ゛っ゛────」
(……仲間に貰ったこの命、必ず生きて──)
発光するワイヤーは焼き切れ、発光は収まった。しかし左腕はまだ発光している。
「こいつ──」
クリフもそれが何か勘づいてアイリスへ駆け、拳を放つ。アイリスは飛ばされ、壁を貫いてそこへ落下した。生身で今の打撃を受け本来ならば即死、しかし──。
(──呪術を使って術を上乗せしているッ)
さらなる命と魔力と引き換えに、アイリスに埋め込まれた鉄塊の悪魔は要求に答えた。折れた骨を鉄が補強し、剥がれ貫かれた肉を鉄が覆い、破れた心臓をも鉄が成り代わる。全身に纏う鎧ではなく、鋼鉄はアイリスの身体、組織一つ一つに編み込まれる様に彼女の全てを補強強化する。
その姿はまるで未来から来たアンドロイドが皮膚を剥がされた様な、そんな姿。髪さえも鉄子が覆い、今の彼女は銀髪。眼球と口内だけが生身のそれとして表に出ているが、それ以外は銀色である。その銀色の組織の隙間から、赤い血が滴り流れている。
「────」
『機関に関わる生命は、全て絶つ』
(最初から、全て……ここへ来た時に、……あと少しの魔力で術が発動する様にすでに組んでいた──この女、呪詛を振り切るつもりでいたのか、)
アイリスがクリフへ向かう。
拳をいなして、クリフはアイリスを外へ弾き出した。
「ハァ、……」
(だがパワーと硬度は平常時より増したとはいえ、鎧の時よりは劣るか……やはり呪術が解かれた訳ではないか)
アイリスが吐血しながら立ち上がる。獣の如く補強された爪先で地を掻きながら、身体を立ち上がらせている。
「見た目はアイツほどに、気味が悪いな──」
クリフとアイリスの殴打は、やはりクリフの方がまだ優勢であった。
「ぬぅッ、」
右腕でアイリスの蟀谷を弾く。
「く、──」
(やはりまだ──)
瀬倉によって切断されたクリフの右足は、未だ外見だけで中身はスカスカと言って良いほどに治癒されていなかった。それ故に踏ん張りが利かず、拳や蹴りの威力が軽減されてしまっているのである。この状況が戦局を左右するだろうというのは言うまでもない。
「この女──」
(死なないのか、)
クリフの拳や脚はアイリスへの攻撃の度にダメージを受けるが、それは驚異の治癒力により回復し、さらに今のクリフは痛覚を半減以下に抑えている。そしてアイリスの攻撃は自身の肉体を鉄としていることで自身を傷つけない、つまりどちらも最大の防御力を最大の攻撃力としているのだ。
「ハァハァ、ハァ……」
「くッ、ゥ──」
今、アイリスの鋼の身体は能力をそれしか発揮できない。もう一度変形させ武器を成す時、それは自己への多大な負担と共に相手を葬る時しかない。
「ぅ、」
アイリスの爪がクリフの肉を削ぐ。
クリフの左拳がアイリスへ打ち込まれ、距離が開く。
(速度も、力強さもある──だがそれでも、俺の方が強い)
そこへ透かさずクリフが蹴りを放つ。
その脚をアイリスは受け止めて鷲掴む。爪先が食い込むほどに。そしてそのまま後ろへ投げ飛ばした。
「チッ、……こんな女一人」
(後から合わせてくる、なのになぜ──)
アイリスが距離を詰め、爪先で貫かんと腕を振り上げる。
(壊せば壊すほど、頑丈になる)
「ぅ、くっ」
その前に、クリフが蹴り上げた。
クリフが起き上がると同時、アイリスは迫って蹴り振るう。
「────」
顔を背けて躱したが、足先が掠って頬を削がれた。その足へクリフが蹴りを打ち込みアイリスを蹴り飛ばす。
「は、ぁ゛──」
(!?────)
その瞬間、クリフは背景の奥に人影を見た。雨が降っているはずなのに、その人物へは雨が避けているかの様にその者は濡れていない。深く帽子をかぶってローブを纏う紅いその姿にクリフは見覚えがあった。
「っ、──」
そこへアイリスが向かってくる。
「くそ、──!!?」
クリフの体が動かない。何か体全体を重いものが押さえている感じだ。
アイリスは真上へ飛び、クリフの背後にぴったり着いた。
(動かない、こ──)
その一瞬を、アイリスは逃さない。
「ぅぅっ゛」
血に喘ぎながら、クリフの体を鎖が覆い巻き上げ、アイリスの体へ背負う様に縛られる。
「き、さま──」
遠くで紅い者は口だけで笑っている。
ぎりり、と鎖がクリフの体を締め上げる。
(裏切ったのか────!!)
逃れようとしても、何かが重く押さえ付け体の自由が利かない。鎖がクリフの体の節という節に絡み付き、結んで締め上げていく。
「ぐぁ゛ぁぁぁぁぁ゛゛」
アイリスは背中でクリフの半身を一気に持ち上げた。
「あァ゛※※゛※※※゛゛!!!!!────」
(──すまない、リリィ……)
鎖は肉を引き千切る様に締め上げ、肉の押し潰される音と骨の砕ける音、クリフの音が雨夜に轟く。アイリスの背で、クリフは人から肉片へと姿を変え、頭蓋も握り潰されたが如く割れ、地に落ちた。鎖が、クリフを絞り潰した。
血と体液、雨に濡れながらアイリスの身体の表面から鉄が退いていく。
「…………」
肉の散らばる血溜まりを見ながら、アイリスはゆっくりと振り返った。
「痛覚が半減していたとはいえ、その殺し方は残虐過ぎるだろう」
紅い者はそう言い、ゆっくりした拍手をしながらアイリスを見る。
「……貴方も近くに居たのね、うっ、手助けされなくても時期に──」
「それはどうだか。 それに、時間かかりそうだったからね」
アリスは膝をつく、そして地面にへたり込む。ゆっくりとアイリスは自分の体を見つめ、壊れた箇所はまだ鉄子が修復しているのを確認する。
「これで一応ワタシの任務も完了した訳だし」
「任務? 私はエヴァンズを殺しに──」
「あぁダメだ、これでキミたちの任務も終了ということにしてくれ」
「なぜ、?」
「今の状態がワタシの予定通りの、まぁ少し予定外もあるが、予定通りの形だからだ」
「やはり──」
眼だけを紅い者に向けて、アイリスは体に力を入れる。
「文句はよしてくれよ、情報提供してやったんだからな。 それと一応今回の報酬ということで命はやろう、仲間と共に日本から引き払え。 この場には時期に機関の人間が来る、見つかっては知らんぞ」
「貴様……」
「歯向かうならここでオマエを処理してもいい、早く服を着て去れ」
「…………待てッ、──」
言って、紅い男は姿を消した。
「くそ、──ハァハァハァ……」
(やはり機関に使わされたんだわ──)
アイリスは既に瀕死の状態と言ってもいい。彼女に残された時間はまた、少し短くなった。
男に言われた通り、アイリスはよろめきながら仲間を担いでその場を去っていく。
(エイダ……)
雨が、いつの間にか止んでいた。