piece1-2*【火燃蟲】
3月末、世間的には春の訪れと言ったところか。
あすかは麻紀の家にいた。麻紀の家は白色の四角い外観の二階建で、麻紀が大学に通いやすい様にと両親が引っ越しを決めたのだ。
「はじめてだね、新しい家は」
「そだねー、なんか格好いい感じの家だね」
「格好いい? そうなのかな」
麻紀の部屋は二階にあって、大きな窓から陽が射し込んでいた。最近買った大きい薄型テレビを置いても、部屋の広さには余裕がある。
『──家に居た母親と長男のものと確認され、火事の原因は未だ不明と言うことです。 次のニュースです──』
「火事?」
「みたいだね、そういえば家の近くでも火事があったよ」
「あすかの家は大丈夫だったの?」
「あーうん大丈夫、近くって言っても結構離れてるし」
テレビに映った場所はもうほとんどの部分が燃えて、隣近所の家にも少し被害が拡大した様子だった。
「あ、お母さんが先にお風呂入っちゃいなさいって」
「ありがとうございまーす」
今日は麻紀の家でお泊まり会なのであった。京都へ行くにはさすがに時間が無いということで、麻紀の家に泊まることになったのだ。
◆
躰の奥から熱を感じる。寒い夜の中にいるはずなのに、どうしてか暑さを感じていた。熱が背骨を伝って両眼から弾き出される様な感覚。
「え、ぐっ……」
熱さに耐えられず嘔吐する。体の熱が少し引いた様な気がした。
「ハァハァハァハァハァハァ…………」
辛くなって地面にへたり込む。目を閉じると右手に何かを感じた。虫が這っている、そんな感じだ。
「蝶々……」
見るとそれは蝶だった。一匹の蝶が右手に留まっていたのだ。
「ハハッ」
不気味な笑いが込み上げてくる。息切れで笑い声が変な感じになっているのだ。
「大丈夫ですか?」
男が声をかけてきた。
世界の全てが自分の敵なのだと、そう思っていた。だからなのか、その男の視線に怒りを覚えた。薄汚いものを見る、そんな見下した視線に感じられたのだ。
「見るな、そんな目で……見るな」
「え」
怒りが形になって現れた。右手に留まっていた蝶が男に留まる。
「見るなよ!!!!」
◇
斎藤雄也、それが少年の名前だ。
銀行員と教師の両親の間に産まれ、どこにでもありそうな幸せな家庭の中にいた。学校での成績も良い方で両親もそれを良く思っていた。それが突然、少年が高校生になって変化が現れたのだ。良い成績、良い大学、良い会社。そんな言葉が少年へのプレッシャー、コンプレックスになっていった。良い成績、そんなものに彼は魅力を感じなくなっていたのだ。
ここまではよくある話だった。カウンセラーにでも行けば回復するかもしれない状態だった。
ある時、高熱を出して学校を休んだ。栄養失調と医者は診断した。
久しぶりの病欠で内心喜びを感じたが、授業についていけなくなることを心配して、その日は勉強していた。
「んっ、ぐ」
その時だ、吐き気を感じてトイレへ行こうとしたが間に合わず部屋で吐き出してしまった。
「なんだ、これ」
白いぶよぶよしたものがそこにはあった。痰か何かだと最初は思ったが、それが動いている様に見えたのだ。触ってみようと手を伸ばす。
「!──」
その白い何かから何かが出てきた。
虫だ。
ぞっとした、自分の体の中から虫の卵が出てきたのだ。それは真っ白い蝶や蛾の様な虫で、その蝶が羽ばたいてノートの上に留まった。しばらくして、蝶の羽から何か液体が滴れたのを見た。
「な────」
液体がノートに付着した途端に炎が上がり、その炎が蝶に引火するとさらに炎が威力を増して燃え上がる。たちまち炎は机の上にあったノートやら教科書やらを灰にして、とうとう机にまで燃え移ってきた。
「あぐぁ──」
また、嘔吐する。
今度は血と一緒にさっきよりも大きい白い卵が出てきた。いや、卵がたくさん固まっている──気持ち悪さを感じた。卵からは次々に白い蝶が産まれ羽ばたいている。
「雄也!」
父が、異変を感じて部屋に入ってきた。
「父さ──」
蝶が、父にたかって燃え始めた。
「ぐああああっ、」
声にならない何かを感じて、けれど動けない。
母さんが来て、燃えた。
それから家が燃えて、自分が高揚しているのを感じた。
燃え上がる家を見つめて、少年はその場を去っていく。解放された、一人になれた、そんな気持ち。孤独よりはもっと崇高な感情。今まで自分を従わせて、それに満足していた者達を自分が殺した。死んだかどうか確かめた訳じゃない、しかし確信していた──自分が殺った。
何か不満があった訳じゃない。彼らに従っていれば彼らがいるような場所に立てると思っていたから。でも少年は失っていた。その場所に辿り着くことの魅力を、その場所への魅力を。従っていることが嫌だったのではなく、ただそこに楽しみを、快楽を感じられなくなった。自分が求めている場所ではないと感じていた────自分が魅力を感じなくなってもなおまだそこに縛り付けようとする彼らが、自分を利用して上り詰めようとしている彼らが、憎かったのかもしれない。そして感じていた、彼らは常に自分を下に見ていたと、そのうえで自分を利用していたと。
「そんなやつらを、僕は殺した──僕が、僕の能力がやつらを破滅させた」
◆
4月になって麻紀は大学が始まり、そして放火犯が町を騒がせていた。二軒の家を放火したという犯人は未だ逮捕されず、人も襲うということで人々の間には冷たい張り詰めた空気が淀んでいる。
「それで瀬倉さんは日本に戻ってきたんですか?」
「あーいや、そういうわけじゃ……」
「でも瀬倉さんってあんまり日本人って感じしないですよね」
冗談混じりにあすかは瀬倉という男にそう言った。この瀬倉という男は先日、あすかと麻紀が町を歩いていると「この辺りは近頃危険だ、ニュースにも出てただろう」と声をかけてきた不穏な男なのだが、また外にいたあすかに声をかけてきたのである。
「なんかロックな感じだし、もう暖かいのにロングコートなんか着ているところとか」
「な、これには訳があってだな……」
「いやいや、格好いいですよ、なんか」
「そうか? あーそれよりだ、さっさと家に帰れ」
「だから買い物に行かなくちゃいけないんですって」
あすかも最初は怪しい人物にカテゴリーしていたが、何か訳有りな様子でニュースの放火犯をしつこく警戒してくるので警察関係者なのかと疑っているところだ。
「どうせ瀬倉さんもこの辺りうろついてるんでしょ、間違えて逮捕されますよ」
「そんなドジは踏むか、じゃあな」
「はい、またどこかでー」
(桐原あすか、死なせるわけには……)
デパートに入っいくあすかを背中に、瀬倉はその場から離れていく。
(まさか町でこんな事件が起きるとはな、早めになんとかしておくか……いや、目的は桐原あすか。 付近に機関の魔術師もいるようだし、放っておくか……)
瀬倉は人気のないところまで来ると、跳躍して壁を伝いデパートの屋上まで登る。
「きゃっ──」
屋上の扉から女性が一人出てきて、ちょうど瀬倉の常人成らざる行為を目撃してしまい声をあげた。
『──忘れてくれ』
落ち着いた瀬倉の声が空気を浸透して女性の脳に命令する。それは記憶忘却、記憶改竄と言われる類いの魔術であった。
◆
「ハァハァハァ……」
人の焼ける臭いが頭から離れない──
ニュースにも新聞にも出てた、警察は僕に目星を付けているはず。
大丈夫か? このままで……
この能力は速効性に欠ける、虫の存在がバレれば……相手はそれにさえ気を払っていれば良いのだから。発火する前に銃なんか使われたら終わりだ。でもまだ警察も銃を使用できるレベルとして僕をみていない。
「ハァハァ……」
人気の無い夜の道で斎藤雄也は踞っていた。今の状況を考えながら、罪の恐怖に襲われていた。いや、そんなものは彼の感情の高まりの前では霞んでさえいる。
「腹減ったな……」
そうだ、問題はこっちだ。体温も下がってきてる。虫を生むには体力がいるんだ……今の状態じゃすぐに死んで終わり。死ねない……まだ死ねない。
「こんな、場所じゃない……」
恐怖や疲労など霞んでしまうほど、感情が昂った状態の彼は優越感に満たされていた。だが一度能力を行使した後、彼を襲うのは恐怖と苦悩。自分が生み出した能力、行いに対しての罪。しかしそれでも自らの絶対的支配者という像は崩れない。
◇
4月17日。
「よう、斎藤じゃねーか」
「…………」
斎藤雄也の友人が町で彼を見かけて声をかけてきた。雄也の返答はなく、友人はもう一度声をかけた。
「ごめん、忙しいんだ……」
「え、あーそうなのか? すまなかったな」
普通ではない。友人の男は雄也の表情を見てそう感じだ。忙しい、その言葉だけでは想像できないそんな疲れた表情をしていた。後ろ姿から友人は斎藤雄也だと認識して声をかけたが、正面から出会っていれば彼は気づかなかったかもしれない。
「……待ってくれ、ちょっと……いいかな」
その場を去ろうとした友人に、今度は雄也から声をかけた。
「この蝶、綺麗だろ────」
彼ははじめて、人の焼ける臭いを知った。
◆
──麻紀が大学に来ていない。
それを知ったのは20日のことだった。数日前、大学終わりに麻紀と約束をしていたあすかは大学に行き、麻紀の帰りを正門の側で待っていたがなかなか来ないので電話をしたら「ごめん、最近行ってないの」そう言われたのだ。
放火犯に出会した、それが理由らしかった。大学の帰りに火事の現場に出会して消防署に電話をし、到着を待っていた時、その家の前にいた男と目があったという。
「そしたら、その人がこっちに来て……最初は近所の人かと思ってたんだけど、燃えていたの……その人の回りが、燃えてたの」
男の回りを浮遊する蟲が燃えていた。不気味に笑う表情が、麻紀の視界に入ってくる。
男は──斎藤雄也は嬉しかった。殺〈燃や〉せる……自分の力にくたばるやつの表情が見える。
「ハハッ」
昂った感情が、脳を支配者していた。もはや彼は変わっている。最初の純粋な解放感、それを感じるための彼を支配していた者への殺意。それが今では自分が支配者なのだと感じるために、彼は犯行を行っていた。いや、最初の時点で彼は自分の感情の矛盾すら焼き殺してしまっていたのかもしれない。
「──────────ッ、」
突然の胸の痛み、嘔吐。
少年の躰から吐き出されたそれは今までよりも巨大な蟲だった。それが、雄也の右肩に寄生する。皮膚を突き破って、血管に、骨に、細胞に侵入してくる。細長く先端が棍棒状に膨らんだ触角。
「こ、これ……は…………」
四枚の翅から霧状に散布する鱗粉が、口吻から放たれるガスに触れて燃焼する。
それは新たに斎藤雄也に目覚めた能力。
「ハハ、ハハハハハハハッ」
辺り一帯に潜んでいた白い蝶が、彼の周りに集まってきた。真っ白だった蝶はどこか黒く濁っている。
「逃げられたか……臆することはない、すぐに焼いてやるさ」
◆
太古、人は魔術と名付けられた力を崇拝していた。神の力を人の域に変換し、それらを行使するものを魔術師と呼んだ。人成らざる形質を人は甚く神格化していたし、逆に恐れ拒んでもいた。そうした中で魔術は発展し、時に人類の歴史に大きく影響を及ぼした。もちろん、常識の裏側でだ。
知る人は知るが、知らぬ者からすればそれはとんだ茶番劇にさえ成り下がる。人類の常識は科学が支配していたからだ。だがお互いやっていることに相違はない。人類の幅を広げ、それら事象の段階を簡略化する。しかし同じ土俵の上に勝者は二人もいらない、そう言って押し合うのが人類の性。
彼ら──魔術師と科学者は、今なお互いの領域を荒らしあっているのだ。
◆
「外道だな、見かけだけじゃ判別がつかん」
白髪の男性が焼け焦げた死体を見ながら眉間にシワをよせる。
「無差別に人を焼き殺す……それだけでも尋常じゃないが、ここまでやるにはガスバーナーで炙る程度じゃ収まりませんね」
「あぁ、それに一連の被害者と同じなら生きたまま焼かれて死んでる」
「酷いなんてもんじゃないですよ」
立ち入り禁止のテープの中で、ブルーシートが被せられた焼死体を取り囲んで50代くらいの男と若い男がしゃがみこんでいた。おそらく警察官だろう。
「ここは夜じゃ人通りが少ない……とは言え」
「死体を移動させた形跡はなく、ここで犯人はここまで被害者を焼いたことになるな」
「逃げませんかね普通、あれだけテレビやネットでも騒がれてるし、重火器を持った犯人が近寄って来ればさすがに気づかないはずがない」
「ん、重火器を持った犯人からなら着火した後でも逃げきれるだろうが……」
「目星は付いてんでしょう? もうマスコミに流して犯人の動きを縛らないと、この勢いじゃあ週末には二桁いきますよ……」
「わかってる、ガキの夜遊びにしちゃあちとやりすぎだ」
「!? 、これ……何でしょう?」
「ん? 虫か? 明りに集って火が移ったんだろう」
二人の刑事はブルーシートで被害者を隠し、車に乗り込んで事件現場を離れていった。
その様子をビルの上から眺めていた男が一人──瀬倉だ。彼は元機関の一員である魔術師だ。高所、特にビルの上が彼にとっては気に入った場所で傷心に浸れる様な場でもある。
「事態は悪化しているな……」
瀬倉は知っていた。この事件が何によって引き起こされているのか。
魔力の行使を見分け発見し解析する能力、いわゆる魔力のダウジングは魔術師には欠かせない能力の一つでもある。しかしこの事件の犯人の魔力には満ち引きがあった。魔力を隠す能力もまた存在するがそのような器用な事をこなせるような輩では無いと瀬倉は考えている。つまり魔力の扱いどころかその発動や維持さえできないような者。そのような者は危険であった。何故ならそういう者の魔力発動の条件はたいてい感情の起伏によるものが多いからだ。意識せず逆上や躁鬱による回りへの暴動、つまり無差別的な犯行。
(最初に手を打つべきだった、だんだん魔力が感じられる間隔が短くなってきている……これでは位置を特定できない)
魔力の増幅、質の向上、それらが犯人の犯行時間を短くしていた。
犯人の魔術は進化している……。
(だが何故だ、こういう感情で動くタイプは犯行事態を楽しんでるケースが多い……快楽殺人なら犯行時間が長くなるはずだが……)
魔術維持が困難なほど犯人の身体が疲労しているなら、このままでも自然消滅する可能性もある。わからなかった、瀬倉にはどうしてもこの事件には納得がいかない部分が多くあった。
そもそも彼はこの事件への関与を拒み、当初から事件を見ていたわけではなかった。けれど事件の被害が拡大して、こうも無差別に魔力が行使されては世界への影響を考えねばならなかったし、桐原あすかへの被害を考えれば動かざるを得ない状況でもあった。そう、そもそもの目的は桐原あすかとの接触だ。
(やはりまずかった、魔力の爆発的散布を引き起こしてしまったのは──この地に魔力を宿らせてしまうことになるのは分かっていた事、けれどあの状況下で選択肢の余地はなかった……)
今回のこの事件、瀬倉は二年前の自分の失態が原因だとも考えていた。二年前の連続少女誘拐事件で、彼は魔力の爆発的散布と呼ばれる現象を起こしてしまっていた。
大量の魔力容量をもつものの死。たいてい魔力を宿したものが死を迎えるとそのものが宿していた魔力はその大半が消失する。しかしその容量が多ければ多くの魔力は世界に残ってしまう。
──物事が一瞬にしてその存在を抹消されることはない。残った魔力は拡散しやがて薄れていくが、それは大量の魔力が拡散し停滞することになる。その間、その辺りは魔力的影響を受けやすくなり、それは良くも悪くも何かしらの影響を世界に与えてしまう。それが魔力の爆発的散布と呼ばれる現象だ。
「クソッ、……」
(落ち着け、犯行範囲はだいたい絞れてる、あとは近くで魔力を察知できれば犯人と接触できる。 網にかかるのを待つしかないのか……)
魔力は精神的影響を受ける、魔なるものはいつの世もそういうものだ。
◆
5:27 p.m. on April 24
「──見つけた」
疲れたような声で斎藤雄也は呟いた。目に力がない、寒さに凍える様な痙攣。煤けた白髪混じりの頭髪。熱に当てられた様な眼鏡。かつての少年の面影は薄く、右肩には巨大な濁った白色の蝶が留まっている。その辺りを彼に連れられるようにしてたくさんの同じ様な蝶が浮遊していた。暗くなり始めた空の下でさえ目立った蝶の群れだ。その蝶が一匹、先を歩く桐原あすかと陽本麻紀の前を翔んでいく。
「わざわざ毎日ありがとうね」
「いいよいいよ、私も暇だし。 いざとなったら助けられるか分からないけど不安なのはなんとかなるでしょ」
あすかは犯人に怯える麻紀の帰りを共にするようになっていた。
「うげ、変な虫! 珍しいな……」
あすかの目の前を蝶が浮遊する。
「あ……あすか、これ──」
「え……──危ない!!」
突然目の前を翔ぶ蝶が弾けて燃えた。
「大丈夫!?──麻紀!?」
麻紀のさっきまでの笑顔はもうない、怯える彼女の眼鏡のフレームが焦げている。
「見つけたぞ」
「──!?」
背後からの声で振り替えるあすか、麻紀の体は恐怖で動かない。あすかの視線の先に写る気持ち悪い程の蝶の群れとその中にいる男──斎藤雄也。
「逃げるよ!!」
男は麻紀から聞いた無差別放火犯と思われる人物像そのものだった。
麻紀の手を引いてあすかは走る、手を引かれて我にかえる麻紀。犯人かどうか、そんなことはもはや関係ない。いやあすかは心の中で確信していた、だって蝶が燃えたのだから。気味の悪い蝶の群れと発火現象に二人の恐怖は逆撫でされ、足も早くなる。
「逃がすかよ」
斎藤雄也は走らない。辺りにいた蝶が一匹、二匹、と二人の方へ羽ばたいていく。
「この蝶がやばいみたい!!」
二人は走り、公園へ曲がっていく。
「…………」
斎藤も後を追い、公園を抜け裏側の林へ入っていく。
得たいの知れない恐怖に、二人の呼吸も乱れている。木々の枝が頬を掠めても気づかない、二人は林を抜けて道路へ出た。
「しまった!?」
「ハァハァ……あすか、」
林を抜けたそこには蝶の群れがあった。
背後から斎藤がこの場にたどり着く。
「まだ人気はあるが、この声を早く鎮めたいんだ……燃えろよ」
斎藤の右肩にいる蝶の丸まっている口吻が伸びて、翅を羽ばたかせる。
「あすか、あっちへ逃げて早く!!」
「麻紀は!?」
「私がなんとかするから!!」
「なんとかって……できっこないよ!!」
「でも────!!?」
顔の隣を突風が過ぎていった。
「グァッ!!!?」
刹那、斎藤の声と奇怪な甲高い鳴き声が耳に届く。
「なに────」
「逃げろ!!」
背後からの声、上空から落ちる影、そして潰れた巨大な蝶。
「瀬倉さん!?」
「早く逃げろ桐原あすか!!」
右手に真っ赤な槍を手にした瀬倉が上空から舞い降りた。
「虫が……」
「行くよ、あすか!!」
大量にいた蝶は無惨に地面に散々になって墜落していた。
今度は麻紀が、蝶の死骸を避けるようにしてあすかの手を引いて走る。
「ま、待て──」
追いかけようとする斎藤に、瀬倉は左手を振りかぶった。
「あ゛っ────」
瀬倉の左手から黒い槍が放たれていた。槍は斎藤の右の手のひらと右肩を貫通して背後の木に打ち付けられる。
「ぐ、くそ……」
反動で木に貼り付けられた斎藤は槍を抜こうとするが、深く刺さっているのとひどい痛みでびくともしない。
「その槍の血……お前が僕の蝶を……」
「あぁ、狙った獲物は外さない槍でな」
ぐらっと、瀬倉の右手辺りの空間が歪むと紅い槍は消失した。
「とっさにこいつを使ったが、思ったよりお前は弱い人間のようだ」
「黙れっ!! 僕にはまだ……」
斎藤の絞り出すような声に惹かれてか、また蝶が集まってくる。
「そいつらはお前の使い魔あたりかと思っていたが、どうやらお前たちは一つのようだ」
蝶が瀬倉の周りを旋回し始めた。時折蝶の翅から滴れる液体が、地面に落下する前に燃えて蒸発している。
「一つ? アハハ、これは僕の能力だ」
「昔のお前は見る影もないな」
「ん?…………」
瀬倉の言葉に、斎藤は目を細めた。違和感、それが斎藤にその仕草をさせたのだ。斎藤雄也と瀬倉が出会ったのは今が始めてだったからだ。
「俺は特別でな……魔法使い見習いをしていたんだが」
「そうか、そうかそうか……お前、僕を退治しに来たんだな!?」
「退治? 笑わせるな、殺しに来たんだよ」
瀬倉の表情が変わる──両手から黒い閃光が発せられ、黒い槍が出現する。
「ぬがあああああぁぁぁッ、」
斎藤の左脇腹と右足に黒い槍が貫通して木に突き刺さる。
「まるで標本だな、蝶のお前にはお誂え向きか」
「ハァハァハァハァ……お前なんなんだよっ!! 僕を、殺しに来ただって!? 僕を、僕を……」
「そのものの現在を形作っている過去を紡いで観賞する、それが俺にある能力」
「お前、僕の、過去を見たなっ!! 焼き殺す……」
どうにか槍を引き抜こうとしてもがくたびに血が流れ、木の幹はまるで赤の絵具で塗りたくられたように真っ赤に染まっていた。
「あぁ……お前もその虫の過去もな。 お前とその虫は一心同体、お前の過去は虫の過去でもあり、その逆でもある。」
瀬倉の周りの空間が歪んで、翔んでいた蝶が静止していく。
「ピギギギギギギギイイイイイィィィ!!!!!」
死骸の様な外見をした射抜かれた巨大な蝶が呻き声をあげ、右肩から離れてだらんと宙を浮遊し始める。
「何を、してるんだ」
「冥土の土産話をしてやろう……」
斎藤雄也は恐らくすでに死んでいる。彼に干渉した瀬倉が直感したことだった。肉体的にも精神的にも。
「お前のその虫……それはお前に開花した能力ではない」
「!?…………」
「それは魔力より生じた虫。 繁殖するために人に宿り、養分を奪って成長する」
「それって、それはどういう──」
確かに、斎藤雄也は精神的ストレスを抱えていた。親に従うしかない人生とそれに逆らうことを拒む自分に。自由に生きたいと思う気持ちと、従っていれば手に入れられる栄光、どちらを取るか。
「魔力は精神的影響を受けやすいからな」
この地に停滞した魔力より生じた虫。程好い繁殖場所を人体としたそれは、斎藤雄也の精神的揺らぎのすき間に寄生して繁殖活動を開始する。そしてエネルギーを奪い、子を産み、寄生した虫は宿主の脳を奪い斎藤雄也を支配した。
虫は子を養うために宿主以外の人体を獲得する必要があった。虫の思考と斎藤雄也の理念が融け合い、それらは放火犯を生んだ。斎藤雄也の理念だけが亡霊の様に取り付いた虫。
「解放された気分はどうだ」
「虫……虫にさえ僕は……」
最初の放火はおそらく斎藤雄也自身によるもの。そして、斎藤雄也の家庭教師をしていた須藤将と両親の上司である須藤洋子がいた自宅を放火したのも彼。しかしその後は子の餌を獲得するために、虫の思考によって行われた犯行。
「お前は思っただろうな、特別な能力を身に付けた今なら他人は必要ないと」
「…………」
「弱者しかいたぶれないような力だがな」
「だまれ……」
「俺には手出し出来てないようだが? ──しかしお前も被害者と言えば被害者か」
「────────……ァァァァァァァァァァ!!!!!」
ぷつんと糸が切れたような、いやむしろ壊れていた機械のスイッチが入ったような、そんな思いが斎藤雄也を駆け巡る。
「被害者なんかじゃない、僕は僕自身の意思と力で殺してやったんだっ」
「狂ってるよ、お前──それが斎藤雄也という人間の口から出る台詞かよ」
「過去を見たくらいで、僕の気持ちまで理解したわけじゃないんだろ?」
「あぁ、だが────!?」
斎藤雄也の目の色が失われていた。寄生していた蝶が斎藤雄也から切り離され、斎藤雄也の意志と思考がうっすらと、人格と共に戻りつつあった。同時に、蝶ではなくなった彼を蝶の“夢をみさせる”という鱗紛が切り捨てた宿主を餌と認識して攻撃していたのだ。
「お前につられて蝶と呼称したが、俺には醜い蛾にしか見えないな……」
巨大な蝶が斎藤雄也の額に留まる。ひしゃげた翅をばたつかせて可燃性の鱗粉を飛ばし、口吻からガスを放射する────。
「斎藤雄也、お前はいつから虫だったのだ」
誰にともなく瀬倉は呟いた。そして蝶に近づいて、鷲掴みにする。
「ピギギギィィ──」
ぐおん、と蝶の周りが歪んで、そして蝶が消失した。
現在から、置き去りにされたのだ。
「──ァ──ァァ──ァッ、」
言葉も発せず、斎藤雄也は燃えていた。
標本のまま、木に打ち付けられたまま、彼は涙を流しながら燃えて死んでいく。
「悪いが、助けてはやれない……人を殺すことの愚かしさを身をもって知ると良い」
◆
麻紀に連れられて逃げたあすかは、どうしても瀬倉のことを考えずにはいられなかった。しばらく麻紀の家に居たが、あすかは「私、そろそろ帰るよ」と麻紀の家を出て公園の方へ向かった。
(いくら警察でも、あんなのどうにかできっこないよ……)
「桐原あすか」
名前を呼ばれて前を見ると、そこには瀬倉の姿があった。
「瀬倉さん! 大丈夫なんですか、あの……あいつは?」
あすかは駆け寄って、涙の滲む瞳を瀬倉に向ける。
「心配だったか? それほどの仲でもないだろう」
「どんな警察官だって、あんな燃える虫どうにかできるわけないのに……」
それを聞いて瀬倉は笑いが込み上げてきた。
「お前、俺のこと警察官だって? はっはっはっは、どこでだよ」
「え? 違うんですか、私てっきり……って、笑わないでくださいよ」
「すまない、俺はどっちかって言うと魔法使いさ、見ただろう?」
全く、あすかは瀬倉の言葉を信じなかった。確かに、虫の群れを一瞬でやっつけたし、紅い槍は変な軌道を描いて瀬倉の手元に戻ったり、超の付く運動神経的なものの持ち主だとは考えたが、しかし魔法使いとはどこか子供じみている。
「魔法使いって、なんですかそれ、もっと一般的なヒーロー気取れないんですか?」
「ヒーローはもう少し後味良く解決するだろう」
「え?」
「まぁ、これで事件は解決した。 安心しろ」
そう言うと、瀬倉はあすかを横切って去ろうとする。
「あの、あり──」
「ありがとうございました」と言おうとしたが、あすかの言葉は瀬倉によって遮られた。
「俺は元々、お前に会いにここへ来たんだ。 これが良いきっかけになったとは、多少は思っているよ」
「え…………せ、瀬倉さん!」
それ以上の会話はなく、数歩歩いて瀬倉は薄暗くなった空に消える。こればっかりは、あすかも瀬倉は本当に魔法使いなんじゃないかと考えてしまった。
その後、陽本麻紀の携帯電話からの通報によりパトカーと救急車が現場を取り囲んだ。そうして全身重度の火傷を負いながらも、斎藤雄也は一命を取り留め、蝶から解放された。しかし、少年の精神はどこよりも焼け爛れていた。