Vol.3 初めての晩餐
困った。
何本もあるカトラリーは、一体どれを使えばいいのかわからない。
家ではナイフもフォークもスプーンも、いつも一本だけだったもの。
首をかしげながらそっと野獣さんを見る。
マネをすればいいかと思って視線を向けたのだけれど、彼は既に一本ずつを手にとって食べ始めようとしていた。
あら。
タイミングが遅かったらしい。
けれど結果オーライ。
野獣さんが私の視線に気づいてくれた。
「こういう夕食は初めてか?」
「はい。お恥ずかしながら」
「そうか。気にすることはない。外側から使うのだ」
なるほど、外側からね。
高価なナイフとフォークを手にする。
器用に一欠片を口に運ぶと、その美味しさに頬が緩んだ。
「上手だ」
ちょっとぶっきらぼうなほめ方だけれど、何だか嬉しくなる。
「ありがとうございます」
笑顔と一緒にそう言えば、野獣さんは手にしていたフォークを落として慌てた。
どうしたのかしら。
あらあらと思ったけど、すぐに気を取り直した野獣さんは、さっきより少し速いスピードで料理を平らげていた。
一方の私は彼に比べて一口が小さいせいか、倍近い時間をかけて食べ終える。
するとすぐに次の料理が運ばれてきた。
初めて目にする大きさのステーキ。
肉厚でワイン色の肉汁がじわりと浮かんでいる。
立ち上る湯気は香ばしい。
臭みを消すための香草もハーブの優しい香りがする。
一口大のステーキを口に入れるとあっという間に旨みが広がって、噛めば噛むほど美味しさが広がる。
「美味しい」
無意識に言葉にすると、向かい側の野獣さんはほわりと表情を崩した。
「気に入ったか?」
「はい」
素直な返答に彼は満足げに目を細める。
そして彼も一口、洗練された仕草でステーキを口へ運ぶ。
なぜかそれを目で追って、反応を待ってしまう。
思ったとおり彼も味に満足したのだろう、頬を緩めていた。
良かった。
そうひとりごちて、ハッとする。
良かった…?
どうしてだろう、胸の中が温かい。
変なのは私の方だ。
いくら想像と違っているからって、相手は野獣さん。
私を食べないとは言ったけど、捕まえたのは間違いなく目の前の人。
人?
既にそんな感覚で彼を見ていたことに気づかされる。
私、彼を人として見ている?
目の前にいる、誰がどう見ても獣の、彼を…?
「どうした?具合でも悪くなったか?」
問いかける口調は穏やかだし、内容は私を気遣うものだし。
確か街の噂で聞いた野獣は、いつでも鋭い牙を剥き出しにして研ぎ澄まされた爪を振り回し、凶暴な手足で捕らえた獲物を引き裂き、血が飛び散るのも構わず、というよりむしろ血肉を喜んで貪り食うって…鬼か悪魔かはたまた魔王か、ってくらい恐ろしい存在だった。
とても「人」だなんて形容できない。
そもそもあんな大きな手で器用にカトラリーを扱ったり、新鮮だとわかる野菜がふんだんに使われた前菜を美味しそうに平らげたり、ぷっくりした肉球で優しくおでこに触れたり、何度も脳内にトリップする私を気遣ったり、本当に野獣ならそんなことするかしら。
私はしげしげと野獣さんを見つめる。
丸くて温かな碧眼は戸惑うようにこちらを見つめ返す。
そうよ。
本当に野獣ならこんな血の通った優しい目をする?
人の体調や精神状態を気遣ったりする?
自分が優位に立っていることは十分に分かっているだろうに、あまつさえ捕らえた人間の食事を優先して自分は席を外すなんて言い出したりする?
答えは全て、ノーだわ。
彼が本当に野獣なら数々の振る舞いをするわけがないもの。
…かといって、着ぐるみにも見えないのよね。
体を支えてもらっていたからよく分かる。
彼の体温は本物だ。
「あの」
「何だ?」
野獣さんは突然口を開いた私に困惑しながら返事をする。
ほらね、こんな反応は高い知能を持った人がすることよ。
本能のままに人を喰らう野獣のそれではないわ。
「あなた、本当に…本当に野獣さんですか?」
目の前の可憐な唇はそう告げた。
は?
私の顔はさぞ情けないものだったろう。
あまりに脈略のない問いかけに一瞬言葉を失う。
なぜかこの娘は時折考えに耽る事があり、無言でくるくる表情を変えるところがある。
最初は私の姿と自分が置かれた状況に悲嘆し、恐れ、怯えているせいかと思ったが、私が席をはずそうと提案したのをきっぱり断ってから、どうやら怖がって現実逃避しているのではないとわかった。
食事が運ばれれば嬉しそうに頬を綻ばせて料理を口にしているし、緊張している様子も見られない。
少しの間和やかな時間が過ぎていたのだが、彼女は再び突然思案顔をした。
そして、なぜかじっとこっちを見ていると思ったら、先の問いかけを口にしたのだ。
何がどうなってあんな質問が飛び出したのか分からない。
分からないが…ここまで冷静に接してくる人間は初めてだった。
あの父親も肝が据わっていたが、さすがその娘だ。
地下牢では父親を心配する思いもあってか、突然の出来事に慌てたり怯えたりする様子を見せたが、これまでの短い時間で私を観察していたのかもしれない。
本当に野獣か、などと聞かれたのは初めてだ。
「…見ての通りだが」
内心湧き上がる嬉しさをひた隠したせいで、やたら威圧感のある答え方になってしまう。
けれど娘は少しも変わることなくこちらを見つめている。
そして突然立ち上がると、私の背後に回った。
手には何も持っていない。
とはいえ何をされるか分からず警戒した。のだが。
ふわり
小さな手が首筋に触れる。
それからペタペタと、たてがみを撫でるかのように手を動かし
「やっぱり」
小さく呟いた。
「やっぱり、とは?」
問えば彼女は再び自席に戻り、複雑な笑みを浮かべる。
「もしかしたら着ぐるみかも、って思ったけどやっぱり違った。その姿は本物ね」
ああ、その「やっぱり」だったのか。
納得したが、直後、彼女は丸い栗色の瞳をまっすぐこちらに向けていた。
まだ疑問があるのだろうか。
視線で次の言葉を促すと、彼女は小さく微笑む。
それは私の心臓をどくんと動かすには十分すぎる魅力を放っていた。
なんとか動揺を押し隠すが、この体格では鼓動まで伝わってしまいそうだ。
しかし
「あなたの名前を教えてください」
慌てる私の様子などおかまいなしに彼女はそう言った。
名前?
「お互い呼び合う名前は必要でしょう?いつまでもあなたを野獣さんって呼ぶのは失礼だもの」
「ではそなたの名前も教えてくれるのか?」
「もちろん。あ、そうよね、名前を聞くならこちらから名乗るのが礼儀ね」
いや、こんな私に名前を教えてくれるのか、という意味で問い返したのだが、彼女は別の解釈をして納得していた。
そしてさっと華奢な手を差し出す。
これは?
戸惑っていると、彼女はその手で私の手を優しく握る。
握手の意味だったのかと、鈍った頭はのろのろと反応する。
彼女の行動を先読みしてリードしなければ、と思う心と反対に体は鈍りきっていた。
華々しい社交界で姫君たちを相手に、夜毎ダンスをしていたのはもう数百年も昔のことだ。
心は覚えていても、脳はそれらを少しずつ忘れてしまったのかもしれない。
なんとも言えない虚無感と苛立ちが心に巣食う。
けれどそれは一瞬で吹き飛んだ。
「私はリリー。あなたのお名前は?」
「…ラピス…ラピス・ランフォードだ」
「そう。ラピスさんっておっしゃるのね。どうぞよろしく」
「あ、ああ」
彼女の笑顔は、穏やかに輝く月のようだった。
続く