Vol.2 野獣?
どこまで歩いても、憂鬱さを増す廊下は重く薄暗い。
やたらと響くのは私の足音と、野獣の足が爪で床をひっかく音だけ。
布で覆われているビスクドールの足は、ぽふぽふと小さな音を立てるのみ。
無言の重圧に押しつぶされてしまうかと思ったけれど、意外なことに、野獣は静かに話しかけてくれていた。
「部屋には一通り必要なものをそろえてある。足りないものがあればいつでもヴィスコンティに言うといい」
「ヴィ、ヴィスコンティ?」
「男の人形の方だ。身支度は女の人形の、シシリエンヌが整えてくれるだろう」
野獣は丸くて大きな指で(ほぼ手で)人形を指し、ビスクドールの紹介をしてくれた。
視線を二体、いや、二人?に向けると、揃ってこちらにお辞儀してくれる。
私もお辞儀を返したかったけれど、それは叶わない。
なぜってそれは、野獣が相変わらず私の腰を支えて…というか、抱えているからだ。
どうやらまだ力が抜けていると思われているらしい。
けれど意外なほど心地よい支えだった。
ふさふさの毛並みもさることながら、なんというか、一つ一つの行為がスマートなのだ。
野獣ってもっと荒々しいものだと思ってたんだけど、彼は違うみたい。
第一彼は私を食べないと言った。
しかも。
「ここがそなたの部屋だ」
通されたのは我が家がまるごと入りそうな大きな部屋で、窓際には天蓋付きのふわふわなベッド。
サイズは多分クイーン?
一人で寝るならどれだけ暴れても大丈夫そうだ。
背丈より大きな窓にはひらひらの桃色カーテン。
クローゼットはウォークインで、多分実家の部屋より広い。
用意された服は全て高級な生地で作られた、仕立てのいいドレスばかり。
えっと。
これを普段着に使え、と?
思わず野獣を見ると満足げに頷かれた。
シシリエンヌも目を輝かせている。
人形だけどちゃんと表情も変わるし、まるで生きているみたい。
「あの…私、本当にこの部屋を使っていいんですか?」
「なぜだ?」
深い碧眼が穏やかに問いかける。
「私は父の代わりでしょう?囚われの身なのに、こんなに至れり尽くせりなんて」
信じられない。
言外に告げて部屋を見回した。
けれど野獣は
「そなたにとってはこの城が檻のようなものだろう。それで十分だ。私はそなたを捕らえたが、傷付けるためでも辱めるためでも、ましてや喰らうためでもない。できる限り快適に過ごせるよう配慮するつもりだ。ここでの生活は保障するし、安心していい」
と、ことのほか穏やかな口調でそう言った。
騙されているのとは違う。
城に閉じ込められるなら、牢は必要ないってこと?
それにしてもこんな立派な部屋を充てがうなんて、一体どうして?
疑問符ばかりが浮かぶ。
それに明るい場所に出てようやく分かったことがある。
ライオンのようなたてがみは夕陽のような黄金色をしていて、きれいに手入れされていた。
身につけているのは、大きな体格に合わせて作られた特大の貴族衣装。
絹糸で織られた光沢のある紺色のジャケットに白いズボン。
ふさふさのしっぽもたてがみと同じ色をして優雅に揺れている。
服から出ている手足は確かに獣のものだけど、爪もしっかり磨かれ、研がれているし、汚れは一切付着していない。
清潔さの代名詞「石鹸の香り」がただよう野獣なんて、誰が想像しただろう。
その野獣がひょいと私の顔を覗き込んできた。
「食事は揃って食堂で食べることになっている。もうすぐ用意ができるはずだ。破けた服を着替えてくるといい。ただし疲れた顔をしている、コルセットのきついドレスよりゆったりとしたものを着た方が良さそうだ」
「…はい」
予想外の心配りまで見せられて、私は素直に頷いた。
小さいといってもシシリエンヌの身長は1メートルくらいある。
人形にしては大きな方かもしれない。
おかげで彼女は軽快な動きでクローゼットから、適当なドレスを見繕って持ってきてくれた。
ついでに椅子に乗りながら着替えを手伝ってくれようとしたのだけど、いつも自分で全てやっている私はそれを丁重にお断りした。
シシリエンヌは働き者だ。
一つやることがなくなってもすぐに次の仕事を見つける。
私が脱いだ破れた服を、あっという間にどこかへ運び、支度の整った私を食堂へ案内するためにすぐ戻ってきてくれた。
「リリー様、こちらへどうぞ」
想像していたよりも落ち着いた声で促される。
やっぱり疑問だ。
人形に声帯なんてあるのかな。
どこから声が出てるんだろう。
ビスクドールのはずなのに表情が変わったりするし。
なんて脱線した疑問が頭をぐるぐるするけれど、シシリエンヌが丁寧に手で促してくれたから、従って部屋を出ることにした。
あれ?
廊下に出た途端僅かな違和感を覚える。
その正体はすぐに判明した。
明かりだ。
野獣…さん、に、案内された時は今の半分ほどの明かりだった。
今は鉛色の鎧が勢ぞろいして壁に飾られていても、最初ほどの不気味さはない。
天井の悪魔はやっぱり好きになれないけれど。
よく見れば足元に敷かれた赤い絨毯は、毛玉一つないくらいきれいに掃除されている。
壁も蜘蛛の巣なんてないし、塵一つない。
歩幅の小さなシシリエンヌが滑るように廊下を歩いても埃が立たないのは、毎日細かい所までしっかり掃除されているからだろう。
内装は悪趣味だけど、キレイ好きってことかしら。
でも、誰が掃除してるの?
シシリエンヌたち?それとも、まさか…。
「どうした?」
「ひっ!?」
野獣さん!?
突然大きなライオンの顔が現れたりするから、反射的に後ずさって悲鳴を上げそうになった。
直後に見えたのは若干耳がしゅんと垂れた野獣さん。
あ。
「あの、ごめんなさい。びっくりしちゃって」
「…いい。誰でもこの顔を見れば驚くだろう」
案の定な誤解をしてる野獣さん。
もちろん顔を見てびっくりしちゃったのは本当なんだけど、獣の顔に驚いたんじゃないの。
「顔に驚いたのではなく、突然現れたから驚いてしまったんです」
きっちり訂正して彼の顔を覗き込む。
くるりとした碧眼は複雑そうな色を見せた。
納得しかねる、って顔ね。
けれど野獣さんは深く追求せず、食堂の椅子を引いて私を座らせてくれた。
少なからず傷ついているのに、責めることも叱ることもなくエスコートするなんて。
とってもジェントルマン。
普通に考えたら自分を捕らえた人喰い野獣と食事だなんて、泣いて悲鳴を上げながら怯えて震え上がってもおかしくない状況。
でも不思議。
ちっとも怖くないの。
おかげでどのくらいの広さなのか比較対象も見つからないような食堂を見回す余裕まである。
天井から吊るされているのは四方八方に光を反射させる豪奢な三段シャンデリア。
壁に描かれているのはやっぱり悪魔なんだけど、彼らが戯れるのは色鮮やかな春の景色で。
窓枠や柱は金で塗られている。
サテンで作られたカーテンはしっとりした光沢を放ち、ロイヤルブルーが心を落ち着かせてくれる。
あれって本当にサテン?
もしかしたらもっと高級な生地かもしれない。
食堂の中央に置かれたテーブルはよく磨き上げられて、どこもかしこも輝いている。
アンティーク調の重みある茶色の椅子もテーブルと同じ素材だ。
背もたれを大きく作り、よりかかる場所にはふわふわのクッションまで置かれている。
いつの間にか用意されていたカトラリーは、全て本物の銀食器。
持ち手にはすべて細かな彫刻が施されている。
縁取りに使われているのはこれまた本物の金だ。
これ、やっぱり夢?
現実だなんてとてもじゃないけど信じられない。
けれど
「どうした?」
野獣さんの声はちゃんと耳に届いているし、その感覚もリアルだ。
なぜかおでこに手を当てられてるけど、肉球の柔らかさが心地いい。
両肩に手を置かれて少しだけグラグラ揺らされてるけど、なんだかそれも心地いい。
って、やっぱりこれって夢?
「現実だ」
あー、そうか。
現実ね。
って!!
「!?」
慌てて遠ざかっていた意識を覚醒させる。
おでこにはまだ野獣さんのぷくぷく肉球が当たっていて、穏やかな碧い瞳が私の視線を捉えている。
なんだかバツの悪そうな顔をしてる。
まるでイタズラしたのがバレて怒られた小さな男の子みたいな顔。
どうしてあなたがそんな顔してるの?
あんな手紙をよこした悪党なんじゃないの?
…変な人。
「その、すまない」
「?」
「現実逃避したくなるほど辛い思いをさせているのはよく解っているし、申し訳ないと思っている。だが、こうする他なかったのだ。この姿に驚き、恐怖心を抱くのも…当然だ。だが、せめて食事はしっかり摂って欲しい。そうでなければそなたが体を壊してしまう」
苦しそうに歪められた表情は、切実さを前面に出して、懇願しているみたい。
だから、どうしてあなたが私を心配しているの?
父の代わりに私を捉えたのは、他でもないあなたなのに。
でも。
「どうしてもともに食事するのが無理だというなら私が席を外そう。どうか食事を楽しんでくれ」
辛そうに提案する彼の言葉に頷くことは出来なかった。
続く