踊る雨のリトル
シャッターの閉まった古臭いタバコ屋の前で雨宿りをしていると、小柄な女性がタタッと駆け込んできた。
「どうも、失礼します」
「ああ…どうも。まったく、ひどい雨ですね」
「そうですね、凄い雨…どのくらいぶりだろう」
潤んだ瞳で曇天を見上げる彼女は、全身がずぶぬれだというのに笑みを浮かべていた。
明色のシャツが暗色に変わるほどの濡れ鼠だというのに、それを気にしたような様子はない。
「大丈夫ですか…?そんな状態では、すぐに風邪をひいてしまいそうですけど…」
「そう?私は平気ですよ。ていうか、なんだか楽しくなってきちゃって」
おかしそうに笑みをたたえながら、彼女は水を吸ったスカートをたなびかせてくるりと回る。もはや雨に降られ過ぎてヤケになってるのかもしれないが、当人が満足なら口出しはしにくい。とはいえ、回転と共に水しぶきが飛んでくるのには閉口したが。
嫌そうな顔をしているのに気付かれたのかは知らないが、途中で彼女はぴたりと止まり、今度はこちらを注視する。
「ところで、あなたと会うのも久しぶりですね」
「え…?どこかでお会いしましたかね」
「ええ、少し前に。あのときはお世話になりました」
降りしきる雨と同じ方向に深々と頭を下げられたものの、あいにく心当たりがない。
「すみません…失礼とは思いますけど、覚えがないです」
「そうかもしれませんね。あなたはただ、通りがかっただけかもしれませんし。でも、私にとっては九死に一生を得た気分でしたから」
「はあ…」
普段はデパートで客商売をしているのだが、その際に会ったお客さんかもしれない。ここ数週ほどはセールが連続していたので、お客さんの顔も覚えてられないほどに人だかりをさばいていた。忘れても仕方ないと言えばそうだが、申し訳ないのは確かだ。
「それでですけど、以前会ったのもここで会えたのも何かの縁ですから。ひとつだけ、お願いを叶えてあげますよ」
会心かつ満面の笑顔を向けられて思わず惚れてしまいそうになったが、喋る内容は警戒を要するものだった。
「お願い…?」
「ええ。何か困ってる事でもあればすぱっと解決しますし、何か欲しいものでもあれば、即刻お届けいたしますよー」
「…それはすごいね。探偵なのか宅配便なのか分からないけど、何でもできるというなら」
「すごいでしょう。実は私って、けっこうな力を持ってるんですよー」
ふふん、と胸をそらす彼女の顔は自信に充ちあふれて見えた。
「本当に何でもできるの?」
半ば苦笑しながら聞いてみたが、まったく彼女の威勢は変わる事が無い。
「そりゃあもう。出世に結婚、子宝に健康、大金持ちでもハーレムでもどんとこいです。まあ生き物に被害が出るようなのは遠慮したいですけどね、天変地異とかそういうのは」
「大した自信だなあ…あ、じゃあさあ…」
「はい、なんです?どうぞどうぞ」
思いついた冗談を、そのまま口にする。
「今降ってるこの雨を、止ませてくれないかな?」
自分なりに気の利いた冗談を話したつもりだったが、彼女は露骨に嫌そうな顔をした。
「…ああ、駄目かな。天変地異の範疇に入るから?……まあごめん、冗談でしたよ」
「……いえー、できますけどね。割と簡単に。でもね、それやっちゃうと各方面から割とヒンシュクかっちゃうんで…」
「っていうと、たとえば農家の人とかからかな」
「むしろ仲間内からですかね。……っていうより、私が止ませたくないんですよねえ。雨、大好きですし」
「うん、それは見てれば分かる」
「でしょう?どうしましょうねえ…」
一度提示してしまった以上、嘘の“引き時”を逃してしまったのだろうか。
変に悩ませてもいけないし、妥結できそうな『お願い』に変えた方がいいかもしれない。
「ああ、それじゃあ。お金は出すから、傘を調達してきてくれないかな。それくらいなら…」
「いえ」
遮るようにびしっと両手を突き出し、
「やりますよ。雨を止めさせます。一度聞いた願いを取り下げさせるのは、恥ですから。それに…他ならない貴方の望みですからね」
さっきとは質の違う、なんだか慈悲深い微笑を浮かべてから、豪雨の中に立ち真上をぐいっと見上げた。
「それじゃあ、会えたならまたいつかお会いしましょう。お礼が言えてよかったですよ、ではでは」
返事をしようと口を開きかけた途端、視界がピカッ!と強い光で満たされた。
直後にゴロゴロゴロッ!と雷音がつよく喉を鳴らして渦巻き、聴覚も利かなくなった。
…しばらくして二つの感覚が戻る頃には、雨模様が夢だったかの様に、空は晴れていた。
感覚の残っていた鼻からも、雨の匂いはすっかり消え失せていた。
(…本当に、雨が止んだ…白昼夢でも見ていたんだろうか)
混乱する頭を抱えてしゃがみこんだそのとき、まだしっかりと戻り切らない視界の端で、何かが動いたような気がした。
目玉をその気配の方に向けると、小さな物体が動いているのを捉えられた。
素早く跳ねるように移動するそれは、狭い路地の奥の方へと消えていく。
何とはなしに、その動きを追っていく。
…するとその先には、小さな小さな生き物がいて。
三つ指をアスファルトにつくようにして、こちらを待っているようだった。
黄緑の明色が鮮やかなカエルが、濡れた身体のままに喉を鳴らしている。
たぶんこちらと目が合ってだろう、路地の奥へと逃げるように飛び跳ねていった。
その方向を見ると、小さな石造りの祠があって…奥をのぞくと、頬を膨らませた愛嬌のあるカエルの像がまつられていた。
――――いつぞやの晴れの日に気まぐれで、干上がりかけた路上のカエルを水場に移してやった事がある。
この小さな神様は、その恩返しに来てくれたのだろうか。
「……失敗したかな」
大きな望みを叶える機会を失ったことはともかく、大好きに違いない雨を止ませてしまった事を、今更ながらに悔いた。
「…まあ、しばらくは梅雨時で雨が続くはずだよ。それじゃ、また。雨の日にでも」
それだけ言って帰る前に祠の奥に目を凝らすと、さっきのカエルが像の上にのっかっていた。それからこちらに別れを告げるように、小さく一度、くるると喉を鳴らした。
ころころと、笑うように。