藤原家の人々との日々
「ーただいま戻りました」
珠は御簾越しに伝えると、中にいた紫式部が声をかけてくる。
「あら、珠。どこに行ってましたの?」
「自分の邸です。ちゃんと伝えたと思うのですが…」
「そうなの? ごめんなさいね。夢中で書物を読んでいたものですから」
「紫式部様が謝ることはございません。珠が至らず、申し訳ございません」
「いいのよ。ほら、早く上がって」
「はい」
珠はそう言うと、御簾の中へ入る。
するとすぐに紫式部の娘ー賢子がやって来て、抱きついてくる。
「お帰り、珠」
「はい。ただいまですわ、賢子様」
珠は嬉しくなり、心から笑顔を浮かべると、賢子の頭を撫でてあげる。
「えへへ」
賢子は笑い、珠に質問してくる。
「これ、何を持っているの?」
「ああ、これは旬のものですよ」
「旬…? それって、何?」
賢子が聞くと、紫式部も興味があるのか、立ち上がってやって来る。
「まあ!! それは…」
「はい。柿と栗ですわ。紫式部様に召し上がってもらおうと思いまして。受領の父親が持たせてくれました」
珠は誇るように胸を張ると、紫式部がほほと笑う。
「いい形をしていて、艶がありますわ。これは彰子様も喜びそうですわね」
「え、彰子様に、ですか? うーん、どうしましょう。我が家の力で手に入れたものなので、下手なものではありませんが…」
「まず私どもが味見しますか? ー珠、よろしく」
「はい。栗は後でいいですか?」
「茹でなければなりませんものね。とりあえず柿だけいただきましょうか」
「わあ!! やったあ!!」
賢子がうさぎのように跳ねるのを微笑ましく見、珠は柿を剥こうと厨房へ向かおうとする。
すると琴の音が聞こえてきた。
「あれ、もしかしして…」
「この音は彰子様ですわ。鳥の鳴き声にも負けずに、美しい音。心が軽やかで、澄んだものになっていきますわ」
「そうですね。御上手です」
珠は耳に手を当てると、琴の音にしばらく集中する。
ー彰子様の御心が綺麗だから、琴の音もそれを表して、皆、笑顔になりますわ。
主人の紫式部はもちろん、その上にいらっしゃる中宮彰子は珠にとって雲の上の人だった。
紫式部にお供して、彰子のいる藤壺に訪れることもあるのだが、まともに顔を見たことがなかった。
ー声音が優しい御方なんですわ。正義感も強いですし。良い成長をなさっているとしか言えませんわ。
一条天皇との仲も睦まじいと聞くので、理想の夫婦像だった。
紫式部は夫を早くに亡くしているので、娘の賢子といる姿が多く見られる。
珠は賢子のことを、妹のように思っており、一緒に遊んだり、いたずらしたりと、仲が良かった。
「…あれ。笛の音が」
「あら、本当ですわ」
紫式部が手を合わせ、目を輝かせる。
誰の音色かすぐに分かったようだった。
「紫式部様、笛の音を奏でているのは、もしかして…?」
「ふふ。一人しかおりませんわ」
笛の音は琴の音と相まって、秋晴れの空へと上がっていく。
皆、つられたように空を眺め、その眩しさに目を細める。
鳥が歌うように過ごしていき、笛と琴の音はぴったりと息が合っており、離れそうになかった。
「…笛の名手ですもの、一条天皇は」
「そうなんですか? …はあ、いいものを聞かせてもらっています」
ありがたや、ありがたやと珠は手を合わせ、こすりつける。
十歳の賢子がその真似をし、紫式部がにこやかに笑う。
「お二人の仲の良さが分かりますわ」
「そうですね。注がれている光は、二人だけのもののように、美しく輝いています」
「あら、珠も美しく表現できるようになりましたわね。物語でも書いてみますか?」
「え…あの、その」
珠は紫式部に仕えながら、書き物の弟子だった。
まだ日記を書く程度の力しかないが、いずれは紫式部が手がける源氏物語みたいに、長編を書いてみたかった。
「あ、やんだ」
ふわりとした空は、一条天皇と彰子のようで、ゆらりと流れていく。
珠は紫式部と向き合うと、真面目に言う。
「私もいつかは物語が書きたいのですが、今は紫式部様の元で勉強させていただきたいですわ」
「そう? 私が家庭教師で役に立つかしら?」
「当然です!! 源氏物語、面白いですもの!!」
力強く言うと、賢子が嫌がる素振りをした。
「珠、痛い」
「あ、ごめんなさい、賢子様。…じゃあ、柿を剥いてきます」
「ええ。行ってらっしゃい」
珠が下がろうとすると、御簾の外から声がかかる。
「ーいい音だったね、紫式部」
「…そのお声は…」
来客の登場に、珠は膝をつこうとして止められる。
「いや、いい。そのままで」
「し、しかし…。…あ、あの、紫式部様、この御方は…?」
「あら、珠は初めてだったかしら?」
紫式部はそう言うと、その場に座り、手をつく。
「ー頼通様、いらっしゃいませ」
頼通、と珠は口にすると、やはり素早く頭を下げる、
藤原道長の長男で、将来は父親と同じく、政の中心になるともくされている人物だった。
ー噂には聞いていたけれど…。
賢子と手を繋ぎ、隅のほうへ行くと、紫式部が大丈夫と告げてくる。
「頼通様は温和で真面目な御方ですから」
「そうなのかい? 私のことを皆、そう思っているのかな?」
頼通の質問に、紫式部は「はい」としっかり答える。
「道長様の血を受け継がれている御方ですもの。将来は立派な采配をふるうと、皆がおっしゃっていますわ」
「そうか。それは嬉しいことだ」
ほほと頼通が笑い、裾で口元を隠す。
珠は緊張しているのだが、頼通の物腰は柔らかいようで、嫌な感じはしなかった。
「それで頼通様、今日はどんな御用で…?」
「いや、お姉様の元へ行こうと思っていたのだけれど、邪魔するわけにはいかないからね。野暮な男は近づくのをやめたというわけだ」
「まあ!! 野暮な男なんて…!! そんなことは言ってはいけませんわ」
紫式部がたしなめると、頼通はますます上機嫌になる。
「紫式部は? 今、忙しいの?」
「いいえ。今は休憩中ですわ。その、お供の者が旬のものを持ってきたので、くつろごうかと」
「旬のもの? 何だい?」
「柿と栗ですわ。彰子様に差し上げる前に、味見をしようと思ったところですの」
「なるほど。私も一口、いただいていいかな?」
「ー珠、柿を頼通様にお渡しなさいませ」
「は、はい…!!」
ざるから栗を避けると、御簾越しに差し出す。
頼通の姿を見ないように俯きながら下がると、明るい声がしてくる。
「いい形をした柿だね。これ、私がもらっても…?」
「頼通様がもらってくださいますの? それでしたら、もっとあったほうがいいと思いますが…。珠、柿はまだありますの?」
「あ、あります…!! 行って来ましょうか?」
「いや、これだけでいい。お姉様の口にも入れたいから、私が味見するよ。いいかな?」
「え…。その、もし渋かったら…」
「こら、珠。失礼ですわよ」
「は、はい…。申し訳ございません」
「いや、いい。無理を言っているのは、私だから。お姉様には私から、ちゃんと誰から受け取ったものか伝えておくから。いいね?」
「もちろんです」
「…柿、もうないの?」
「賢子様、しっ。また持って来ますから」
珠は賢子をたしなめると、彼女は静かにうなずく。
頼通はその光景を目にし、ほほと笑う。
「賢そうな娘だ。名は賢子というのか」
「はい。まだ十ですので、お許しくださいませ」
「いや、いい。…さて、そろそろお姉様のご機嫌うかがいに行ってもいいかな」
「そうですわね…。どうしましょうか」
一条天皇と彰子が抱き合っている姿が想像でき、珠としては後のほうがいいのではと思ってしまう。
ーでも、弟君だったらいいのかな…?
駆け引きややり取りは分からないが、紫式部をちらりと見れば、外の眩しさに目を細め、頼通に告げる。
「しばらくここにいらっしゃいますか? 物語などを読まれたりなさったりしてはいかがでしょう?」
「物語? 源氏物語ができたのかな?」
「まあ!! それでしたら、まだですわ。あと少し、何かが足りませんの。申し訳ございません」
紫式部が心から謝罪すると、頼通がよいと手を振る。
「楽しみにしているよ、いつも」
「ありがとうございます。期待に応えようと思いますわ」
二人はほほと笑うと、頼通が御簾から離れる。
「じゃあ柿はもらっていくから。そのお返しに、反物でも渡そうか?」
「いいえ。そんな高価なものはいただけませんわ。また私どもは後でいただけばいいだけですし」
紫式部が遠慮したので、珠ももったいないとばかりにうなずく。
「はは。じゃあ失礼するよ」
「はい。またお越しくださいませ」
紫式部が丁寧に言うと、頼通は機嫌良く去っていく。
足音が聞こえなくなるまで待つと、珠はふーと息を吐き出す。
「珠? どうなさいましたの?」
「どうなさいましたって…とても緊張しましたわ!! 私の柿でよろしかったのでしょうか?」
「こら。自分のものを卑下しないの。自信をもちなさい」
「は、はい」
珠は静かに言うと、紫式部が残った栗に触れてくる。
「大粒ね。美味しそうだわ」
「早速、茹でて来ましょうか?」
「そうね。お願い」
珠は頭を下げると、部屋を後にしたのだった。




