かつてのエリートの呟き
桂子の新しい仕事が始まった。それほど心配することもなかった。新しく立ち上げられたプロジェクトでの大量募集だったらしく、仕事の難易度もそれほどではなく、今のところ問題なく通えているようだった。
「うん、今度は機嫌よく行けてるようだな。」
昭夫はひとまずほっと胸を撫で下ろす。が、穏やかな時間はそう長くは続かなかった。
ある土曜日の午後、静けさが破られた。突然、桂子の金切り声が聞こえた。
「ちょっと、昭夫さん、これは、何?」
桂子は珍しく書類を片付けていたようだ。そして、その手には、あの、昭夫だって二度と見たくなかった、あの時の、退職届の控えが握られていた。
「昭夫さん、あの時、自己都合退職したの?一体、どうして?昭夫さん、自分は中途退職なんかした事はないって、いつも威張ってたじゃない。」
昭夫は、どう答えてよいものやら、しどろもどろで、言った。
「だから、体調が悪かったんだよ。あの後、俺が入院したこと、憶えているだろう」
桂子は食い下がる。
「あの時、一体、昭夫さんの身体のどこが悪かったのか、説明してもらえなかったから、ちょっとおかしいと思ったのよ。本当は、何だったのかしら」
桂子がいつまでも、昭夫が辞めた本当の理由を知りたがって始末に負えないから、仕方なしなし昭夫は桂子に、あの時、無理矢理に自己都合退職させられた本当の理由を話した。
桂子は、わなわなと震え出した。
「昭夫さん、どうして、何も言ってくれなかったの?それに、どうして、黙って引き下がったの?そんな女も派遣会社も、訴えればよかったのに。
なんで、昭夫さんだけが、貧乏くじを引いたの?」
桂子はもはや、半狂乱だ。
かつて、俺の指先一つで、国際線の飛行機の管制塔の指示が滞りなく出されていた。世界中の命を預かるシステムの背後で、俺は「万事うまくいく」と信頼される存在だった。
だが今、俺の手にあるのは、身に覚えのない不名誉と、震える妻の手だけだ。
たまに、あの頃の後輩がうちに来ていた。桂子が仕事で出ている時に、こっそり呼んでいたのだ。
その後輩の沼田くんは、時々、仕事の話を持ってきてくれたが、いつも断っていた。
もう社会の歯車の一部として働く意欲は消え失せていた。
いつか、桂子の休みの日に沼田くんが来た時に、彼は桂子にこう言っていた。
「奥さん、杉村さんは凄い人なんですよ。どんな難題が起きても、杉村さんに任せれば、即座に解決しましたよ。杉村さんあっての僕たちなんです。だから、何も心配することはないですよ。」
桂子も少しは俺を見直したのかな。だとしても、一時的なものだな。都合のわるいことはすぐに忘れる。
あの時、言われたことが少しでも身に沁みてたら、今、こんな金切り声で騒いだりしないよな。




