幸福の淡い兆し
桂子が還暦になる年が明けた。桂子は年金事務所へ行って来たと言う。あと数ヶ月で60歳になったら、年金を前倒しでどの位もらえるか聞いたのだと、そして、桂子は今、仕事をしていない。最後の仕事は、なんと、たった2日で辞めた。「昭夫さん、私ね、隣の席の人が急に恐ろしくなったの。だって、パソコンがまったく出来ない振りをするのよ。で、私に聞いてきて、何度教えてもわかってくれないから、イライラして、大きい声をあげちゃって、そしたら、上の人から睨みつけられて。」涙ながらに2日で辞めた言い訳をする。いつものことだ。
「昭夫さん、ハローワークに行ってきたの。当分は失業手当てが受けられるから、その間はお休みさせてね。」
失業手当てが無事に受けられて本当によかった。僅かでも、今の自分たちにとっては救いだ。
桂子はなんだか最近楽しそうだ。いつもサボりがちだった家事を少しずつやり出した。時には、料理もしてくれた。きんぴらゴボウは得意だったのよ、だなんて鼻歌まじりにゴボウを切っている。よくよく聞けば、桂子は、かかりつけの精神科の先生が推しになったようだ。まったくこちらの気も知らないで、先生に迷惑にならなければよいが。
一体、桂子の病の正体は本当のところ、何なのだろう。いつも何を考え何を言い出すのやら皆目分かりかねて困り果てる。
いっぺん大きな病院で診てもらったらどうだろう。
桂子に転院案を言い出してみた。推しの先生を変えたくはないだろう。やはり、不服そうではあったが、「私もちょっと自分の病気について詳しく調べてみたいとは思っていたの。じゃあ、あの病院の予約がもし取れたら、転院するわ。」
医師不足でなかなか予約が取れないと言われていたその病院の予約は、あっさり取れた。桂子は電話を終え受話器を置いてしばし何やら考え込んでいたが、気持ちの切り替えは案外早かったようだ。
「昭夫さん、転院もするし、仕事もまた探すわね。また働きたくなってきちゃった。」
昭夫は、桂子の転院も、仕事をするという決意も、嬉しくはあったが、なんだか狐につままれたような気分に戸惑っていた。桂子のことだから、また気が変わるかもしれないな。覚悟しておこう。




