『贅沢』の定義、書き換え
「上野のレストラン?……いや、行かないよ」
昭夫の声は、自分でも驚くほど静かで、迷いがなかった。
桂子がパチクリと目を丸くする。「えっ、お祝いなのに?あそこのコース、昭夫さんも去年は喜んでたじゃない」
「去年は、な。でも今は状況が違うんだ」
昭夫は、キッチンの棚から、最近使い始めた自分専用の『食事管理ノート』を取り出した。そこには、内科で言われた血糖値の推移と、日々の献立、そして自分の体重が几帳面に記録されている。
「糖尿病の数値、これ以上悪くしたくないんだ。外食のコース料理は、俺にとっては毒を食べているようなものだよ。それに、せっかく在宅の仕事が決まったんだ。その報酬を、一夜の贅沢で消したくない。俺は、もっと長く、自分の足で歩いて、この仕事を続けたいんだよ」
桂子が口を尖らせる。「せっかく私が提案したのに!私の気持ちを無視するのね!あぁ、もういいわ、離婚よ!離婚!」
いつもの『切札』。だが、今の昭夫には、それが湿気ったマッチのようにしか見えなかった。
「あぁ、そうか。でも、離婚するにしても健康でなきゃ手続きもできないぞ」
昭夫は受話器を取る代わりに、冷蔵庫から立派な「ほうれん草」と「鶏のささみ」を取り出した。
「レストランに行くお金の、四分の一もあれば、最高に体に良くて美味いもんが食える。桂子、お前も最近、胃が重いって言ってただろう?今日は俺が作る。お祝いは、家で、この栄養満点のメニューでやろう」
桂子は、怒鳴るタイミングを失ったように呆然と立っていた。昭夫が自分の意見を曲げず、しかもそれが「自分の体を守るため」という正論に裏打ちされていることに、毒気を抜かれたようだった。
昭夫は、丁寧にアク抜きをしたほうれん草をお浸しにし、ささみを柔らかく蒸し上げた。
「いただきます」
一口食べた。自分で調べ、納得して選んだ食材の味は、どんな高級店のソースよりも、昭夫の心に深く染み渡った。
「美味い……」
3kg減った体は、少しずつ、でも確実に、昭夫自身の意志で満たされ始めていた。




