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喪失

 夜の部屋の天井は、昼間より少しだけ遠く見えた。

 静まり返った空気。

 カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、淡く壁を撫でている。


 私はベッドに横たわったまま、じっと動かなかった。


 身体は疲れているはずなのに、眠気は訪れない。

 代わりに、胸の奥だけが妙にざわついていた。


 ――……ねえ。


 微かな声。


 耳ではなく、意識の内側に直接触れるような感覚。


 私はゆっくり目を閉じた。


「……起きてるよ」


 声を出さずに答える。


 すると、すぐに気配が揺れた。


 ――……今日。


 言葉は、震えていた。


 ――……怖くなかったの?


 その問いに、私は少しだけ息を止めた。


 怖くなかった、と言えば嘘になる。

 だが、恐怖とは少し違う感覚だった。


「……怖かったよ」


 正直に言う。


 ――……え……


「でも」


 私はゆっくりと言葉を選ぶ。


「怖さの種類が違った」


 沈黙。


 胸の奥で、小さな気配が戸惑う。


 ――……種類?


「うん」


 暗闇の中で、意識だけが静かに澄んでいく。


「昔の俺が感じてた怖さとは違う」


 ――……


「逃げ場がない怖さじゃない」


 あれは、もっと別のものだ。


 職場で聞き続けた声。

 絶望。

 本物の、崖の縁。


「……あれは」


 喉の奥で言葉が僅かに引っかかる。


「ただの支配だ」


 空気で縛るだけの、歪んだ遊び。


 胸の奥の鼓動が、小さく揺れる。


 ――……でも……


 弱々しい声。


 ――……私には……あれが全部だった……


 その言葉に、胸の奥が微かに締め付けられた。


 ああ。


 そうだ。


 この身体にとっては。


 この少女にとっては。


 世界そのものだったのだ。


 私は静かに目を開けた。


 暗闇。


 天井。


 現実。


「……なあ」


 少しだけ柔らかく意識を向ける。


「今日さ」


 ――……


「ちゃんと見えてたか?」


 ――……え……


「向こうの顔」


 沈黙。


 鼓動が、不安定に揺れる。


 ――……見た……


 小さな声。


 ――……あんな顔……初めて見た……


 私はわずかに笑った。


「だろ?」


 あれは確かに綻びだった。


 完璧な加害者の仮面に走った、決定的な歪み。


「人間ってさ」


 静かな思考。


「崩れる瞬間が一番正直なんだよ」


 ――……


「怒りじゃなかった」


 あれは。


「焦りだ」


 胸の奥の気配が、ゆっくりと息を吸う。


 ――……私……間違ってなかったのかな……


 その問いには、少し時間が必要だった。


 私はすぐには答えなかった。


 代わりに、静かに胸へ意識を落とす。


 二つの鼓動。


 重なり合う存在。


「……正解なんてない」


 ようやく言う。


「でも」


 暗闇の中で、言葉だけが確かな輪郭を持つ。


「終わり方は選べる」


 ――……


「潰されて終わるか」


 わずかな間。


「立ったまま終わらせるか」


 長い沈黙。


 そして――


 ――……一緒に……終わらせてくれる?


 その声は、ほとんど祈りに近かった。


 私は迷わなかった。


「当たり前だろ」


 即答。


「そのためにここにいる」


 胸の奥で、鼓動が大きく跳ねた。


 涙の気配。


 安堵の揺れ。


 ――……ありがとう……


「……寝ろ」


 静かに言う。


「明日もある」


 ――……うん……


 意識の深部で、気配がゆっくりと沈んでいく。


 緊張が解ける感覚。

 波が引くような静寂。


 私は天井を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「……まだ、終わらせない」


 呟きは、夜に溶けていった。


 ◆


 朝。


 カーテン越しの光。


 柔らかな白。


 私はゆっくりと目を開けた。


 天井。


 部屋。


 いつもの景色。


「……あれ……」


 喉の奥から自然に声が漏れる。


 妙な違和感。


 夢を見ていた気がする。


 いや、夢というより――


「……なんだっけ……」


 思い出そうとした瞬間、記憶が霧のように散った。


 胸の奥。


 静か。


 妙なほど静かだった。


 いつも感じていたはずの、あの奇妙な二重感覚がない。


 私はゆっくりと身体を起こした。


 頭が少し重い。


 けれど、それだけ。


「……変な夢……」


 ぼんやりと呟く。


 何か、大切なことを話していた気がするのに。


 輪郭がない。


 掴めない。


 その時。


 スマホが震えた。


 机の上。


 見慣れた画面。


 何気なく手に取る。


 通知。


 見慣れない名前。


『みずき』


「……え?」


 眉が寄る。


 自分の名前。


 だが、登録した覚えはない。


 不審な違和感。


 恐る恐る開く。


 メッセージ。


 短い文章。


『おはよう』


 心臓が、わずかに跳ねた。


 次の行。


『今日は無理しなくていい』


 指が止まる。


 意味が、すぐには理解できない。


 さらにスクロール。


『でも、逃げなくてもいい』


 喉の奥が乾く。


『もう大丈夫だから』


 画面を見つめたまま、私は固まった。


「……誰……?」


 知らない。


 こんな人。


 こんなやり取り。


 なのに。


 胸の奥が、不自然なほどざわつく。


『俺はちゃんといる』


 呼吸が浅くなる。


『だから、生きろ』


 その一文。


 それだけで。


 理由もなく、涙が込み上げた。


「……なに……これ……」


 理解できない。


 記憶にない。


 なのに。


 言葉の一つ一つが、異様に近い。


 心臓のすぐ隣で囁かれているような感覚。


 私は無意識に胸へ手を当てた。


 鼓動。


 一つ。


 ただの、いつもの鼓動。


 けれど。


 どうしてだろう。


 どうしてこんなに――


 寂しい。

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