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敗北

 放課後。


 チャイムの残響が校舎の奥へ溶けていく。

 教室のざわめきは、ゆっくりと形を変え始めていた。


 帰り支度の音、椅子の擦れる音、笑い声。

 だが――その裏側に、確かに別の気配が混じっている。


 視線。

 囁き。

 気配。


 私はそれを無視するようにカバンを持ち上げた。


 背後で、わざとらしい笑い声。

 主犯の少女は、何事もなかったような顔で友人と話している。

 けれど、スマホを握る指だけが、不自然なほど強張っている。


 ――来る。


 確信に近い感覚だった。


 廊下。

 夕方特有の静けさ。

 部活動へ向かう生徒の足音が遠ざかり、校舎の空気が薄くなる。

 その中で、背後にぴたりと重なる足音。

 一つ。

 二つ。

 三つ。


 逃げない。

 私は歩調を変えなかった。


 女子トイレの前で立ち止まる。

 ほんの一瞬だけ、空気が揺れた。

 それでも私は迷わず扉を押した。


 ◆


 静寂。

 蛍光灯の白い光。

 無機質なタイルの匂い。

 手を洗う水音すらない、異様な静けさ。

 奥へ進む。

 鏡。

 洗面台。

 個室。

 そして――


 背後で扉が閉まる音。


 カチャリ。


「……」


 振り向かない。

 振り向かなくてもわかる。

 空気が変わった。


「……ほんと、ムカつくんだけど」


 甘さのない、剥き出しのトーン。

 ゆっくり振り返る。

 主犯の少女。

 取り巻き二人。

 逃げ場は綺麗に塞がれている。

 様式美。

 実に丁寧な配置だった。


「……なに?」


 私は静かに問い返した。

 少女の眉が僅かに歪む。


「なに?じゃないでしょ」


 一歩、近づく。

 ヒールの硬い音がタイルに響く。


「今日さ」


 笑う。

 だが、その笑顔は完全に冷えていた。


「調子乗りすぎ」


 距離。

 呼吸。

 視線。

 私はただ彼女を見る。

 怒りの質。

 苛立ちの深度。

 恐怖の混ざり具合。


 ――ああ。


「……怖かった?」


「……は?」


「思ったより効かなかったから」


 一瞬。

 ほんの一瞬。

 彼女の瞳が揺れた。

 取り巻きの一人が舌打ちする。


「なに強がってんの?」


 肩を押される。

 力は強くない。

 だが、意図は明確。

 壁。

 逃げ場のない圧。


「……ねえ」


 主犯が顔を寄せてくる。

 距離が異様に近い。

 甘い香水の匂い。


「アンタさ」


 低く囁く。


「自分の立場わかってる?」


 沈黙。

 私は視線を逸らさなかった。

 それだけで、空気が僅かに歪む。


「……何様?」


「別に」


 静かに答える。


「人間だけど」


 空気が凍る。

 取り巻きが息を呑む。

 主犯の唇が引きつる。


「……マジでさ」


 声が低く沈む。


「殴られたいの?」


 次の瞬間。

 胸ぐらを掴まれる。

 強く。

 制服の襟が引き寄せられる。

 少女の顔。

 至近距離。


 息が詰まる。

 細い首が圧迫され、喉が締め付けられる。

 少女の身体は脆い。

 肺が小さく縮こまり、息が浅くなる。

 なのに……視界は揺れない。

 思考は、冷静に、彼女の瞳の奥を観察し続ける。


 ――震えている。


 彼女の手。

 指先が、微かに震えている。

 私は小さく息を吐いた。


「……ねえ」


「なに」


「それ」


 視線を落とす。

 彼女の手。


「余裕ある人間の力加減じゃないよ」


 完全な静止。

 彼女の呼吸が止まる。

 取り巻きが顔を見合わせる。


「……は?」


 だが、声の奥に僅かな動揺。

 私は続けた。


「怖いんでしょ」


「……」


「壊れ始めてるの」


 バシッ。

 頬に衝撃。

 乾いた音。

 遅れて、熱が走る。

 頬骨の辺りがジンジンと疼き、腫れ始めているのがわかる。


 少女の身体は、こんな衝撃にも脆く反応する。

 痛みが、波のように広がる。

 なのに。

 私は倒れなかった。

 ゆっくり顔を戻す。

 無言で彼女を見る。

 その視線。

 その静けさ。

 痛みは身体のもの。

 精神は、43歳の俺のもの。


 痛みより、彼女の震えの方が鮮明だった。


「……なによ……」


 主犯の声が、僅かに掠れる。

 私は淡々と答えた。


「それで終わり?」


「……」


「次は?」


 空気が、明確に変わる。

 殴った側の違和感。

 支配者側の想定外。


「……アンタ……」


「感情で動き始めてる」


 静かに言う。


「もう、負けかけてるよ」


 ◆


 沈黙。

 呼吸音だけが響く。

 取り巻きの一人が視線を逸らす。

 もう一人が、明らかに戸惑っている。

 主犯の瞳に滲む揺れ。

 怒りではない。

 別の――不安。


 私はゆっくりと壁から身体を離した。

 誰も、動けない。


「……やりたいならやればいい」


 静かな声。


「でも」


 真正面から彼女を見る。


「それで終わるのは、そっちだよ」


 ◆


 長い沈黙。

 蛍光灯の音だけが耳に残る。

 主犯の喉が、小さく鳴る。


「……帰る」


 ぽつり。

 取り巻きの一人が呟いた。

 空気が、微かに崩れる。

 主犯の少女の瞳が、大きく揺れた。

 ほんの一瞬。

 決定的な――綻び。

 私は何も言わなかった。


 ただ。

 静かに彼女を見続けた。

 逃げ場のない沈黙で。

 その視線から、彼女は最後まで目を逸らせなかった。

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