空気
休み時間のざわめきは、以前より少しだけ遠く感じた。
笑い声、椅子の軋み、机を引きずる音――教室はいつも通りの顔をしている。
けれど、私の周囲だけが、妙に静かだった。
誰も露骨に声をかけない。
睨みつけるわけでも、嘲笑うわけでもない。
ただ、話しかけられない。
視線はあるのに、言葉が存在しない。
空気が、綺麗に切り分けられている。
隣の席の女子に、試しに声をかけてみた。
「ねえ」
一瞬、目が合う。
そして、何事もなかったように逸らされる。
その小さな間、その僅かな躊躇だけで、すべてがわかった。
――指示されている。
言葉じゃない。
命令でもない。
もっと陰湿で、もっと正確な支配。
“空気での統制”だ。
スマホが、机の下で震えた。
そっと画面を覗く。
あいつのアカウント。
無機質な初期画像のアイコン。
『復活おめでとう』
眉が僅かに動く。
タップすると、次々と悪意が並ぶ。
『また来るんだw』
『強くなったつもり?』
『調子乗ってるとさ』
『今度は何日もつかな』
『あの顔でよく来れるよね』
喉の奥が、ひくりと震えた。
「……最悪……」
小さく呟いた瞬間、胸の奥で感情がざわりと揺れた。
――……やっぱり……
恐怖。
諦め。
あの底なしの感覚が、じわりと這い上がってくる。
私はそっと息を整えた。
(飲まれない)
だが、次の通知で指が止まった。
写真。
ぼやけた画像。
机と制服。
――私。
いつ撮られた?
血の気が引く。
『無防備すぎw』
『スカート短くね?』
『見えてんだけど』
息が詰まる。
角度も切り取り方も、悪意が露骨すぎる。
反射的にスカートを押さえた。
その動きの瞬間、教室の隅で小さな笑いが漏れた。
振り向かない。
振り向かなくてもわかる。
見られている。
観察されている。
反応を、楽しまれている。
次の授業。
机。
何かが――
ザラリ。
画鋲。
クラス中に聞こえるほどではない。
だが、確実な痛み。
「……っ……」
身体が反射的に浮く。
背後で、くすり。
笑い。
小さな、湿った音。
無言で立ち上がった。
椅子を見下ろす。
画鋲は巧妙に隠されていた。
悪意が、几帳面すぎる。
「……誰……」
問いかけは虚空に溶ける。
誰も答えない。
誰も見ない。
誰も関わらない。
そして――
柔らかい、異様な感触。
手に取る。
コンドーム。
未使用。
だが、意味はあまりにも明確だった。
喉の奥が凍りつく。
空気が、一瞬で歪む。
「……は?」
声が漏れた。
取り巻きの一人が吹き出す。
誰かが肩を震わせる。
主犯の少女が、ゆっくりこちらを見る。
完璧な笑顔。
「なにそれ」
とぼけた声。
「知らないけど?」
視線。
笑顔。
演技。
すべてが完成されている。
胸の奥で、感情が爆ぜた。
嫌悪。
怒り。
屈辱。
――違う。
それだけじゃない。
もっと深い。
もっと黒い。
――やだ……
震える声。
潰れそうな感情。
――やっぱり……
私はそれを強く握りしめた。
潰れそうなほど。
白い指が震える。
だが、視線は逸らさない。
「……くだらない」
教室の空気が、止まった。
主犯の眉が僅かに動く。
「それで何?」
静かに、淡々と。
「何が楽しいの?」
誰も笑わない。
誰も動かない。
「……は?」
主犯の声が低くなる。
「強がってんの?」
私はゆっくりとそれを机に置いた。
視線を外さないまま。
「……気持ち悪いな」
静寂。
空気が凍る。
「人の人生で遊んで」
言葉が、静かに落ちる。
「そんなに暇なの?」
主犯の笑顔が、完全に消えた。
取り巻きが息を呑む。
「……アンタさ」
低い声。
抑え込まれた苛立ち。
「調子乗ってんじゃねぇよ」
彼女の指が、スマホを強く握りしめる。
画面をチラリと見る。
誰かにメッセージを打ち始めるような仕草。
取り巻きの一人に、視線を飛ばす。
小さな頷き。
「後でな」という囁きが、かすかに聞こえた。
彼女の瞳に、焦りと怒りが混じり始めている。
私はただ、彼女を見た。
観察するように。
感情を削ぎ落とした目で。
「……怖がると思った?」
その一言。
それだけで。
彼女の瞳が揺れた。
教室の空気が、確かに、音を立てず軋み始めていた。
チャイムが鳴る。
放課後。
私は席を立つ。
背後に、視線が刺さる。
主犯がスマホを耳に当てる仕草。
取り巻きがこちらをチラチラ見ながら立ち上がる。
ロッカーの方へ、誰かが向かう気配。
裏垢の通知が、また震える予感。
廊下から、先生の声が聞こえてくる。
――まだ、終わっていない。
胸の奥で、もうひとつの鼓動が、強く、警戒するように鳴った。




