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登校

 朝の空気は、やけに澄んでいた。


 冷たいのに、嫌な冷たさじゃない。

 胸の奥まで、すっと通るような冬の匂い。


 校門の前で、足が止まる。

 見慣れないはずの景色。

 なのに、この身体は迷わない。

 門柱。掲示板。昇降口までの石畳。


 ――覚えている。


 私の記憶。

 この子の記憶。

 二つが、重なっている。


「……行ける」


 小さく呟く。

 胸の奥で、鼓動が跳ねた。

 ドクン。

 返事みたいに。


 ◆


 昇降口。

 靴箱。

 ざわめき。

 朝特有の、あの独特の空気。

 笑い声。

 談笑。

 他愛のない会話。


 その中に、ほんの少しだけ混じる――違和感。


 視線。

 一瞬。

 ほんの一瞬だけ。

 空気が揺れる。


「……あ」


 誰かの声。

 小さい。

 でも、確かに聞こえた。

 視線が、集まる。

 止まる会話。

 わずかな沈黙。

 その、わずかな時間が異様に長く感じる。


 ――これだ。


 思い出す。

 この重さ。

 この居心地の悪さ。

 高校生の世界特有の、

 “言葉にならない圧”。


 だが。

 以前と決定的に違うものがある。


 怖くない。

 少なくとも――飲まれない。

 私は、ゆっくりと靴を履き替えた。


 ◆


 教室の前。

 ドア。

 深呼吸。

 一度。

 もう一度。

 ――開ける。

 ガラリ。

 音が、やけに大きく響いた。

 そして。

 完全な沈黙。

 見事なまでの静寂。

 数十人分の視線。

 刺さる。

 包む。

 測る。


「…………」


 誰も、何も言わない。

 空気が、重い。

 けれど。

 私は逃げなかった。

 教室を見渡す。

 机。

 黒板。

 カーテン。

 光。

 そして――人間。


「……おはよう」


 自分でも驚くほど、自然な声だった。

 少女の声。

 だが。

 芯だけは、妙に落ち着いている。

 教室の空気が、わずかに揺れる。

 小さなざわめき。


「……あ……お、おはよう……」


 誰かが返す。

 ぎこちない。

 遠慮。

 戸惑い。

 けれど、それだけじゃない。


 ――様子見。

 この瞬間の心理が、手に取るようにわかる。

 元の世界で、何度も見た光景。

 人間の群れの反応。


 ◆


 席へ向かう。

 歩く。

 スカートの裾が揺れる。

 床の感触。

 背中に刺さる視線。

 だが。

 途中で、その気配は変わった。

 強く。

 明確に。


「……来たんだ」


 声。

 甘い。

 だが、冷たい。

 振り向かなくてもわかる。

 主犯。

 空気の中心。

 教室の支配者。

 私は、立ち止まった。

 ゆっくり振り返る。


 ◆


 彼女は笑っていた。

 完璧な笑顔。

 だが、目だけが笑っていない。


「あれ? どうしたの?」


 柔らかい口調。


「もう来ないと思ってた」


 取り巻きが、くすりと笑う。

 小さな波紋。

 これもまた、様式美。

 イジメの儀式。

 私は黙って彼女を見る。

 観察。

 癖。

 表情筋。

 声のトーン。

 呼吸。


 ――なるほど。


「……何?」


 彼女の眉が、わずかに動く。

 ほんの微細な変化。

 だが、見逃さない。


「いや」


 私は、静かに答えた。


「別に」


 その瞬間。

 教室の空気が、また揺れた。

 予想外の反応。

 噛み合わない台本。


「……ふーん?」


 彼女が一歩近づく。

 距離を詰める。

 支配の動き。


「元気そうじゃん」


 軽く肩を叩く。

 一見、ただのスキンシップ。

 だが。

 力加減。

 タイミング。

 完全に“見せつけ”。


 ◆


 私は、彼女の手を見た。

 そして。

 初めて、ほんの少しだけ笑った。


「……ねえ」


「なに?」


「それ」


 視線を上げる。

 真正面。

 逃げない。


「先生の前でもやるの?」


 ――沈黙。


 空気が、止まった。

 完璧なまでの静止。

 取り巻きの笑顔が固まる。

 彼女の瞳が、わずかに揺れる。

 ほんの一瞬。

 ほんの、刹那。

 だが。

 確かに。

 そして。

 その揺れが、すぐに苛立ちに変わる。


「……は?」


 笑う。

 主犯の笑顔。

 だが。

 僅かに混じる苛立ち。

 彼女の視線が、取り巻きの一人にチラリと飛ぶ。

 取り巻きの一人が、慌てて目を逸らす。

 彼女の指が、軽く握りしめられる。

 爪が、掌に食い込むのが見えた。


「……意味わかんないんだけど」


 声が、僅かに硬くなる。

 私は肩をすくめた。


「そっか」


「じゃあいいや」


 興味なさげに席へ向かう。

 背を向ける。

 この行動。

 計算ではない。

 自然だった。


 ◆


 ドクン。

 胸の奥。

 もうひとつの鼓動が、大きく跳ねた。


 ――え……


 微かな声。

 不安。

 戸惑い。

 恐怖の残滓。

 私はそっと胸に手を当てた。

 誰にも気づかれない動きで。


(大丈夫)


 心の中で、静かに告げる。


(もう違う)


(前と同じじゃない)


 ◆


 背中に刺さる視線。

 だが。

 質が変わっている。

 さっきまでの

「標的を見る目」ではない。

「空気を読む目」になっている。

 この変化。

 この微細な揺らぎ。

 支配構造の、最初の亀裂。


 ◆


 席に座る。

 静かに。

 何事もなかったように。

 だが。

 休み時間のチャイムが鳴る頃、

 教室の隅で、彼女がスマホを手に取るのが見えた。

 指が、素早く画面をスクロール。

 取り巻きの一人が、彼女の横に寄って、何かを囁く。


 彼女の唇が、歪む。


 ――裏垢か。


 SNSの影。

 ロッカーの視線が、一瞬、こちらに向く。

 誰かが、そっとロッカーを開けて、何かを確認するような仕草。


 放課後への予感。

 まだ、終わっていない。

 次の手が、静かに、だが確実に動き始めている。


 ◆


 胸の奥で。

 二つの鼓動が、確かに重なっていた。


 ドクン。

 ドクン。


 ――……ほんとに……


 小さな声。

 震えながら。

 けれど。

 確かに。


 ――……怖くない……?


 私は、窓の外を見る。

 冬の光。

 淡い空。

 そして、静かに答えた。


(ああ)


 ほんの少しだけ笑う。


(怖くないよ)


 でも。

 これからが、本番だ。

 胸の奥で、もうひとつの鼓動が、強く応えた。

 教室の空気が。

 ゆっくりと。

 確実に。

 変わり始めていた。

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