表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/10

感情

 ――静かだ。

 あまりにも、静かすぎた。


「……おい」


 意識の奥へ呼びかける。


「……聞こえてるんだろ」


 返事はない。

 気配すらない。

 さっきまで渦巻いていた、知らない感情のざわめきが、嘘みたいに消えている。


「……マジかよ……」


 掠れた高い声。

 まだこの声。

 喉の違和感に、少し慣れ始めている自分が、情けなくて嫌になる。


 ベッドの上で、ゆっくり指を握る。

 動く。

 腕も、脚も。

 さっきの金縛りみたいな感覚はない。


「……夢じゃない、よな……」


 姿見へ向かう。

 鏡の中。

 黒髪の少女。

 眠たげな目。

 制服姿。

 何度見ても、俺じゃない。


「……相沢……みずき……」


 呟く。

 鏡の少女も、同じ口の動き。

 それだけだ。

 何も起こらない。


「……おい」


 もう一度。


「いるなら、返事しろ」


 徹底的な無音。


「……なんなんだよ……」


 理解不能。

 ただひとつ確かなのは――

 俺は死んだ。

 そして今、この女子高生の身体で生きている。

 それだけ。


 ◆


 机の上のスマホ。

 通知の山。

 カレンダー。

 平日。


「……学校、か……」


 セーラー服。スカート。

 現実感のない現実。


「……行くしかない、よな……」


 この身体の生活を、壊すわけにはいかない。

 母親の泣きそうな顔が、チラッと脳裏に浮かぶ。


『もう、あんなことしないで』


 他に選択肢がない。

 カバンを掴む。

 立ち上がる。

 その瞬間。


 ――ゾワッ。


 背骨を、氷の指でなぞられた悪寒。


「……っ?」


 足が止まる。

 心臓が、妙な跳ね方をする。

 胸の奥が、ざわつく。

 一歩、踏み出そうとする。


 ――やめて。


 声。

 はっきりと。


 ――行かないで。


「……お前……!」


 ――無理……無理……無理……


 感情の激流が、流れ込んでくる。

 恐怖。

 拒絶。

 パニック。

 視界が歪む。

 膝が笑う。

 頭の中に、チラチラと断片が浮かぶ。

 教室のざわめき。

 誰かの視線。

 背中を押されるような、冷たい笑い声。


『いなくなればいいのに』


「……くそ……!」


 無理やり歩こうとする。

 身体が、言うことを聞かない。


 吐き気。

 めまい。

 息苦しさ。

 スカートの裾が、太ももに張り付く感触が、妙に生々しい。


「……学校……行きたくないってか……!」


 ――嫌……嫌……嫌……


 頭を殴られているみたいな圧迫感。

 限界。


「……っ……!」


 カバンを落とす。

 ドサッ。

 同時に、拒否反応が、嘘みたいに引いた。


「……はぁ……はぁ……」


 荒い呼吸。

 汗で、制服の襟元がじっとり湿る。

 胸の膨らみが、息に合わせて上下するのが、気になってしょうがない。


「……なんだよ……今の……」


 答えは明白だった。


「……お前の感情、か……」


 返事はない。

 だが、今のは間違いなく――

 この身体の持ち主の、拒絶。


 ◆


「……じゃあ……」


 椅子に座り込む。

 思考を整理。


「……学校がダメなら……」


 別の場所を試す。

 俺の家。

 “元の俺”の家。


「……行けるのか……?」


 自嘲気味に笑う。

 女子高生が、四十三歳独身男の自宅へ。

 字面からして狂ってる。


「……でもな……」


 ここでじっとしていても、何も進まない。

 財布。

 スマホ。

 適当にコートを羽織る。

 鏡に映る自分の姿――長い髪が肩に落ちて、妙に女の子らしいシルエット。


「……寒そうだな、これ……」


 吐き捨てるように呟く。

 立ち上がる。

 今度は――

 何も起きない。

 悪寒も、拒絶も。


「……へぇ……」


 皮肉な笑みが浮かぶ。


「……学校はアウト、俺の家はセーフ、か……」


 ◆


 冬の空気。

 冷たい。

 頬を刺す。


「……寒……」


 吐いた息が白い。

 駅までの道。

 見知らぬ景色。

 だが、頭の奥で、ぼんやり地図が重なる。

 この身体の記憶。

 微かに、曖昧に。


「……気持ち悪いな……」


 他人の記憶で歩く感覚。

 電車。

 揺れ。

 座席に座ろうとして、スカートが捲れそうになる。

 慌てて手で押さえる。

 隣の視線を感じて、肩が縮こまる。


「……マジで情けねぇ……」


 窓に映る少女の顔。

 何度見ても、慣れない。


 ◆


 見慣れた駅。

 見慣れた街。

 胸がざわつく。

 懐かしさ。

 違和感。

 現実の歪み。

 歩く。

 角を曲がる。

 あのマンション。

 俺の部屋。


「……ある……」


 当然だ。

 昨日まで住んでいた場所なんだから。

 エントランス。

 オートロック。

 暗証番号。

 指が、自然に動く。

 開く。


「……入れるのかよ……」


 苦笑。

 エレベーター。

 廊下。

 扉。

 鍵。

 ……ない。


「……あ」


 当たり前だ。

 鍵も財布も、全部“あっちの身体”だ。


「……くそ……」


 そのとき。

 背後から声。


「……え?」


 振り向く。

 隣の部屋のドア。

 顔見知りの男。

 同じ階の住人。


「……あれ?」


 怪訝そうな視線。

 当然だ。

 知らない女子高生が、俺の部屋の前に立ってる。


「……すみません……」


 反射的に頭を下げる。

 高い声。

 完全に他人。


「……ここに住んでた人って……」


 言葉が引っかかる。

 過去形。

 胸の奥が、ざわつく。


「……住んでた……?」


 男は一瞬黙り、

 少し言いづらそうな顔をした。


「……ニュース見てない?」


「……え……」


「……この前、事故で亡くなったでしょ」


 心臓が、嫌な跳ね方をした。


「……え……?」


「……ほら、横断歩道で……」


 頭の奥で、世界がゆっくり傾く。


「……四十代くらいの男の人」


「…………」


「……名前、なんだっけな……」


 男は少し考えて、

 思い出したように言った。


「……相沢、だったかな」


 ――ドクン。

 強烈な鼓動。

 視界が滲む。

 音が遠のく。


「……あ……」


 喉が乾く。

 息が詰まる。


「……あ……」


 現実が、容赦なく確定する。

 俺は。

 本当に。

 死んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ