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見ててよ

二か月後。

空は、あの日とよく似ていた。


澄んでいて、どこまでも高くて、残酷なほど静かだった。


電車を降り、駅前の小さな花屋で白い花を買う。店主の女性は何も聞かなかった。ただ、そっと包んでくれた。その無言の優しさが、少しだけ胸に染みた。


霊園までの道は緩やかな坂になっている。冬の気配は薄れ、風にはかすかな春の匂いが混じっていた。


制服ではなく、私服。


それだけで、世界の見え方が違う。


歩きながら、みずきはぼんやりと考えていた。


二か月。


短いようで、長い時間。


学校の空気は、確かに変わった。


けれど――どう変わったのかを言葉にするのは難しい。


誰も露骨なことはしなくなった。


誰も何も言わなくなった。


笑い声は戻った。


日常も戻った。


だが、完全ではない。


何かが、静かに沈殿している。


水底の澱のように。


触れれば揺れる、微妙な均衡。


それでも。


みずきは、以前の自分ではなかった。


それだけは確かだった。



墓地の空気は独特だ。


音が吸い込まれる。


世界から一枚、膜が剥がれ落ちたような静寂。


石の列。


名前の刻まれた無数の証。


その中に――見つける。


見慣れたはずの名前。


見慣れないはずの現実。


みずきは立ち止まった。


小さく息を吸う。


そして、歩み寄る。


墓石の前。


花を供える。


線香の煙が細く立ち上る。


風に揺れる。


消えそうで、消えない。


「……久しぶり」


自然に、言葉が零れた。


自分でも少し驚くほど、穏やかな声だった。


しゃがみ込む。


石の文字を指でなぞる。


冷たい感触。


なのに、不思議と嫌じゃない。


「……なんかさ」


小さく笑う。


自嘲とも違う、柔らかな笑み。


「変だよね」


当然、返事はない。


ただ風が吹く。


線香の煙が揺れる。


「覚えてないんだよ、ほとんど」


ぽつり。


「ちゃんと顔も……声も……」


それでも。


みずきの表情は、穏やかだった。


悲しみよりも先に浮かぶ感情がある。


感謝。


安堵。


奇妙な確信。


「でもさ」


空を見上げる。


春の光。


淡い青。


「ちゃんと残ってる」


胸に手を当てる。


鼓動。


確かな、生きている証。


「ここに」



思い出せない記憶。


なのに消えない感覚。


矛盾。


でも、それでいい気がした。


人間の記憶なんて曖昧だ。


けれど。


感情は、妙にしぶとい。


「……助けてくれたんだよね」


小さく呟く。


それが事実かどうかは、もう分からない。


でも。


そう信じる理由は十分にあった。


あの日から。


世界の重さが変わった。


自分の中の何かが変わった。


恐怖の質が変わった。


絶望の形が変わった。


「……ねえ」


視線を墓石へ戻す。


柔らかな微笑み。


「ちゃんと生きてるよ」


風が吹く。


花びらが揺れる。


「ちゃんと笑ってる」


空気が静かに流れる。


「ちゃんと……前向いてる」


沈黙。


だが、不思議と孤独ではない。


墓石の前なのに。


どこか穏やかな時間。


みずきは小さく息を吐いた。


「……ありがとう」


自然に出た言葉。


取り繕いのない、本音。


「ほんとに」


立ち上がる。


軽く服の裾を払う。


帰ろうとする。


その時。


胸の奥で、何かが微かに疼いた。


違和感。


空白。


説明できない感覚。


足が止まる。


振り返る。


墓石。


花。


煙。


空。


すべては変わらない。


なのに。


視界が、じわりと滲んだ。


「……あれ……」


瞬き。


だが、滲みは消えない。


喉の奥が詰まる。


呼吸が浅くなる。


「……なんで……」


感情の正体が掴めない。


悲しい?


違う。


寂しい?


それだけじゃない。


もっと、曖昧で。


もっと、深くて。



ぽたり。


涙が落ちた。


自分でも気づかないうちに。


「……え……」


指で触れる。


濡れている。


はっきりと。


次の瞬間。


胸の奥が、崩れた。


「……ちが……」


言葉にならない。


理由がない。


なのに止まらない。


涙。


呼吸。


感情。


「……やだ……」


視界が歪む。


世界が揺れる。


膝から力が抜けそうになる。


「……やだよ……」


声が震える。


自分でも理解できないまま。


「……なんで……」


理解は遅れてやってくる。


理屈ではなく。


感覚として。


失われたもの。


埋められない空白。


記憶のない喪失。


存在していたはずの何か。


もう戻らない何か。



みずきは墓石を見つめた。


涙で滲んだ視界の中で。


「……ばか……」


嗚咽混じりの声。


「……ほんと……」


笑っていたはずなのに。


穏やかだったはずなのに。


「……ずるいよ……」


理由は分からない。


記憶もない。


なのに。


心だけが知っている。


「……ありがとう……」


涙が止まらない。


「……ほんとに……」


風が吹く。


線香の煙が揺れる。


空は、変わらず澄んでいる。


残酷なほど美しい。


みずきは泣いていた。


声を殺しながら。


石の前で。


春の光の中で。



そして。


泣きながら。


小さく笑った。


「……ちゃんと……生きるから……」


涙でぐしゃぐしゃの顔で。


それでも確かに。


「……見ててよ……」


返事はない。


当然だ。


だが。


風が、ほんの少しだけ優しく吹いた気がした。


空の青は、どこまでも続いていた。


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