誰だ
――痛い。
頭の奥が、鈍く、ずっしり重い。
殴られた後みたいな、二日酔いの朝みたいな、不快でだるい痛み。
次に、寒さ。
頬を撫でる冷たい空気。
鼻に抜ける、乾いた匂い。
……寒くね?
ゆっくり目を開ける。
視界が白く滲んで、焦点が合うまで数秒。
天井。
見覚えのない天井。
「……は?」
声が出た。
……出たはずなのに。
耳に届いたのは、自分の声じゃない。
高くて、軽くて、掠れた女の声。
喉を押さえようとして、腕を上げる。
――細い。
視界に入った手が、信じられない。
白くて、華奢で、指が長くて、爪がちょっと伸びてる。
「なんだこれ……」
掠れた高い声で呟く。
また、自分の声じゃない。
慌てて上半身を起こす。
身体が、妙に軽い。
なんか……揺れる。
視界の端で、黒い長い髪がさらりと揺れた。
「……は?」
頭に手をやる。
柔らかい。指に絡まる毛束。
肩を越えて、背中にまでかかってる。
思考が止まる。
ゆっくり周りを見回す。
六畳一間。
机。
本棚。
ハンガーに掛かったセーラー服。
壁のカレンダー。
知らない部屋。
「……夢か?」
呟いた瞬間、脳裏に強烈なフラッシュバック。
夜の交差点。
ヘッドライト。
キィィィッというブレーキ。
衝撃。
浮遊感。
アスファルトの冷たさ。
血の匂い。
――ああ。
思い出した。
俺、事故で死んだ。
「……死んだのか?」
自分で言って、寒気がする。
心臓がバクバクうるさい。
息が浅くなる。
「待て待て待て待て……」
状況整理。
43歳。
会社員。
独身。
残業帰り。
横断歩道。
トラック。
ここまでは確か。
なのに。
視線を下に落とす。
……胸が、ある。
制服のスカーフの下に、柔らかそうな膨らみ。
「……マジかよ」
下を見た瞬間、膝がガクッと震えた。
スカート。
膝上丈のプリーツ。
太ももが、むき出し。
「いやいやいや……」
慌てて立ち上がる。
身体が軽すぎる。
バランスが取れなくて、よろける。
ベッドから転がるように降りて、部屋の隅の姿見に駆け寄る。
鏡の前に立つ。
息を呑んだ。
そこに映っていたのは。
肩まで伸びた黒髪の少女。
少し眠たげな目。
白い肌。
華奢な肩。
完全に、女子高生。
「……誰だよ、これ」
鏡の中の少女が、同じタイミングで口を動かす。
「いや……俺、なのか……?」
頭が追いつかない。
そのとき。
机の上のスマホが、ブブッと震えた。
ビクッと肩が跳ねる。
ロック画面を見る。
『相沢みずき』
「……は?」
俺の名前だ。
43年間使ってきた名前。
でも、画面の写真は――
セーラー服姿の、この顔の少女。
「同姓同名……?」
喉がカラカラになる。
震える指でスマホを掴む。
パスコードを、なぜかスラスラ入力できた。
ホーム画面。
LINE。
通知99+。
開く。
一番上に、『ママ』
未読のトーク。
『みずき、起きてる?』
『朝だよ』
『学校あるでしょ』
『返事して』
『ねえ』
『みずき』
『お願いだから』
『もう、あんなことしないで』
「……は?」
背筋が凍る。
次の瞬間。
ドアがバン!と開いた。
「みずき!!」
四十代後半くらいの女性。
顔色が悪い。
目の下に濃い隈。
必死の表情。
「……え」
言葉が出ない。
女性は一瞬固まって、
次の瞬間、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
強く抱きしめられる。
温かい。
震えてる。
「よかった……本当に、よかった……」
嗚咽混じりの声。
混乱の中で、視界の端に映るもの。
机の上。
開いたノート。
カッター。
走り書きの文字。
『ごめんなさい』
心臓が止まりそうになる。
「……自殺、しようとしてたのか……?」
呟いた瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
――違う。
俺の感情じゃない。
絶望。
恐怖。
悲鳴。
視界が歪む。
胸が締め付けられる。
息ができない。
涙が、勝手に溢れる。
俺、泣いてねぇのに。
頬を伝う熱い雫。
指先が、勝手に震えて、カッターの方へ伸びそうになる。
――やめろ。
女性が気づく。
「みずき……? 大丈夫?」
優しい声。
でも、その瞬間。
頭の中で、はっきりと別の声が響いた。
――返して。
「……え?」
鏡を見る。
涙で滲む少女の顔。
その奥に、もうひとり。
確かに、いる。
――返してよ。
「……お前、誰だ……?」
問いかけた瞬間。
視界が、暗転した。




