9.記憶の奥にある名前
澪はノートを抱きしめたまま、庭のベンチに腰を下ろした。蝉の声がかすかに聞こえる。青空には雲ひとつなく、澄みきったその色が、逆に胸に染みた。
> 「誰かの痛みを、“わかりたい”と思うことはできる。」
遼の言葉は、優しすぎて、苦しかった。
「私の痛みより、自分の痛みのことを……もっと話してほしかったのに」
澪は誰にも聞こえないように、小さな声で呟いた。
ふと、ノートの最終ページに、小さな紙切れが貼られていた。そこには病院名、そして「K・H」という名前が記されていた。病室番号のような数字と、見慣れぬイニシャル。
直感的に澪は思った。
——これは、遼が最後に向かった場所を示している。
その名をスマートフォンで検索すると、小さな病院のサイトが表示された。緩和ケアに特化した施設。一般の目には触れにくい、静かな場所だった。
翌朝、澪はその病院を訪ねた。受付に行くと、応対した女性スタッフが微かに目を見開いた。
「篠原さんの知り合いの方ですね?」
「はい……彼を探しています。“K・H”という方をご存知ですか?」
スタッフは少し黙ってから、うなずいた。
「K・Hさんは……小早川日葵さんという方です。篠原さんの、大切な……“人”でした」
澪の心臓が、ひとつ大きく脈打った。
——“人”? 誰、それは。
案内された個室には、すでに誰の気配もなかった。ただ、窓辺に小さなアルバムと、封筒が残されていた。そこには、澪の名前が記されていた。
恐る恐る手に取って開いた封筒の中には、遼の筆跡で綴られた最後の手紙。
> 澪へ
僕が最後まで隠していたこと、それは、もう一人の“守りたかった命”の存在。
日葵は、僕の妹なんだ。
両親が亡くなってから、施設に預けられていた日葵に会えたのは、ほんの2年前。
けれど、再会したときには、もう彼女の命は長くなかった。
僕は、彼女の残された時間を支えることにすべてをかけた。
でも、そのことを澪に話すと、きっと君は自分を責めると思った。
君が何も知らないままでいることが、唯一の優しさだと思った。
それが間違いだったとしても——
澪は膝の上で手紙を握りしめ、うつむいた。
——日葵。彼が守りたかったもう一つの命。
それを隠していたのは、彼の「優しさ」であり「弱さ」だった。そして、それは澪に対する深い愛でもあった。
小さなアルバムの中には、遼と日葵が笑い合う写真。その最後のページに、こんなメッセージが添えられていた。
> 「お兄ちゃんがいちばん大切にした人へ。
どうか、笑っていてください」——日葵