5.もうひとつの約束
写真の下に書かれていた一文を、澪は何度も指でなぞった。
「君が笑ってくれるだけで、生きる理由になった。」
この言葉が遼の本心なら、どうして何も言わずに消えたのだろう。どうして「隣にいる資格がない」なんて、自分で断ち切るような言葉を選んだのか。
写真が貼られていた古い掲示板の隅に、もう一枚、紙が挟まっていた。封筒ではない、メモ用紙の切れ端。そこにも遼の字で、こう書かれていた。
> 次は、君と最後に約束した場所で待ってる。
澪だけが覚えているあの景色の中で。
——最後の約束。
澪はその言葉を心の中で繰り返した。最後に遼と約束をしたのは、あの年の夏。ふたりで終電を逃し、海まで歩いた夜。
海沿いの防波堤に座って、ただ黙って波の音を聞いていた。そのとき、遼が言った。
「いつか、全部話すよ。隠し事はなしで。」
そして、澪も言ったのだ。
「そのとき、ちゃんと受け止める。何があっても。」
ふたりだけの夜。波の音と、潮の匂い。灯台の光がゆっくりと回っていた——
あの夜の記憶が、痛みと共に胸に蘇る。
澪はその日のうちに、電車に飛び乗った。何年も行っていなかった海辺の町。終点の小さな駅で降りると、潮風が肌を撫でた。
町は変わっていなかった。錆びた看板、潰れた土産物屋、そして、あの防波堤。
澪はゆっくりと歩き出した。夕暮れの空が、薄紅に染まっていく。波音だけが静かに響くその先に、人影はなかった。
でも、そこには何かがあった。
手すりにかけられた黒いカーディガン。遼がいつも羽織っていたもの。風に揺れて、彼の匂いがした気がした。
ポケットの中に、また一通の手紙。
今度は、短くこう書かれていた。
> ここまで来てくれて、ありがとう。
でも、もう僕は——君の前に現れることはできない。
澪の足が震えた。涙が頬をつたい、こぼれた。
「どうして……っ」
手紙の最後には、ただ一言。
> 君の幸せを、遠くから祈っています。
澪はその場にしゃがみ込み、風の音にかき消されるような声で呟いた。
「勝手に……終わらせないでよ……」
夕陽が落ち、空は紫に沈んでいった。彼の姿は、どこにもなかった。