名も知らぬあなたが親切にしてくれたおかげで。
いよいよ明日は江戸へ出発するという日の昼下がり。
おれは大坂城のお堀を眺めながら一人でぼんやりとしていた。
大坂もこれで見納めになるのかも知れないと思うと感慨深かった。
「せつや殿」
と背後から声をかけられたのは、そんな折りだった。
振り向くと、そこには……。
「ああ、秀頼様」
「違うぞ。いまの儂は家康じゃ」
「そうでしたね」
「少し話がしたい。よいかな?」
「もちろん」
秀頼、もとい最後の徳川家康がおれの横に並ぶ。
「億良殿に聞いたのじゃが、お主らの時代はなかなか住みよい世界なのだそうじゃな」
「少なくとも、戦はないですね」
「ふむ。無益な殺し合いはないか」
「はい。異国では戦を続けているところもありますが、日本は基本的には平和です」
「武士がいなくなっていると聞いたが」
「武士も公家も消滅しました。人間はみんな平等ということになっています」
「平等?」
「身分の差がなくなって、誰もが自分で生き方を選べるようになっています」
建前上は、とおれは心の中で付け足す。
「生き方を選べるか。それはなによりじゃ」
そう、それはきっと「なにより」なんだろう。
領地や天下を巡って、お家のためにと殺し合いを繰り広げる戦国時代に比べると、おれの生まれ育った世界は恵まれた世の中なんだろう。なんだかんだ言って。
その戦国時代はいよいよ終わりを迎える。
その幕引きを決断したのは、この二百二人目の徳川家康だ。
彼はこのあと、徳川秀忠に家督を譲り、引退をする。
そして家康として死に、本来の秀頼も死ぬことになっている。記録上は。
「家康を辞めたあと、秀頼様はどうするおつもりなんですか?」
「儂も自分で生き方を選ぶ。好きなことだけをして生きていきたいと思うておる。余計なことは考えずに」
「お茶とか和歌とか能とかでしたっけ?」
「そうじゃな。人が生きていく上で、なくてもいいものを楽しみながら過ごしたい」
「人はそれがなくても生きていけますが、それがないと味気ない人生になりますからね」
「ははははは」
と、そこで家康は笑う。
「そんな大層なことではない。儂はただただ、のんびりと生きたいだけじゃ」
「そうですか」
ま、この人もこの人でいろいろあったからな。
自分が生まれたせいで四十人もの人間が殺されたというトラウマな過去もそうだが、秀吉の息子というプレッシャーも決して小さくはないだろう。
いろんなことをすべて捨て去り、歴史の上ではあっさり死んだことにしてでも一線から退きたいという気持ちは……これはもう本人にしか分からないものだ。
他人のおれがとやかく言うことでもないし、その選択を称賛するのもおこがましい。
「ともあれ、せつや殿。お主には感謝しておる」
「おれに? いや、すべてを仕切ったのは億良さんですし、おれはたいしたことはしていませんよ。マジで」
「マジ?」
「はい、マジで」
「いや、マジとはどういう意味なのかを聞いたのじゃが」
「あ、そっちね」
おれは言葉の意味を説明して、改めて「感謝されるいわれはない」とくり返した。
「そんなことはないぞ、せつや殿」
と相手もなかなか強情だ。
「遠い先の時代、いまのこの世から連綿と続いていく先の先の時代。そこにお主のような若者が生まれ、平和な世を謳歌しておる。自分の選んだ道を歩んでおる。それを知っただけでも儂はうれしいのじゃ」
「そういうものですか」
「お主は甲賀のくノ一たちとやり合った時、一人も殺さないようにしたそうじゃな」
「そうですね。人を殺すのは気分のいいものではないですから」
「それを聞いたら、なおさらうれしいわい」
「ははは」
「豊臣の姓など、いくらでも捨てていいほどにな」
「………」
それは取りようによっては父・秀吉に対する強烈なカウンターでもあっただろう。
出世欲のかたまりだった秀吉の、その象徴とも言えるのが「豊臣」という公家の姓だ。
その豊臣の姓のために何人の命が奪われたことか……。
「お主は元の世界にいつ帰るのじゃ?」
「まだ決めてないんですよ。なかなか名残惜しくて、この時代も」
「まあ、急ぐこともなかろう」
「ですね」
「見てみたいもんじゃな、お主たちの世界を」
「ビックリしますよ」
「ははははは。そうじゃろうな」
大きな声で笑ったあと、家康……秀頼は「話せて楽しかった」とおれにうなずきかけ、そして去って行った。
その翌日。
江戸城へと向けて出発する一行をおれは見送った。
そう、見送り。
おれは一緒に江戸には戻らないことにしたのだ。
と言っても、この大坂から元の世界に戻ろうというわけでもない。
億良さんではないが、もう少しこの時代の日本を見ておくのも悪くないと思ったのだ。
これはルエルに確認したことだが、元の世界の時間の経過については心配無用らしい。召喚時とほぼ同じ時刻に戻れるそうだ。
「なんだよ。だったら」
とおれは思ったのだ。もう少しこっちにいてもいいじゃないか、と。
となると急いで江戸に帰る必要もない。なので一行を見送ることにしたわけである。
「縁があったら、また会おうぜ」
という億良さんと握手を交わし、他の人たちにも挨拶をした。
そしてその絢爛豪華な行列を見送ったあと、おれは両脇にいる二人に言った。
「さて、おれたちも行くとするか」
「まずはどちらへ?」
「大坂城の人に聞いたんだけど、近くにおいしい寿司屋があるんだって」
「お寿司ですか」
「うん、大坂すしってのが評判らしい。それを食べてみたいな」
「私も食べてみたい! ちょうどお腹が空いてきたぞ、セツヤ!」
「私もさきほどからお腹が鳴っております。でも、せつや様」
「ん?」
「腹ごしらえをしたあとは?」
「あの村に行こう」
「あの村?」
「どの村だ⁉」
「おれたちに野良着をくれた、あの赤ん坊をだっこしていたお母さんのいる村だよ」
「おむすびも作ってくれましたね」
「美味しかったな!」
「うん、そう。そこに行って、ちゃんとお礼をしよう」
「お礼ですか」
「お礼なのか!」
「うん、そうだよ」
とおれはお萌とルエルに言う。
「おかげさまで、生き延びることができましたって、ちゃんと言いに行こう」
名も知らぬあなたが親切にしてくれたおかげで、おれたちは今日もこうして生きている。




