ケルベロスは武士たちから頭を撫でられていた。尻尾がパタパタ揺れている。
徳川四天王に言ったように、おれが知っている歴史では徳川家康率いる東軍は関ヶ原の戦いにおいて辛うじて勝利を収めた。
だが、戦の前半戦はかなりやばかった。
石田三成率いる西軍は総勢およそ10万。一方の東軍は7万だ。
開戦当初は一方的に攻められていた東軍だったが「小早川秀秋」という西軍の武将の裏切りをきっかけに形勢が逆転する。
小早川勢は唐突に味方に襲いかかり、それに驚いた西軍の連中はパニクった。
そのタイミングを逃さず東軍が攻め込み、最終的に勝利を収めたというわけである。
ということはつまり、関ヶ原の戦いにおけるキーパーソンは小早川秀秋ということになる。
小早川秀秋という人物の詳細についての知識はおれにはなく、これは四天王から聞いた話なのだが、この人は豊臣秀吉の養子だったことがあるらしい。
ゆくゆくは天下人になる予定だったが、秀吉の実子である秀頼が生まれたことで養子縁組を解消されてしまった。
そのあと、小早川家に養子に出されたというから、屈折した人生を送ったと思える。
いや、いままさに送っているのか。
秀吉には他に養子がもう一人いたが、その人物も非業の死を遂げている。
おれは四天王に「なんとしても小早川秀秋を味方につけること」とアドバイスした。彼らは早速コンタクトを取り始めたようだ。
元の世界に戻して欲しいというおれの願いも彼らは聞き入れてくれた。
徳川300年の世を作るための貴重な情報をもたらしたのだから、例外的に認めていいとの判断だ。
「例外的に」というのは他でもない、代々受け継がれてきた「徳川家康」には一つのルールがあった。
それは「新たに徳川家康をたてるのは、前任者が死んだ時」というルールだ。そうしないと恣意的な思惑が入ってしまうから……というのが、その理由だ。
家康として擁立したはいいものの、途中で「どうもこの者はふさわしくない」と別の人間に交代させるということを認めると、それ以降は「本当にこの者でいいのか?」という目で見てしまうようになる。あら探しをするようになる。
誰が徳川家康になってもなんらかの欠点を見つけ出し、満足できなくなる。なので「死んだら交代」という原則が決められたわけだ。
四天王は今回に限って、それについては目をつぶると約束してくれた。「武士に二言はござらぬ」とまで言ったので信用していいだろう。
ちなみに徳川家康になった者には葵の紋をあしらった印籠が授けられる。肌身離さず持っているようにと言われたが、これを所持していることが公認・徳川家康ということになるらしい。
この時代のヘアスタイルはちょんまげが主流だが、おれは「マジでそれだけは勘弁してほしい」と断った。ちょんまげ姿で元の世界に戻ったら悲喜劇が生じるだけだ。
四天王は迫り来る関ヶ原の合戦に向けてあれこれと忙しいようだった。
徳川家を実質的に運営しているのは彼らなので、おれはノータッチ。自由に行動していいとのことだ。
せっかくこの時代に来たのだから、とおれはお萌やルエルと一緒に江戸の町を散策してみたが、まだ江戸幕府が開かれる前なので、さほど賑わってはいなかった。どことなく急ごしらえの町のようにも見えて、面白いとは思えない。
それよりも、徳川家の武士たちに混じって行う剣稽古のほうが面白かった。江戸城の敷地の一画には稽古場が設けられていて、そこで剣稽古が行われていたのだ。
なにしろ相手は現役の侍である。腕の立つ人がたくさんいた。
おれは小学生時代から剣道を習っていて三段を取得している(ついでに言えば空手も黒帯だ)。だから強い相手と戦うのは楽しかった。
ちなみにこの時代、すでに竹刀は存在していて、それを使っての稽古である。
「殿はお強いんですね」
何度目かの試合を終えて息を荒くしているおれにお萌が言った。湿らせた手ぬぐいでおれの身体を拭こうとする。
「あ、いいよ。自分でできるから」
とおれが手ぬぐいを取ろうとすると「ふふふ。そうはいきませんよ」と笑い、のしかかるようにして身体を拭いてきた。抵抗すればするほどお萌は楽しそうに身体にからみついてくる。
「お萌」
「なんでございましょう?」
「拭いてくれるのはいいけど、指を這わせるのはやめてくれる?」
「あら。ついうっかり」
「ウソつけ」
そんなおれたちを武士たちは微笑ましそうに見ている。
正直な話、おれとしても悪い気分ではない。
お萌は美少女で巨乳だし、気立てもいい。こういう状況でなければ仲を深めてもいいと思っている。
だがしかし。
おれはそうなることを自分に戒めていた。なぜなら、じきにお別れすることになるからだ。
思いが深まれば、別れも辛くなる。
「殿。お水もご用意しています」
「うん、ありがと」
「口移しでよろしいですか?」
「いや、自分で飲めるから」
コップを受け取り、いっきに飲み干した時。
突然、稽古場の真ん中に怪物が現れた。
ケルベロス。
三つの首を持つ犬の化け物。
異名は確か「地獄の番犬」。
おれはあまりのことに呆然とし、口をぽかんと開けて、その怪物を見ていた。
まわりの武士たちも同じなのだろうか、誰一人動こうとしない。
ケルベロスは青白い燐光を放ちながら、おれたちのほうにゆっくりと近づいてきた。
「ぐるるるる」
と低い唸り声をあげている。
おれは竹刀を手にして立ち上がり、お萌の前に立つ。
「殿」
「下がってろ」
そう言って竹刀を構える。
勝てるかどうかは分からないが、背中を向けたら襲いかかってくるはずだ。
怪物とはいえ、ベースは犬。逃げる気配を見せた者を追いかける習性は備わっているだろう。
であれば、逃げずに立ち向かうというのが選択すべき行動だ。
ケルベロスは唸りながら身を低くし、おれを睨みつける。三つも頭があるので迫力満点だ。おれも負けじと睨みつける。
しばらく睨み合いが続いたが、やがてケルベロスはが床を蹴って飛びかかってきた。
おれはその真ん中の頭を狙い、鋭く竹刀を打ち込む。
「きゃん!」
とケルベロスは悲鳴をあげ……尻尾を巻いて逃げていった。
「え? なに?」
おれが再び呆然としていると、
「見事だ、イエヤス!」
ルエルの声がした。
見ると稽古場の入口にルエルがいて、その足もとにケルベロスがうずくまっていた。
「えーと、どういうことかな?」
「このケルベロスは私が召喚したんだぞ!」
「ほう」
「驚いたか!」
「うん、そうだね」
おれはやれやれと腰をおろし、お萌から水のおかわりをもらう。
「お萌は知ってたの?」
「存じておりました」
「あっそ」
他の武士たちもそうらしい。道理で誰も騒がなかったわけだ。
「もっと驚け、イエヤス!」
とルエルがドタドタと近づいてくる。
ケルベロスは武士たちから頭を撫でられていた。尻尾がパタパタ揺れている。
「ルエル。なんでケルベロスなんか召喚したんだ?」
「イエヤスがどれほどの度胸の持ち主かを試したんだ!」
「へえ、それはそれは」
「殿。ご立派でした。とっさに私をかばって下さいましたね」
お萌がうれしそうに言う。
「そうだっけ?」
「うふ」
「私が危ない時もイエヤスは守ってくれるのか!」
「ケルベロスに守ってもらえよ」
「あいつは弱い」
「確かにね」
そう言うとルエルは唇を尖らせる。
「いっつもあいつが来るんだ」
「ん? てことは、他にもケルベロスがいるってこと?」
「そうだ! ケルベロスは私の眷属だぞ」
よく分からないけど、眷属がいるってのはカッコイイ。
「私も喉が渇いた。水が欲しい!」
「はいはい」
おれはお萌の注いでくれた水をルエルに渡す。
「ほらよ。自分で飲むか、それとも口移しがいいか?」
「ふぇ?」
「冗談だよ」
「ふ、ふん。分かってた!」
「ルエル。顔が真っ赤だぞ」
「うるさい!」
……と、そんな日々を過ごしながらおれたちは関ヶ原の戦いが起きるのを待っていた。
おれが召喚されてから10日ほどがたった頃、四天王から出発する旨の連絡を受けた。
出発の日は朝から肌寒く、冬と言ってもいいほどの気温だった。
お萌に日付を聞くと「9月1日でございます」と教えてくれた。
九月でこの寒さは異常だが、この時代はまだ太陰暦を使っていることを思い出した。
元の時代で言えば10月くらいか。それでも寒すぎる。