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100人目を記念して子作りが許されたらしい。

 できるだけ急いだこともあり、江戸には八日で着くことができた。

 しかし、時すでに遅しだった。

 徳川家ではクーデターが起きていた。

 いや、戦国の世らしく下剋上と言ったほうがいいだろうか。

 もっともこの場合は「上剋下」というべきか、徳川家ならではの複雑な下剋上だ。


 とうとう徳川家康が実権を握ったのである。


 他の大名家では当主が実権を握っているのは当然だが、徳川家の場合は異なる。

 徳川四天王と呼ばれる四人の家臣たちが実質的な権力者だった。

 徳川家康というのはあくまでもシンボルでしかなく、だからこそそのシンボル性を維持できれば誰が家康になっても良かった。

 結果的に徳川家康は不死性を帯び、それが徳川家への畏怖の感情を周囲に与えていた。


 普通なら当主が死んだら世代交代が起き、そうなるとだいたいは弱体化するためだ。信玄亡きあとの武田家がいい例だ。

 その意味では徳川家が弱体化する可能性はなく、それが畏れを生んでいた。

 しかし不死性を帯びていた徳川家康が実権を握ったということは「生身の人間」に戻ったということだ。

「徳川家康」が寿命を迎えようとしていることであり、徳川家も他の大名家と同じになるということだ。


 徳川家にとっては一大事だが、豊臣家にとっては?

 これ以上の朗報はない。

 なにしろ天下人である豊臣秀頼の座を脅かす存在がいなくなるのだから。

 そして、その不死性を捨てた家康こそ、豊臣家が放った「刺客」だったのだ。


 201人目の徳川家康は四天王を次々に地下牢へ放り込んだ。

 そして彼らが管理していたさまざまな実権を自身のもとに集約させた。

 さらに息子の秀忠も徳川家の運営に参加させた。

 秀忠は100人目の家康の子どもだ。100人目を記念して子作りが許されたらしい。


 豊臣側の人間なのに、なぜ家康は秀忠を運営に参加させたのだろう? 

 よく分からないが、なんらかの意図はあるのだろう。なにしろ策士だ。

 ともあれ、徳川家ではそんな風に大改革が行われていた。

 改革というよりも弱体化と言ったほうがいいのかも知れないけど……。


 以上の情報は先に到着していたIKB10のメンバーから聞いたものだ。


 オッケー、状況は分かった。


 で、お萌は?

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